アルベルチーヌの嘘はパターン化されていて実にわかりやすい。こうある。
「たしかにバルベックでは、レアの名前を聞くとアルベルチーヌは、特別にまじめくさった口調になって、あんな身持ちのいい女性を疑うのはけしからんと言わんばかりに、私にこう言っていた、『あら!とんでもない、全然そんな人じゃなくて、とても立派な女性よ』。残念ながら私にとってアルベルチーヌのこの種の断言は、そのあとに必ずくるくると変わる断言がつづく第一段階にすぎなかった。最初の断言のあとには、こんな第二の断言が出てくる、『そんな人、あたし知らないわ』。当初は『そんな疑いなどかけようもない』人だと言い、つぎに(第二段階では)『そんな人、知らないわ』と言っていたのに、第三段階では知らない人だったことをまずは少しずつ忘れ、つぎにうっかり『馬脚をあらわして』その人を知っていると言いだす。この最初の忘却が完成して新たな断言を口にすると、こんどは第二の忘却がはじまり、疑いなどかけようもない人だということを忘れてしまう。『ところでそれはあの手の素行の人じゃないの?』と私が訊ねると、こう答える、『いまさらなんて呑気なことを、もちろん周知の事実よ!』やがて例のまじめくさった口調が戻ってきて、最初の断言のきわめて弱々しい漠としたこだまが口をついて出てくる、『でも言っとくけど、あたしにはいつだって申し分のない態度だったのよ。当然あの人も、へんなことをしたら、あたあしから叱られることぐらい、それもこっぴどく叱られることぐらい知っていたのね。そんなこと結局どうだっていいの。あの人がいつもあたしを本当に尊重してくれたことには感謝しなくちゃいけないわ。相手がどんな人間か、ちゃんとわきまえていたのね』。真実というものは、歴とした名前が付いていて古い根源を有するがゆえに人の記憶に残るが、一時しのぎの嘘はすぐに忘れ去られる。アルベルチーヌはこの最後の嘘、つまり四度目の嘘を忘れてしまい、ある日、秘密を打ち明けて私の信頼を得ようと考えたのか、当初は申し分のない人だとか知らない人だとか言っていた同じ人物について、こんなことを口走った、『あの人ね、一時あたしに気があったのよ。三度か四度、家まで送ってほしい、部屋にあがってほしい、なんて頼まれたの。送ってゆくだけなら、べつに悪いことだとは思わなかったわ、みなも見ているし、真っ昼間だし。でも、あの人の家の門まで来ると、いつも口実を設けて上にはあがらなかったの』」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.324~326」岩波文庫 二〇一六年)
このパターンを何度も繰り返す。だから<私>が推論によってアルベルチーヌ特有の嘘の体系を打ち立てて追い詰めるのはとても容易い。その体系をアルベルチーヌに突きつければたちどころにアルベルチーヌは逃げ場を失うに違いない。けれどもアルベルチーヌの嘘は一つのパターンの繰り返しであるにもかかわらず、<私>が打ち立てた体系をまるで手品のように消滅させてしまう。「アルベルチーヌは、自分が最初から語ったことはつくり話の連続にすぎないとは認め」ない。そして「ある断言をしたあとでそれは嘘だったと言う」。すると「私のつくる体系がそっくり崩れて崩れてしまう」。
「ところがアルベルチーヌは、自分が最初から語ったことはつくり話の連続にすぎないとは認めず、ある断言をしたあとでそれは嘘だったと言うほうを好んだ。そのように前言を撤回すれば私のつくる体系がそっくり崩れて崩れてしまうからだ。これに似たつくり話は『千夜一夜物語』にもあって、それが物語の魅力になっている」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.327」岩波文庫 二〇一六年)
なぜそうなるのか。これまでのアルベルチーヌの言動から導き出される推論によって<私>が打ち立てる体系は、「つくり話」であろうとなかろうと、あくまで「連続」したものに違いないと前提されているからである。一方、アルベルチーヌは連続性の中を生きているのではまるでない。逆に、非連続性、差異性、諸商品の無限の系列を生きている。固定しようがないのだ。常に流動・変化している。現行犯で捉えることなどできるわけがない。ニーチェから二箇所。
(1)「私たちは推定上の、《出来事の絶対的流動》を見てとるに足るほど《繊細》ではない、言いかえれば、《持続するもの》は私たちの総括し平板化する粗雑な諸機関によって現存するにすぎず、そういったものは実は何ひとつとして現存しないのだ、と。樹木はあらゆる瞬間ごとに何か《新しいもの》である。〔樹木の〕《形式》といったものが私たちによって主張されるのは、私たちが最も微細な絶対的運動を知覚することができないからである」(ニーチェ「生成の無垢・下・七三・P.53~54」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(2)「私たちは、私たちが《よく知っている》ものしか見てとらない。私たちの目は無数の形式の取り扱い方を絶えず練習している、ーーー形象の構成要素の大部分は感官印象ではなくて、《空想の所産》なのだ。感官から得られるのは小さな誘因や動機にすぎず、これが次いで空想によって仕上げられる。『《無意識のもの》』に代えるに《空想》をもってすべきである。空想が与えるものは無意識の推論というよりは、むしろ《たまたま思い浮べられた可能性》である(たとえば沈み浮き彫りが観察者にとって浮き彫りに変わる場合)」(ニーチェ「生成の無垢・下・八四・P.60~61」ちくま学芸文庫 一九九四年)
ニーチェとはまた別の場所でプルーストはいう。
「真相はわれわれにはわからないし、今後もけっしてわかることはないだろう。われわれは躍起になって夢のあやふやな残骸を探し求めるだけで、そのあいだも恋人との生活はつづいてゆく。その生活とは、われわれにとって重要なことには気づかず迂闊にその前を通りすぎる一方、重要ではないかもしれないことに注意を払い、われわれとは実際には関係のない人たちに悪夢のように苦しめられる生活であり、忘却と欠落と空しい不安に充ちた生活であり、一場の夢にも似た生活なのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.330」岩波文庫 二〇一六年)
ところで二〇二二年ももう僅かで終わろうとしているらしい。「今年の言葉」というものを流行させたのは誰だったか、まるきり忘れてしまっているが、差し当たり「戦」だという。そこであえて「戦争」について触れておきたいと思う。マスコミ世論では前線の悲惨さばかりが目立っているわけだが、それこそ不思議で仕方がない、むしろ逆に気にかかると言いたい。前線というのはーーーこれまでのどの戦争もそうだったようにーーー戦争のほんの僅かな先端部分に過ぎない。遥かに悲惨な事情はマスコミ世論によって覆い隠されている。少なくともこれまで世界が経験してきたどの戦争もそうだった。とりわけ第二次世界大戦時の日本がそうだ。現在はといえば、テレビは問題外として、稀に新聞記事の中で僅かに、年に二、三度ばかり、戦争の目に見える先端部分と後方支援の底知れぬ莫大さとについての指摘を拾うことができる。しかし最速で理解しようとすればニーチェの言葉が最も妥当であるに違いない。
「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫 一九九四年)
戦争の先端部分というのはニーチェのいう「意識にのぼってくるすべてのもの」に過ぎない。一方、意識にのぼって<こない>ものの側がどれほど莫大かつ壮大か。容易に想像も付かない。けれども、差し当たり今の日本の食糧自給率が実際はどの程度か振り返ってみるだけでいい。カロリーベースで三割台。他の六割は外国からの輸入に依存しきっている。この六割依存という実態の深層ではなく表層自体にもっと注目する必要がある。同盟諸国からの輸入だけではまるで賄いきれていないという目の前の表層に。そしてなぜそういうことになってしまっているのかを、じっくり考え直さないともう取り返しがつかないところまで来ているように見える。にもかかわらずなぜ今、という案件が多すぎる。なおさら危険この上ない暗雲が東アジアの島国を覆い尽くし始めている気がしてならない。