アルベルチーヌの変身は様々な形態を見せる。とりわけ植物への変身はアルベルチーヌ独特の変身として極めて特徴的である。「蔓(つる)を伸ばしつづける蔓性植物マルバアサガオのようでもあった」。
「なにかを取りにゆく口実を設けていっとき部屋を出て、そのあいだアルベルチーヌを私のベッドに横にならせておいた。戻ってみるとアルベルチーヌはもう眠っていて、私が目の当たりにしたのは、本人が完全に正面を向くとそうなるべつの女性であった。といってもアルベルチーヌはたちまちその個性を変えてしまう。私がそのそばに横になって、ふたたび横顔を見るからだ。私がその手をとったり肩や頬のうえに私の手を置いたりするのも自由自在で、アルベルチーヌはあいかわらず眠っている。その顔をかかえて乱暴に向きを変え、その顔を私の唇に押しあてたり、その両腕を私の首に巻きつけたりしても相も変わらず眠っているさまは、まるで止まらずに時を刻みつづける時計のようでも、どんな姿勢をとらせても生きつづける動物のようでも、どんな支柱を与えてもそこに蔓(つる)を伸ばしつづける蔓性植物マルバアサガオのようでもあった」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.243~244」岩波文庫 二〇一六年)
しかしそれもまたアルベルチーヌの変容過程の一つに過ぎない。アルベルチーヌには中心というものがない。それこそプルーストが言いたかったことであり、またその時代のヨーロッパ各地で新しく現れた人間の特徴である脱中心化という不可避的傾向だった。諸商品の無限の系列を参照しよう。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.118~120」国民文庫 一九七二年)
さらに「アルベルチーヌ自身が一つの楽器で、演奏する私がその弦のひとつひとつから異なる音をひき出して楽器にさまざまな転調を奏でさせているかのようである」。楽器にもなり、その「音楽にときに人間の声が加わることもあった」。
「私が手を触れると、そのたびに寝息だけが変化する。まるでアルベルチーヌ自身が一つの楽器で、演奏する私がその弦のひとつひとつから異なる音をひき出して楽器にさまざまな転調を奏でさせているかのようである。私の嫉妬は鎮まってゆく。その規則正しい寝息がはっきり示しているように、アルベルチーヌがただ息をする存在以外のなにものでもなくなったように感じられるからである。この寝息をつうじて表現されているのは純粋に生理的な機能であって、この機能は、さらさらと流れるだけで、ことばの厚みも沈黙の厚みを持たず、いかなる悪も知らないがゆえに、人間から出てきたというよりも葦(あし)のうつろな茎から出てきた息吹というべきか、それに耳を傾けているとアルベルチーヌが肉体的のみならず精神的にもあらゆるものから守られていると感じる私にとっては、文字どおり天国の息吹であって、まさに天使たちの汚れなき歌声であった。とはいえふと私は、この寝息のなかには、記憶がもたらす多くの人間の名前が奏でられているのかもしれないと思った。この音楽にときに人間の声が加わることもあったからである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.244」岩波文庫 二〇一六年)
アルベルチーヌは一体どれほど多元的な要素を持ち、なおかつそれらの諸要素を次々と移動していくか。音楽という観点ではシャルリュスがそうであるように極めて無数の多元性を持っている。二箇所引いておこう。
(1)「氏の声そのものが、このような微妙な考えを表明するときには高音となり、中音域を充分に鍛えていないために青年と女が交互に歌う二重唱のように聞こえるコントラルトの声に似て、許嫁(いいなづけ)の娘たちや修道女たちの合唱隊を内にふくむ意外なやさしさを帯びるがゆえの愛情がにじみ出るように思われた。とはいえ自分の声のなかにこんなふうに若い娘の一団を宿していると聞こえることは、あらゆる女性化に怖じけづくシャルリュス氏にとっては、どんなに遺憾なことだったであろう。しかもこの娘たちの一団は、感情にまつわる曲目を演奏したり転調したりするときにあらわれるだけではない。シャルリュス氏が話しているあいだ頻繁に聞こえてくるのは、寄宿舎の女生徒やコケットな娘の一団の甲高(かんだか)く無邪気な笑いで、それが悪意にみちた歯に衣(きぬ)着せぬ抜け目のないもの言いによって、そばにいる氏の声を調整してしまうのである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.271」岩波文庫 二〇一二年)
(2)「それは氏独特の笑いであった。それはおそらくバイエルンなりロレーヌなりの祖母から受け継いだ笑いで、その祖母も同じ祖先の女性から受け継いでいたので、ヨーロッパのあちこちの古い小宮廷では何世紀にもわたり変わらぬ笑い声が同じように響いて、人びとはその声の貴重な特徴を、めったにお目にかかれないある種の古楽器の特徴のように味わうことができたはずである。ある人物の全体像を余すところなく描くには、そのすがたの描写に加えて声の模写が必要になるはずで、この繊細にして軽やかな小さな笑い声を欠いてはシャルリュス氏という人物の描写は不完全になりかねない」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.213」岩波文庫 二〇一五年)
ニーチェが明らかにしたように、十七世紀から十九世紀末にかけてすでに人間というものは、或る一人の人間の中に無数の人間を出現させる<諸断片>のモザイクと化していたのである。