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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて115

2022年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

 

散歩。今日の大津市の日の出前から日の出後の気象予報は晴れ。湿度は6時で68パーセント、9時で62パーセント。浜辺から湖東の方角を見ると昨日以上に分厚い雲の層ができているのが多少気になります。でも個々様々な見解があるように、見ていて楽しいのはどんな変化を見ることができるかということだと思っていますので、それでよければリハビリとして続けていけるだろうし、続けていけるならいささかなりともベターなのではと思っています。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.7)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.7)

 

二〇二二年十二月七日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・「逃れる存在」としてのアルベルチーヌを包囲し始める内面の<監視・管理>というおぞましい事態の到来

2022年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム

プルーストはたった四頁ほど前に書きつけたばかりの「逃れる存在」について、どんな存在なのか、こう説明している。

 

「ここでいう逃れる存在なる概念は、けっして手に入れることができない相手だと想いこむ場合には、もちろん囚われの存在、幽閉された女性にも当てはまる。それゆえ男たちは、女の逃亡を助けて誘惑をちらつかせるという理由で取り持ち役の女を嫌うが、立場が逆転して自分が深窓の佳人に恋い焦がれる段になると、こんどは進んで仲介役の女の力添えを求め、その佳人の幽閉を解いて自分のそばへ連れ出そうとする」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.201」岩波文庫 二〇一六年)

 

説明になっていないようで実はこれほど説明というにふさわしい説明もない。アルベルチーヌがその気になればいつでも簡単に自殺へ逃走することができるし実際そうする。その意味ではいつも「逃れる存在」の可能性の周囲を間違いなくうろうろしている。だがここでプルーストが問題にしているのは「逃れる存在」が或る価値体系から別の価値体系へと場所移動できるのはなぜかということでなくてはならない。そこでプルーストが必要不可欠な要素として上げているのが「取り持ち役の女」=「仲介者」である。人格化された貨幣なしにどんな仲介もないが、人格化された貨幣さえあれば、いつどんな時でも、どこへでも次々と、仲介されていくことができる。そしてまた、貨幣はただ単なる仲介だけでなくもう一つの重要な役割を演じる。覆い隠すことがそうだ。

 

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫 一九七二年)

 

プルーストは<幽閉・覗き見・監視>されたアルベルチーヌのことを「舞台を引退させられた女優」に喩えている。大勢の観客のまなざしを一身に浴びてありとあらゆる賞讃と欲望の的になっていた立場から、ごく当たり前の一市民の立場へ帰った一女性。アルベルチーヌの場合、それは<幽閉・覗き見・監視>という条件のもとでのみ行われ、<幽閉・覗き見・監視>という条件のもとでしか行われることがなかった。そしてその条件が満たされている状況下で<私>はこう考える。<私>はアルベルチーヌを<幽閉・覗き見・監視>することに成功した。しかし以前よりもっと多くの苦痛が、遥かに多くの次元から、次々と押し寄せてくるのはどうしてなのか。<私>はアルベルチーヌの多様性について認めないわけにはいかなくなる。「私はバルベックで最初の日からそのことを見抜いていたのではないだろうか?アルベルチーヌは、肉体という外皮の下に数多くの隠れた存在、つまり、いまだケースに収められたままの一組のトランプとか閉めきった大聖堂やこれから足を踏み入れる劇場とか以上というわけではないが、大勢の入れ替わる群衆以上の多数の存在が息づいている、そんな娘のひとりだと見抜いていたのではないか」と。

 

「私は『どうして見抜けなかったのか?』と述べた。しかし私はバルベックで最初の日からそのことを見抜いていたのではないだろうか?アルベルチーヌは、肉体という外皮の下に数多くの隠れた存在、つまり、いまだケースに収められたままの一組のトランプとか閉めきった大聖堂やこれから足を踏み入れる劇場とか以上というわけではないが、大勢の入れ替わる群衆以上の多数の存在が息づいている、そんな娘のひとりだと見抜いていたのではないか」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.201~202」岩波文庫 二〇一六年)

 

しかしアルベルチーヌの魅力はほかでもない、一つの記号として固定化できない点、諸商品の無限の系列を成しつつどんどん変容していく点に、求められる。「そのおかげで私にとってアルベルチーヌは、それほど多数の存在のみならず、その存在をめぐる多くの欲望や官能の想い出があふれんばかりに詰めこまれた充実した存在となった」。さらにアルベルチーヌのトランス(横断的)性愛に気づかされてからは、ただ単なる肉体所有だけで満足できるはずもなく、内面の<監視・管理>を欲するようにまでなっている自分に気づく。

 

「とはいえ、そのおかげで私にとってアルベルチーヌは、それほど多数の存在のみならず、その存在をめぐる多くの欲望や官能の想い出があふれんばかりに詰めこまれた充実した存在となったのだ。そしてある日アルベルチーヌから『ヴァントゥイユ嬢』と告げられた私は、いまやアルベルチーヌのガウンをはぎ取ってその肉体を見たいと願うのではなく、その肉体を通して、本人のさまざまな想い出や、間近にせまった熱烈な逢い引きが記されたメモ帳をのぞき見たいと願うありさまだった」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.202」岩波文庫 二〇一六年)

 

それにしても「メモ帳をのぞき見たい」とさえ熱望する<私>という存在はそれこそ一体どんな人間なのだろうか。ところがそんな<私>には特に変わったところがあるわけではない。むしろ逆にどこにでもいるありふれた中年男の一人なのだというところに、プルースト作品特有のユーモアを見ることができる。内面まで<監視・管理>しておきながら、すればするほど、ますます不安と動揺とを隠しきれなくなる中年男。また<監視・管理>の側に立つ限り、中年男ではなく中年に限らず、これまたどこにでもいそうな女であっても何一つ構わない。プルーストが重要視しているのは、欲望というものは人間の内面の<監視・管理>に及ぶ、それも過酷さ満点の徹底的な<監視・管理>にまで及ばないわけにはいかないという事情である。