白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・パターン化にもかかわらず<私>の推論体系を崩壊させるアルベルチーヌの非連続性

2022年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム

アルベルチーヌの嘘はパターン化されていて実にわかりやすい。こうある。

 

「たしかにバルベックでは、レアの名前を聞くとアルベルチーヌは、特別にまじめくさった口調になって、あんな身持ちのいい女性を疑うのはけしからんと言わんばかりに、私にこう言っていた、『あら!とんでもない、全然そんな人じゃなくて、とても立派な女性よ』。残念ながら私にとってアルベルチーヌのこの種の断言は、そのあとに必ずくるくると変わる断言がつづく第一段階にすぎなかった。最初の断言のあとには、こんな第二の断言が出てくる、『そんな人、あたし知らないわ』。当初は『そんな疑いなどかけようもない』人だと言い、つぎに(第二段階では)『そんな人、知らないわ』と言っていたのに、第三段階では知らない人だったことをまずは少しずつ忘れ、つぎにうっかり『馬脚をあらわして』その人を知っていると言いだす。この最初の忘却が完成して新たな断言を口にすると、こんどは第二の忘却がはじまり、疑いなどかけようもない人だということを忘れてしまう。『ところでそれはあの手の素行の人じゃないの?』と私が訊ねると、こう答える、『いまさらなんて呑気なことを、もちろん周知の事実よ!』やがて例のまじめくさった口調が戻ってきて、最初の断言のきわめて弱々しい漠としたこだまが口をついて出てくる、『でも言っとくけど、あたしにはいつだって申し分のない態度だったのよ。当然あの人も、へんなことをしたら、あたあしから叱られることぐらい、それもこっぴどく叱られることぐらい知っていたのね。そんなこと結局どうだっていいの。あの人がいつもあたしを本当に尊重してくれたことには感謝しなくちゃいけないわ。相手がどんな人間か、ちゃんとわきまえていたのね』。真実というものは、歴とした名前が付いていて古い根源を有するがゆえに人の記憶に残るが、一時しのぎの嘘はすぐに忘れ去られる。アルベルチーヌはこの最後の嘘、つまり四度目の嘘を忘れてしまい、ある日、秘密を打ち明けて私の信頼を得ようと考えたのか、当初は申し分のない人だとか知らない人だとか言っていた同じ人物について、こんなことを口走った、『あの人ね、一時あたしに気があったのよ。三度か四度、家まで送ってほしい、部屋にあがってほしい、なんて頼まれたの。送ってゆくだけなら、べつに悪いことだとは思わなかったわ、みなも見ているし、真っ昼間だし。でも、あの人の家の門まで来ると、いつも口実を設けて上にはあがらなかったの』」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.324~326」岩波文庫 二〇一六年)

 

このパターンを何度も繰り返す。だから<私>が推論によってアルベルチーヌ特有の嘘の体系を打ち立てて追い詰めるのはとても容易い。その体系をアルベルチーヌに突きつければたちどころにアルベルチーヌは逃げ場を失うに違いない。けれどもアルベルチーヌの嘘は一つのパターンの繰り返しであるにもかかわらず、<私>が打ち立てた体系をまるで手品のように消滅させてしまう。「アルベルチーヌは、自分が最初から語ったことはつくり話の連続にすぎないとは認め」ない。そして「ある断言をしたあとでそれは嘘だったと言う」。すると「私のつくる体系がそっくり崩れて崩れてしまう」。

 

「ところがアルベルチーヌは、自分が最初から語ったことはつくり話の連続にすぎないとは認めず、ある断言をしたあとでそれは嘘だったと言うほうを好んだ。そのように前言を撤回すれば私のつくる体系がそっくり崩れて崩れてしまうからだ。これに似たつくり話は『千夜一夜物語』にもあって、それが物語の魅力になっている」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.327」岩波文庫 二〇一六年)

 

なぜそうなるのか。これまでのアルベルチーヌの言動から導き出される推論によって<私>が打ち立てる体系は、「つくり話」であろうとなかろうと、あくまで「連続」したものに違いないと前提されているからである。一方、アルベルチーヌは連続性の中を生きているのではまるでない。逆に、非連続性、差異性、諸商品の無限の系列を生きている。固定しようがないのだ。常に流動・変化している。現行犯で捉えることなどできるわけがない。ニーチェから二箇所。

 

(1)「私たちは推定上の、《出来事の絶対的流動》を見てとるに足るほど《繊細》ではない、言いかえれば、《持続するもの》は私たちの総括し平板化する粗雑な諸機関によって現存するにすぎず、そういったものは実は何ひとつとして現存しないのだ、と。樹木はあらゆる瞬間ごとに何か《新しいもの》である。〔樹木の〕《形式》といったものが私たちによって主張されるのは、私たちが最も微細な絶対的運動を知覚することができないからである」(ニーチェ「生成の無垢・下・七三・P.53~54」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

(2)「私たちは、私たちが《よく知っている》ものしか見てとらない。私たちの目は無数の形式の取り扱い方を絶えず練習している、ーーー形象の構成要素の大部分は感官印象ではなくて、《空想の所産》なのだ。感官から得られるのは小さな誘因や動機にすぎず、これが次いで空想によって仕上げられる。『《無意識のもの》』に代えるに《空想》をもってすべきである。空想が与えるものは無意識の推論というよりは、むしろ《たまたま思い浮べられた可能性》である(たとえば沈み浮き彫りが観察者にとって浮き彫りに変わる場合)」(ニーチェ「生成の無垢・下・八四・P.60~61」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

ニーチェとはまた別の場所でプルーストはいう。

 

「真相はわれわれにはわからないし、今後もけっしてわかることはないだろう。われわれは躍起になって夢のあやふやな残骸を探し求めるだけで、そのあいだも恋人との生活はつづいてゆく。その生活とは、われわれにとって重要なことには気づかず迂闊にその前を通りすぎる一方、重要ではないかもしれないことに注意を払い、われわれとは実際には関係のない人たちに悪夢のように苦しめられる生活であり、忘却と欠落と空しい不安に充ちた生活であり、一場の夢にも似た生活なのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.330」岩波文庫 二〇一六年)

 

ところで二〇二二年ももう僅かで終わろうとしているらしい。「今年の言葉」というものを流行させたのは誰だったか、まるきり忘れてしまっているが、差し当たり「戦」だという。そこであえて「戦争」について触れておきたいと思う。マスコミ世論では前線の悲惨さばかりが目立っているわけだが、それこそ不思議で仕方がない、むしろ逆に気にかかると言いたい。前線というのはーーーこれまでのどの戦争もそうだったようにーーー戦争のほんの僅かな先端部分に過ぎない。遥かに悲惨な事情はマスコミ世論によって覆い隠されている。少なくともこれまで世界が経験してきたどの戦争もそうだった。とりわけ第二次世界大戦時の日本がそうだ。現在はといえば、テレビは問題外として、稀に新聞記事の中で僅かに、年に二、三度ばかり、戦争の目に見える先端部分と後方支援の底知れぬ莫大さとについての指摘を拾うことができる。しかし最速で理解しようとすればニーチェの言葉が最も妥当であるに違いない。

 

「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

戦争の先端部分というのはニーチェのいう「意識にのぼってくるすべてのもの」に過ぎない。一方、意識にのぼって<こない>ものの側がどれほど莫大かつ壮大か。容易に想像も付かない。けれども、差し当たり今の日本の食糧自給率が実際はどの程度か振り返ってみるだけでいい。カロリーベースで三割台。他の六割は外国からの輸入に依存しきっている。この六割依存という実態の深層ではなく表層自体にもっと注目する必要がある。同盟諸国からの輸入だけではまるで賄いきれていないという目の前の表層に。そしてなぜそういうことになってしまっているのかを、じっくり考え直さないともう取り返しがつかないところまで来ているように見える。にもかかわらずなぜ今、という案件が多すぎる。なおさら危険この上ない暗雲が東アジアの島国を覆い尽くし始めている気がしてならない。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて157

2022年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。昼間は午後三時過ぎからほぼ晴れでした。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.30)

 

「名称:“西近江路”」(2022.12.30)

 

古墳群へのぼってみます。落日直前。LEDのように見えます。

 

「名称:“日の入”」(2022.12.30)

 

「名称:“日の入”」(2022.12.30)

 

「名称:“日の入”」(2022.12.30)

 

北国街道へ降りてきました。

 

「名称:“日の入”」(2022.12.30)

 

もう湖畔近くです。

 

「名称:“日の入”」(2022.12.30)

 

湖畔へ出ました。何事もなかったかのような夕暮れです。ぷかぷか気持ちよさそうなのは鴨ですね。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.30)

 

二〇二二年十二月三十日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・ゲルマントからメゼグリーズへ、メゼグリーズからゲルマントへ、旅することと横断性/身振り(言語・振る舞い)と諸価値の<力>

2022年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム

「土地の名」と欲望との関係。なかでも特筆すべき点についてプルーストは「旅行本来の醍醐味」としてこう述べている。

 

「旅行本来の醍醐味は、途中で車を降りたり疲れたときに休めるところにあるのではなく、また、出発と到着との差異をできるかぎり感じずに済むようにするのでもなく、その差異をできるだけ深いものとし、想像力がわれわれを、暮らす場所から行きたい場所の中心にまで一足飛びに運んでくれるとき、われわれの頭のなかにその差異が存在したときのとおりに、そっくり全面的に感じるところにある。それが奇跡に思えるのは、一足飛びに一定の距離を越えるからではなく、一足飛びに地上の相異なるふたつの個性をつなぎ、われわれをある名前からべつの名前へと運んでくれるからだ」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.29」岩波文庫 二〇一二年)

 

この、「相異なるふたつの個性をつなぎ、われわれをある名前からべつの名前へと運んでくれる」という部分は、「失われた時を求めて」全編を通していつも鳴り響いている通奏低音のようなものだ。<或る価値体系>から<別の価値体系>への移動というテーマである。それがなければどんな違い(偏差=差異)も発生しない。貨幣による交換経済の環流の中でどんな差額も発生しないのと同様である。プルーストが極端に異なった二つの「土地の名」から始めたわけはそういうことだ。

 

一方にゲルマントを置き、もう一方にメゼグリーズを置く。ゲルマントを描くことで大貴族の社交界内部の虚無を暴露し、メゼグリーズを描くことで幾つもの階層の群衆が戯れ合う無限の性の力を暴露する。だから<暴露>はプルーストの三大テーマである<暴露・覗き見・冒瀆>の一つになり得た。<私>はゲルマントからメゼグリーズへ、逆にメゼグリーズからゲルマントへ、二つの両極を何度も繰り返し往来する。

 

「私があれほど何度も散歩したり夢見たりしたふたつの大きな『方向』ーーー父親のロベール・ド・サン=ルーを通じてゲルマントのほうと、母親のジルベルトを通じてメゼグリーズのほうとも呼ばれる『スワン家のほう』ーーーである。一方の道は、娘の母親とシャンゼリゼを通して、私をスワンへ、コンブレーですごした夜へ、メゼグリーズのほうへと導いてくれる。もう一方の道は、娘の父親を通じて、陽光のふりそそぐ海辺で私がその父親に会ったことが想いうかぶバルベックの午後へと導いてくれる。このふたつの道と交差する横道も、すでに何本も想いうかぶ」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.260~261」岩波文庫 二〇一九年)

 

だが重要なのは、<私>はいつも一方からもう一方へと流通してばかりだとは全然限らない、ということでなくてはならない。トランス(横断性)の重要性について書かれている。「このふたつの道と交差する横道も、すでに何本も想いうかぶ」。両極の間を縦横無尽に往来するのはすでに久しい以前から十分可能だったのだ。プルーストはとっくの始めに言及している。「スワンの恋」にこうある。

 

「というのもわれわれが愛や嫉妬と思っているものは、連続して分割できない同じひとつの情念ではないからである。それは無数の継起する愛や、無数の相異なる嫉妬から成り立っており、そのひとつひとつは束の間のものでありながら、絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続しているという印象を与え、単一のものと錯覚されるのだ」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.401」岩波文庫 二〇一一年)

 

<接続・切断・再接続>はいつでも可能だと言っているわけであって、それを条件として或る記号の系列が別の記号の系列を呼び寄せ呼び集める生成変化過程をどんどん引き延ばしていくのだ。<或る記号体系>から<別の記号体系>へ。そうして始めて<他者>と遭遇することができる。次の瞬間、それまでとまるで脈略のない記号体系が忽然と出現したとしても驚くことは何一つないのだ。

 

「旅行本来の醍醐味」。それは<他者との遭遇>にあるだけではない。移動・流通を通して、別の価値体系との出会いによって、<或る他者>が<別の他者>を呼び寄せ呼び集める。そしてさらなる<他者>の系列がとめどなく増加していくという<力>の流れへ変化すること自体がそもそも「醍醐味」として考えられねばならない。

 

この、或る記号が別の記号を呼び寄せ呼び集める、という現実。もう次の文章で出現している。乳製品店の娘に持ってこさせた「フィガロ」紙を見つめる<私>。「ただ読んでいるふりをするだけでも、やはり目の前にある文字の意味は理解できるようで、私はこんなことばにハッとした」。

 

「私はあいかわらず新聞を見つめていて、それは平静を装って時間を稼ぐためにすぎなかったが、ただ読んでいるふりをするだけでも、やはり目の前にある文字の意味は理解できるようで、私はこんなことばにハッとした。『本日午後トロカデロの催物ホールにて開催されると報じたマチネに、<ネリーヌの悪だくみ>への出演を快諾したレア嬢の名を追加しなければならない。言うまでもなく演じるのはネリーヌ役で、同役におけるレア嬢は、瞠目すべき迫力と妖艶な朗らかさで知られる』」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.324」岩波文庫 二〇一六年)

 

レア嬢の名は他でもない「文字」として目に飛び込んでくる。文字は一つの記号に過ぎないけれども「レア嬢」となると話はまるで違ってくる。<私>はとっとと<別の価値体系>が語りかけてくる世界へ移動する。

 

「これはバルベックから帰ってこのかた、ようやくふさがりかけていたわが心の傷口の包帯がいきなり引きはがされたような衝撃と言うべきで、私の激しい不安は堰(せき)を切ってどっとあふれ出た。レアというのは、アルベルチーヌがある日の午後カジノで、見ていないふりをしながら鏡に映るすがたをじっと見つめていたあのふたりの娘と親しい女優なのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.324」岩波文庫 二〇一六年)

 

二度目のバルベック滞在時に生じた「心の傷口」。その裂け目を残酷なほど唐突に押し開いたのは「レア嬢」という「文字」なのだが、しかし、そうさせたのは<私>が「フィガロ」紙を「ただ読んでいるふりをする」という身振り(言語・振る舞い)に他ならない。或る身振り(言語・振る舞い)から生じる別の身振り(言語・振る舞い)の無数の系列が<私>に襲いかかる。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて156

2022年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は晴れ。湿度は6時で71パーセント、9時で67パーセントの予想。湖東方面は曇りの予想。鈴鹿峠は曇りのようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.30)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.30)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.30)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2022.12.30)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.30)

 

そろそろのようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.30)

 

分厚い雲はなかなか動きません。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.30)

 

再チャレンジするようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.30)

 

雲の上から日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.30)

 

二〇二二年十二月三十日撮影。

 

参考になれば幸いです。