二人の不和による不意打ちはもう始まっている。<私>はそれを「夜の激しい不安」としてはっきり感じ取ることができる。子供の頃から満たされるのが常識として習慣化されており、今なおそれがないと逆に増幅するばかりの「不安」。だから鎮静剤が必要なのだ。ともかく子供時代には母が与えてくれていた確かな愛情を示す種々の行為である。
「そのような夜、私がアルベルチーヌのそばで味わったのは、もはやコンブレーで母の接吻が与えてくれた心の鎮静ではなく、それどころか母が私に腹を立てたか接待客のそばにとどまらざるをえなかったかで、ろくにお寝(やす)みを言ってくれなかったり私の部屋まであがってきてくれなかったりした夜の激しい不安である」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.240」岩波文庫 二〇一六年)
この種の不安は欠損によって生じるわけではない。欠けているから生じる不安ではない。逆であり、不安というものは常に鎮静剤がなくては抑えることができず湧き起こり増殖する欲望の一つなのだ。それは<増殖する不安>として感じられ、ばらばらに分裂した<諸断片>へ向けて回帰しようと欲望する、抑えがたい力の高まりである。何か置き換えるに足るものが速やかにもたらされない場合、たちまち制御不能に陥る危険な力だ。
「この激しい不安、つまり恋愛のなかに移しかえられた激しい不安ではなく、この激しい不安そのものは、さまざまな情熱が分離され分割されたときにはいっとき恋愛を専門としてそれだけに配属されていたが、いまやふたたび私の少年のときと同じくあらゆる情熱へと広がり、身分化の状態に戻っていた。愛人であるとともに妹でも娘でもあり、私がふたたび子供っぽい欲求に駆られて夜ごとのお寝みを求める母でもあるアルベルチーヌを、私のベッドのそばにとどめおけないのではないかと心配する私のありとあらゆる感情が、まるで冬の日のように短くなりそうなわが生涯の、あまりにも早く訪れた黄昏時(たそがれどき)のなかにふたたび集約され、ひとつに統合されたかのようであった」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.240」岩波文庫 二〇一六年)
注目しておきたいのは第一に欲望とは何かということ。第二に力の流動について。第一に本来的な欲望とはどういうものかという点について何度も繰り返しになるが引用しておかねばならない。そうでないとなぜ世界がこれほどまで欲望の統制ということに意を砕くのか、意味がわからなくなると思われるからである。資本主義はなぜその爆発的エネルギーを解放させず厳重に<監視・管理>し、逆に、一例として、終わりなき新型原発開発・新型軍事兵器開発・軍事的後方支援などへ力を加工・変造して目標を置き換えることに必死なのか。理由は極めて単純だ。莫大な貨幣量へ交換可能なあらゆる労働力商品をわざと自らの命の危険に晒させておくこと。目に見えてわかりやすい危険地帯へ放り込んで恐れおののかせておくこと。それこそがどの国家の行政府にとっても行政府自身に対する諸国民の批判を封じ込め政権崩壊を避けるのに有利に働くからである。
「いくたの革命家がどう考えているにしろ、欲望はその本質において革命的なのである。ーーー革命的であるのは欲望であって、左翼の祭典なのではない。ーーーいかなる社会といえども、真に欲望の定立を許すときには、搾取、隷属、位階秩序の諸構造は必ず危険にさらされることになるのだ。(愉快な仮定であるが)、ひとつの社会がこれらの諸構造と一体をなすものであれば、そのときには、そうだ、欲望は本質的にこの社会を脅かすことになるのだ。だから、欲望を抑制し、さらにはこの抑制よりももっと有効なるものをさえ見つけだして、ついには抑制、位階秩序、搾取、隷属といったものそのものをも欲望させるようにすることが、社会にとってはその死活にかかわる重大事となるのである。次のような初歩的なことまでも語らなければならないとは、全く腹立たしいことである。欲望が社会を脅かすのは、それが母と寝ることを欲するからではなくて、それが革命的であるからである、といったことまでも語らなければならないとは。このことが意味していることは、欲望が性欲とは別のものであるということではなくて、性欲と愛とがオイディプスの寝室の中では生きていないということである。むしろ、この両者は、もっと広い外海を夢みて、規制秩序の中にはストック〔貯蔵〕されない異質な種々の流れを移動させるものなのである。欲望は革命を『欲する』のではない。欲望は、それ自身において、いわば意識することなく、自分の欲するものを欲することによって革命的なのである」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第二章・P.146~147」河出書房新社 一九八六年)
さらにプルーストはいう。「この激しい不安、つまり恋愛のなかに移しかえられた激しい不安ではなく、この激しい不安そのものは、さまざまな情熱が分離され分割されたときにはいっとき恋愛を専門としてそれだけに配属されていたが、いまやふたたび私の少年のときと同じくあらゆる情熱へと広がり、身分化の状態に戻っていた」。大事なことは、必ずしも力は統合されているというわけではまるでなく、逆にいつでも<分離・分割>される、ということに他ならない。そして同時に<再接続>という契機がある。「ふたたび集約され、ひとつに統合されたかのようであった」と。しかしなお、アルベルチーヌに鎮静剤としての効果を期待することはできる。期待はできるけれども実際そんなことはできるわけがない。こうある。
「しかし私が少年時代の激しい不安をふたたび感じたとはいっても、その不安を私に味わわせる人は替わり、その人が私にいだかせる感情も異なり、私の性格も変化したので、かつて母に求めたような不安の鎮静をアルベルチーヌに求めるのは不可能だった。もはや『ぼく悲しいんだ』なんて言えるわけがなかったのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.240~241」岩波文庫 二〇一六年)
<私>は読者に向けてそう報告するために用意された報告者である。ここでは文字通り、「もはや『ぼく悲しいんだ』なんて言えるわけがなかった」、と報告しているに過ぎないしそれが<私>に与えられた機能でもある。<私>はアルベルチーヌを<幽閉・覗き見・監視>してみて、その上でなおかつ報告者としての役割を演じるよう記号化されてもいる。そこから欲望の<分離・分割>の効果、<監視・管理>の効果、<未知の地帯>についての詳細な記述、など種々様々に分裂した<諸断片>という驚天動地の諸人格へ次々変化していく。<私>は終わりということを知らない永遠回帰としてどんどん増殖生成していくのである。