アルベルチーヌは何ものか。<私>はいつもそれを知っておかねば気が済まない。だから<幽閉・覗き見・監視>に立ち至ったのだが今度は<幽閉・覗き見・監視>からもたらされる様々な情報がたちまち誘惑に変わりさらなる認識欲望を出現させる。アルベルチーヌの身振り(振る舞い)は常にそのような記号として機能する。<私>はアルベルチーヌから口で何か言われなくても、むしろ言われないがゆえになおのこと記号と対面しているような様相を呈してくる。例えば「アルベルチーヌはなにも言わず、また、そもそもなにも言う必要がなかった。というのも帰宅したアルベルチーヌが、つば帽かトック帽をかぶったまま私の部屋の戸口にすがたを見せただけで、私はすでに得体の知れぬ頑なで血気さかんな抑えきれない欲望を見てとったからである」というように。
「ところがアルベルチーヌはなにも言わず、また、そもそもなにも言う必要がなかった。というのも帰宅したアルベルチーヌが、つば帽かトック帽をかぶったまま私の部屋の戸口にすがたを見せただけで、私はすでに得体の知れぬ頑なで血気さかんな抑えきれない欲望を見てとったからである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.189~190」岩波文庫 二〇一六年)
一度頭に芽生えた疑念は留まることを知らない。<私>の想像力の及ぶ範囲内で膨らむ疑念なら<私>が想像することを止めれば疑念も止むだろう。ところが世界は二人だけで周っているわけではまるでない。どこにでも第三者がいて、第三者の口から不意に発せられた事実の前ではどんな<私>の想像力ももはや無力である。アルベルチーヌがトランス(横断的)両性愛者であるという否定できない事実。否定不可能であれば逆に承認を与えて事情を明確にしておき、その上で改めてアルベルチーヌを<幽閉・覗き見・監視>する方法を選択した<私>。もっとも、ゲルマント大公とかモレルとかもトランス(横断的)両性愛者なのだが<私>はそれを許せる。許せるのは<私>がゲルマント大公もモレルも愛してはおらずまったく無関心だからである。モレルに無関心でいられないのはシャルリュスであって、<私>がアルベルチーヌに対して取っているような<監視・管理>の網目を、シャルリュスはモレルに対して取っているという違いがあるに過ぎない。
アルベチーヌの言動はますます記号化していく。けれどもアルベルチーヌ自身は自分の言動が記号化して見えているとはまるで思ってもいない。しかしそれを見る側の<私>はそこに記号特有の何らかの意味を読み取らざるを得ない。「その晩アルベルチーヌは、心に秘めていた計画について私にひとこと漏らさざるをえかなった。ただちに私は、アルベルチーヌは翌日ヴェルデュラン夫人を訪ねたいのだと悟った」。もっとも、「その訪問自体はなんら私を不安にするものではない」にせよ、アルベルチーヌは「きっとそこでだれかに会い、なにか快楽の手筈を整える魂胆なのだろう。そうでなければこの訪問にあれほど固執するはずがない、つまり、それにはこだわらないとあれほどくり返すはずがない」と一方的に決めつけてしまう。
「とはいえその晩アルベルチーヌは、心に秘めていた計画について私にひとこと漏らさざるをえかなった。ただちに私は、アルベルチーヌは翌日ヴェルデュラン夫人を訪ねたいのだと悟った。その訪問自体はなんら私を不安にするものではないが、きっとそこでだれかに会い、なにか快楽の手筈を整える魂胆なのだろう。そうでなければこの訪問にあれほど固執するはずがない、つまり、それにはこだわらないとあれほどくり返すはずがない」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.190」岩波文庫 二〇一六年)
ここまでくればもはや<私>は<意味という病>に取り憑かれている、それも相当重症の、と考えるほかない。次の箇所でプルーストは人間の身振りというものを<象形文字>として述べている。
「大概の民族は、文字をまずは一連の表象とみなした後にようやく表音文字を使うようになったが、わが人生で私はこれとは逆の道を歩んできた。私は長年にわたり、人びとが自発的に提供してくれる直接の発言のなかにのみ相手の正真正銘の生活と意見を見出そうとしたが、それは得られなかったので、それまでのやりかたとは逆に、むしろ真実の合理的かつ分析的な表現とはいえない証言にのみ重きを置くに至っていたのだ。相手の発言それ自体は、動揺した顔に血がのぼるとか急に口をつぐむとかの徴候を解釈するのと同様に解釈されるのでないかぎり、私になにも教えてくれなくなった」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.190~191」岩波文庫 二〇一六年)
<象形文字>は何か別のものに変換されなければ何のことを語っているのかさっぱり見当がつかない。自分自身の心の中にもしばしば意味不明な印象、とりわけ夢が、出現することは誰しも経験がある。しかし変換とはどういうことか。
「あることがらがなんらかの印象を与えるとき、そのとき実際に生じていることを私が把握しようと努めていたならば、本質的な書物、唯一の真正な書物はすでにわれわれひとりひとりのうちに存在しているのだから、それを大作家はふつうの意味でなんら発明する必要がなく、ただそれを翻訳すればいいのだということに、私は気づいたはずである。作家の義務と責務は、翻訳者のそれなのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.480」岩波文庫 二〇一八年)
プルーストにとって作家の仕事は「翻訳」することである。しかし、何をいかに、という問いはまだまだ変わらず宙吊りにされているのである。