白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・「もはや自分ではなくなる」/差異化としての睡眠と多元性としての<私>

2022年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

同一性というステレオタイプ(紋切型)についての問い。プルーストは次のようにいう。文字通りの意味で受け取るべきだろう。

 

「そもそも一時間も余計に眠ると、しばしば卒中の麻痺に見舞われたも同然の状態になり、そのあとでは手足の動かしかたを想い出し、口の利きかたを学びなおさなければならない。それには意志の力など助けにならない。眠りすぎて、もはや自分ではなくなるからだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.268」岩波文庫 二〇一六年)

 

同一性はいつも必ず自明な観念だとはまるで限らない。「眠りすぎて、もはや自分ではなくなるからだ」。人間は睡眠によってその都度新しく切断されているし、覚醒してもなお自分は自分だったと思い出して再接続されるまでの間に、身体的同一性への感覚の助けを借りながら徐々に自分へ回帰するほかない。そしてその行為がまさしく再接続でしかない以上、睡眠を通してまるで別の自分へ差異化されているとしか言えない。それはあたかも「流刑地から戻ってきたような気がするばかりだ」。

 

「眠りはかろうじて機械的に感じられるだけで、自覚はされず、まるで水道管のなかにいて蛇口が閉まるのを感じるようなものである。そのあとはクラゲが生よりも生気なき生を余儀なくされ、なにか考えることができたとしても、まるで海底から引きあげられたような、流刑地から戻ってきたような気がするばかりだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.268~269」岩波文庫 二〇一六年)

 

ニーチェから三箇所。

 

(1)「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下・一一六・P.86」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

(2)「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない。『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させる」(ニーチェ「生成の無垢・下・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

(3)「私たちを取り巻く世界における《なんらかの》差異性や不完全な循環形式性の現存は、それだけでもう、すべての存立しているものの或る一様の循環形式に対する一つの《充分な反証》ではないのか?循環の内部での差異性はどこから由来するのか?この経過する差異性の存続期間はどこから由来するのか?すべてのものは、《一つのもの》から発生したにしては、《あまりにも多様すぎる》のではないか?そして多くの《化学的な》諸法則や、他方また《有機的な》諸種類や諸形態も、一つのものからは説明不可能ではないか?あるいは二つのものからは?ーーーもし或る一様の『収縮エネルギー』が宇宙のすべての力の中心のうちにあると仮定すれば、たとえ最小の差異性であれ、それがどこから発生しうるのだろうか?が疑問となる。そのときには万有は解体して、無数の《完全に同一の》輪や現存在の球とならざるをえないことだろうし、かくて私たちは無数の《完全に同一の諸世界を並存的に》もつことだろう。このことを想定することが、私にとっては必要なのか?同一の諸世界の永遠の継起のために、或る永遠の並存を?だが《これまで私たちに周知の世界》のうちなる《数多性や無秩序》が異議を唱えるのであり、発展の《そのような》同種性が存在したということはあり《え》ないことであり、さもなければ私たちとても或る一様の球形存在者になるという分け前に与ったにちがいないことだろう!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一三二五・P.690~691」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

<神は死んだ>とニーチェはいった。マルクスはこういう。

 

「価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.102」国民文庫 一九七二年)

 

それでもなお自分はいつも自分であると、自明として信じて疑わない人間。そんな人間がどこかにいるだろうか。プルーストは人間というものの脈略のなさを、何度も繰り返し問いかけるし今後もずっと問い続けて止まない。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて145

2022年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。風は相変わらず強いようです。粉雪がちらほら舞ってもいます。

 

「名称:“西近江路”」(2022.12.24)

 

日向ぼっこしているのか餌を探しているのか猫さんがうろうろしていました。

 

「名称:“猫”」(2022.12.24)

 

午後三時頃に湖岸へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.24)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.24)

 

いつものようにストレッチ。これから古墳群へ向かいます。

 

「名称:“日の入”」(2022.12.24)

 

この大きな雲はおそらく午後一時台に丹波山地上空を通過していたものだと思われます。

 

「名称:“日の入”」(2022.12.24)

 

「名称:“日の入”」(2022.12.24)

 

「名称:“日の入”」(2022.12.24)

 

「名称:“日の入”」(2022.12.24)

 

「名称:“日の入”」(2022.12.24)

 

湖畔へ降りてきました。何事もなかったかもような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.24)

 

二〇二二年十二月二十四日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて144

2022年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は曇時々雪。湿度は6時で64パーセント、9時で69パーセントの予想。湖東方面も曇時々雪の予想。鈴鹿峠は晴れのようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.24)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.24)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.24)

 

浜辺に降ったばかりの粉雪を風が巻き上げていきます。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.24)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.24)

 

日の出のようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.24)

 

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.24)

 

重そうな雲がまた降りてきました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.24)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.24)

 

雲の上へ日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.24)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.24)

 

「名称:“西近江路”」(2022.12.24)

 

「名称:“湖西道路高架下”」(2022.12.24)

 

二〇二二年十二月二十四日撮影。

 

参考になれば幸いです。