次の箇所でプルーストはアルベルチーヌの言葉について注目すべき特徴を上げている。「意識をとり戻したアルベルチーヌは、愛らしいことばをいくつも口にするが、それらはたがいに結びつかず、ただ小鳥のさえずりにしか聞こえない」。眠りから醒めた時のエピソードだから誰しも経験があるだろう。だがなぜ「それらはたがいに結びつか」ないことが可能なのか。なぜならそれらはどれもそもそもの始めから<諸断片>として、何ら脈略を欠いた無数の素材としてあちこちに転がっているだけであって、本来的にてんでばらばらに散らばっているに過ぎないからである。そしてそれは「慣習的なことばや決まり文句や誤用の傷痕などでたえず汚される」以前のほんのいっときの奇跡的時間帯に起こるのが常だ。
「しばらくすると意識をとり戻したアルベルチーヌは、愛らしいことばをいくつも口にするが、それらはたがいに結びつかず、ただ小鳥のさえずりにしか聞こえない。一種の配置換えというべきか、ふだんはほとんど目立たないアルベルチーヌの首が、いまや美しすぎるほど立派に見えて、眠りによって閉ざされた目が喪失した途方もない重要性を備えるに至った一方で、ふだん私の話し相手になる目には、瞼が閉じられ、もはや話しかけることはできない。開いた目の発するまなざしが過剰に表現するほかなかったものを閉じた目はことごとく抹消し、そのことによって顔に無垢で真剣な美しさを付与するのと同様に、目覚めのときにアルベルチーヌの口から出てくることばは、意味がないわけではないが沈黙によって途切れる結果、ふだんの会話のように慣習的なことばや決まり文句や誤用の傷痕などでたえず汚されることはなく、清らかな美しさを備えていた」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.247~248」岩波文庫 二〇一六年)
アルベルチーヌはステレオタイプ(紋切型)な習慣によってたちまちありふれた一人の女に戻ってしまうわけだが、そのすぐ直前、睡眠と覚醒との<間>の時間帯、ラカンに言わせれば「同時にあれでもあり、これでもある」という脱中心性を生きる。
「私達はこれまで、ヒステリー者の置かれている位置の特徴は、まさに男と女というシニフィアンの二つの極に関わる問いであるということを見てきました。ヒステリー者は全存在を賭けてこの問いを問うのです。つまりいかにして男であり得るか、あるいはいかにして女であり得るか、と。しかし自ら問いを立て得るということは、ヒステリー者はそれでもそのことの拠り所を持っているということをも意味しています。この問いにおいてこそ、ヒステリー者自身の性が疑問に付されていることを示す異性の人物への基本的な同一化によって、ヒステリー者の構造のすべてが導入され、宙づりにされ、保たれているのです。ヒステリー者のこの『あれか、これか』という問いに対して、強迫症者の解答、つまり『あれでもない、これでもない、男でもない、女でもない』という否定が対置されます。この否定は、死すべき運命にあるという経験に関わるものですが、そのような存在を問わないように隠すこと、つまり宙ぶらりんのままに留まる一つの仕方です。強迫症者は確かにあれでもないこれでもないのですが、彼は同時にあれでもあり、これでもあるのだと言うこともできます」(ラカン「精神病・下・20・呼びかけ、暗示・P.157」岩波書店 一九八七年)
マルクスから引けばこうなる。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.118~120」国民文庫 一九七二年)
プルーストはそんな時のアルベルチーヌの声を「小鳥のさえずり」と言っている。「様々な声による一種の音楽」とラカンはいう。
「精神病の現象像においては、或るランガージュが突然前景へと現われ、そのランガージュとの間に、或る関係が精神病の初期から末期に至るまで維持されているということは誰の目にも明らかではないでしょうか。このランガージュはただそれだけで、声高に語り、そのざわめきと喧噪の内で、そしてまたその孤立性の内で語ります。神経症者がランガージュに住んでいるとすれば、精神病者はランガージュによって住まわれ、所有されているのです。重要なことは、患者が或る試練にかけられているということ、つまり、人間の経験の日常的なこと、誰にでもあることを支えている絶えざるディスクールに関係する何らかの欠落にさらされているということです。この絶えざる独語から何かが切り離され、その様々な声による一種の音楽として現われるのです」(ラカン「精神病・下・20・P.157~158」岩波書店 一九八七年)
同じことだが「エクリ」では「交響楽の総譜」と書いている。だがプルーストは、アルベルチーヌが精神病だと言いたいわけでは全然ない。逆であって、そのようなアルベルチーヌがもし精神病だとしたら、それこそ世界中の人間はむしろ積極的に精神病なのではないかと問うているのである。不意に訪れることだが、或る時間に限り、とりわけ眠りから目が覚めようとしているごく僅かな時間にそういう状態に入った経験のない人間はどこにもいないということが何よりの証拠だろう。プルーストはいう。
「その目覚めは、ふたりがともに経験した前夜のできごととはなんの関係も持たず、まるで夜から朝があらわれ出るようにただただ本人の眠りから出てくることを承知していたからである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.248」岩波文庫 二〇一六年)
プルーストは「前夜のできごととはなんの関係も持たず、まるで夜から朝があらわれ出るように」と書きつつ、何食わぬ顔で読者に向けて<あなたはどうか?>と間違いなく問いかけている。随分前の箇所ですでに夢について述べられた内容を含む。
「そんな熟眠から醒めてしばらくは、自分自身がただの鉛の人形になってしまった気がする。もはやだれでもないのだ。そんなありさまなのに、なくしたものを探すみたいに自分の思考や人格を探したとき、どうしてべつの自我ではなく、ほかでもない自分自身の自我を見つけ出すことができるのか?目覚めてふたたび考えはじめたとき、われわれの内部に体現されるのが、なぜ前の人格とはべつの人格にならないのか?何百万もの人間のだれにでもなりうるのに、いかなる選択肢があって、なにゆえ前日の人間を見つけ出せるのか不思議である」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.187~188」岩波文庫 二〇一三年)
まさしく「なくしたものを探すみたいに自分の思考や人格を探したとき、どうしてべつの自我ではなく、ほかでもない自分自身の自我を見つけ出すことができるのか?」。まったく不思議である。その点で言えばどんな人間もアルベルチーヌとそれほど違わない位置にいる。アルベルチーヌはそのことを隠そうとしないが、他の多くの人々はまるで信じて疑っていないという驚くほどお目出たい習慣に全身そっくりそのまま染め抜かれてしまっているに違いない。