友人の川口重雄(丸山真男手帳の会代表)さんからのメールを転載します。(昭和天皇に関することだけです)
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各位 9月22日〔本日第1信〕
お早うございます。
今朝は多摩川河畔に夜来の雨、久しぶりのお湿りも止んで早くも日差しが。
TVを点ければ、能登半島への無慈悲の雨、堪りません。
昨日は、長崎の被爆者と被爆体験者とを差別する長崎地裁判決を前提とした被爆体験者「救済」を発表して、内閣の功績としようとする岸田首相の醜悪な顔が東京メトロの車内ニュースに映っていました。
どこまで人を差別すればよいのか、受忍論が一回りするとこうなる?国家が救ってやるのだという傲岸な理屈にならない理屈。
【友人から届いた情報4点】
1.「「無実が誰にでも分かりやすい形で伝えられる判決を期待している」袴田事件弁護団が控訴断念を地検に申し入れ 再審やり直し裁判判決を前に【袴田事件】」(TBS)2024年9月17日
2.「袴田巌さんの姉・ひで子さんら「再審法の改正を」 日比谷野音で2500人が集会「岩盤を打ち砕く」」『東京新聞』2024年9月19日
3.「朝鮮人虐殺、割れる対応 埼玉・千葉知事が追悼文、小池氏なし」『朝日新聞』2024年9月20日
4.「「都合の悪いことは書かない」昭和天皇実録に透ける〝国家の意図〟」栗原俊雄『毎日新聞』2024年9月8日
5.「沖縄メッセージ 昭和天皇は「平和主義者」だったか・茶谷誠一・志学館大学教授」『毎日新聞』2024年9月12日
記事の書き出しには「 昭和天皇が、米国による沖縄の軍事占領を希望すると米側に伝えていた「沖縄メッセージ」(※1)は今も我々を当惑させます。」とありますが、当方は当惑も困惑もしていません。天皇裕仁ならむべなるかな。
インタビュアーの腰が引けています。
6.【沖縄情報+α 9/20】 2024年9月22日
それでは。川口重雄拝
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「都合の悪いことは書かない」昭和天皇実録に透ける〝国家の意図〟栗原俊雄(毎日)
240908
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10年前の2014年9月、宮内庁が「昭和天皇実録」を公開した。四半世紀、約2億3000万円(人件費を除く)をかけて国家が編さんした「国の正史」だ。
今後、天皇や昭和史について専門的に調べる際の最初の手がかりとなるだろう。ただ、私には発表当時から強い懸念があった。節目の年に振り返ってみたい。
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実録は「明治天皇紀」「大正天皇実録」に続く天皇紀で、極めて重要な歴史書でもある。公表前に毎日新聞は取材班をもうけ、私も加わった。
和とじ本で61冊、後に東京書籍から刊行されたものは全19冊(別巻1冊を含む)の大長編。取材班は短期間で読み込み、限られた紙面で報じるべき要素を読み取る必要があった。時代を区分して記者たちが担当した。
取材班の最大の関心事は、従来の研究を覆すような新発見があるかだった。
私は担当した大正期とは別に、現代史の大きな画期となるところを読んだ。例えば2・26事件や太平洋戦争開戦、敗戦の経緯、戦後外交への天皇の関わり方など。それらを読むうち、「歴史学の通説を更新するような新事実は、記されていない」と判断した。
今も正しかったと思う。
ただ、別の意味で発見はあった。
それは極めて重要ないくつもの事実が、まるでなかったかのように記されていないことだ。
二つだけ例を挙げよう。
まずは6月の記事で取り上げた「大日本帝国の終戦構想」だ。
米国を軍事力で降伏させることはできない。そう分かっていた帝国の為政者たちは、①同盟を結んでいた独伊と連携し英国を屈服させる②それによって米国の戦意を失わせ、講和に持ち込む――ことをもくろんだ。
願望に空想を重ねた、この蜃気楼(しんきろう)のような「終戦構想」が決定されたのは1941年11月15日。政府と軍首脳による「大本営政府連絡会議」でまとめられた。天皇は結果的にこれを受け入れた。
この日の実録は、天皇が陸海軍首脳から戦争の見通しなどについて説明を受けたことを記している。典拠は、ただし書きから推察するに、防衛庁防衛研修所戦史室が編さんし「公刊戦史」とも言われる「戦史叢書(そうしょ)」だと思われる。
だが、国家の命運を決めた「蜃気楼の終戦構想」にまったく触れていない。戦史叢書に明記されているにもかかわらず、だ。
もう一つは、敗戦までの経緯だ。
45年8月10日、天皇は連合国から突きつけられた降伏勧告=ポツダム宣言の受諾を、戦争継続を訴える軍首脳などの反対を押し切って決めた(1度目の「聖断」)。ただし、「国体」つまり「天皇が国家を統治する、大日本帝国体制の有りよう」を維持することが条件だった。
だが連合国は「国体護持」を明言しなかった。このため、軍首脳らは再び戦争継続を訴え、戦いは続いた。
「昭和天皇独白録」(文春文庫)によれば、米軍はポツダム宣言の宣伝ビラを日本で飛行機からまいた。天皇はこれが軍の手に入るとクーデターが起きると思い、宣言受諾を早める決心をした。
14日。天皇が2度目の「聖断」をし、ようやく戦争終結が決まった。この「聖断」は実録のハイライトシーンの一つだ。47もの典拠が記されている。
私が注目したのはその2日前、12日に開かれた皇族会議だ。
前掲の独白録によれば、「最も強硬論者である朝香宮」が講和に賛成しつつ「国体護持ができなければ、戦争を継続するか」と天皇に聞いた。天皇は「もちろんだ」と答えた。
独白録は天皇の側近が記したもので、実録が各所で典拠としている。
この時点で、米軍によって広島と長崎に原爆が落とされていた。帝国が連合国との講和の仲介役として期待したソ連からは宣戦布告を受けている。「連合国との名誉ある講和」はすでに不可能で、敗戦以外の選択肢はなかった。1度目の聖断の後も、空襲は続いていた。
昭和天皇は、戦争を続けたら国民の被害はさらに広がることを知っていたはずだ。それでも、戦争を終わらせることより「国体護持」を優先した。このことを確認しておきたい。
この独白録のくだりを実録は採用していない。
2度目の「聖断」で敗戦が決まるまでの間に、国民の被害は拡大していった。「国体護持」にこだわらず敗戦に踏み切っていれば、助かった命がたくさんあった。
編さんにあたった宮内庁書陵部は10年前、「確実に史料などで確認されたことを中心に記述した」と強調した。
しかし、判断が恣意(しい)的にもみえる。
こうした極めて重要な事実に関する実録の「沈黙」が、国家による意図を雄弁に語っている気がする。すなわち「平和を希求した天皇」像を国史として刻もうとする、編集方針。いわば「正史の文法」だ。
国家は今後も「正史」を編さんするだろう。「ウソは書かないが、都合の悪いことは史実でも書かない」という実録のノウハウが再現されるかもしれない。
実録は歴史書であると同時に、私たちが「正史の文法」を学ぶ教科書でもある。【専門記者・栗原俊雄】
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沖縄メッセージ 昭和天皇は「平和主義者」だったか・茶谷誠一・志学館大学教授(毎日)240912
https://apac01.safelinks.protection.outlook.com/?url=https%3A%2F%2Fmainichi.jp%2Fpremier%2Fpolitics%2Farticles%2F20240911%2Fpol%2F00m%2F010%2F006000c&data=05%7C02%7C%7C90794355e86a41aa7e8208dcda40375d%7C84df9e7fe9f640afb435aaaaaaaaaaaa%7C1%7C0%7C638625216576256882%7CUnknown%7CTWFpbGZsb3d8eyJWIjoiMC4wLjAwMDAiLCJQIjoiV2luMzIiLCJBTiI6Ik1haWwiLCJXVCI6Mn0%3D%7C0%7C%7C%7C&sdata=n6n%2BrG5GIDk6niQ1f7tPpYvieiprwJe%2FYbsz0a5%2BO1E%3D&reserved=0
昭和天皇が、米国による沖縄の軍事占領を希望すると米側に伝えていた「沖縄メッセージ」(※1)は今も我々を当惑させます。志学館大学教授の茶谷誠一さんに聞きました。【聞き手・須藤孝】
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――昭和天皇は戦前は大元帥でした。
◆私は1989年に昭和天皇が亡くなった時は高校生でした。当時の私が持っていた昭和天皇のイメージはやさしいおじいちゃん、平和的なイメージでした。戦前の実態を知ったときには驚きました。
平和的な象徴天皇のイメージは現在も同じで、より強まっています。しかし、象徴天皇制の原点は、マッカーサーが日本の占領統治を成功させるために、天皇制を利用したことにあります。
東京裁判でも天皇の戦争責任は問われず、東条英機のような一部の軍人に背負わせることによって清算しようとしました。国民のなかに、天皇と自分たちは東条ら一部の人にだまされていた、昭和天皇は平和主義者だったというイメージが作られます。私も含めて研究者はそうではない一面もあった史実を発信していますが、今もそのイメージは変わっていません。
だから、沖縄メッセージのようなものが出てくると、驚いてしまうのです。
――沖縄メッセージは衝撃的です。
◆沖縄メッセージを伝えられた連合国軍総司令部(GHQ)外交局長のウィリアム・シーボルトは、象徴天皇は政治に表だって関与してはならないという立場でした。シーボルト自身はやりすぎだと考え、警戒感を持っていたと思います。
しかし、シーボルトから報告を受けた米国務省では、対ソ封じ込め政策で知られるジョージ・ケナン(当時政策企画室長)が、沖縄メッセージを重要な提案と見なし、講和問題に関する政策の検討に利用されました。沖縄への米軍駐留を望む人たちからすれば、日本の天皇が沖縄に米兵を駐屯させてもよいと言っている、というのは貴重な情報です。昭和天皇の行動は、米国が政策を決めるうえで、影響を与えていました。
――伝えた方法も問題です。
◆沖縄メッセージをシーボルトに伝えた宮内府御用掛の寺崎英成はのちに更迭されます。
初代宮内庁長官の田島道治の昭和天皇拝謁記(※2)で、更迭を最終的に判断したのは田島であることが分かりました。
田島は天皇が表だって政治的な意見を発信すれば象徴天皇制の基盤が揺らぐと考えていました。田島からみれば、寺崎のような動きはあぶないことこのうえないのです。
寺崎は、マッカーサーやシーボルトと会った内容を田島や吉田茂首相には言わないと日記に書いています。田島が就任前にあった、沖縄メッセージを知っていたかどうかは別としても、宮内庁長官のあずかりしらないところで、寺崎からGHQの要人らに、天皇の意向が伝達されるようなことは絶対に避けなければならないととらえたはずです。
――寺崎のやり方は国民から見ても困ったことです。
◆象徴天皇のもとで、天皇の政治顧問、情報役だった戦前の内大臣でもやらないようなことを寺崎はやっていました。日本政府のあたまごしに、米国に天皇の意思を直接、伝達しました。法的にも政治的にも、やってはいけないことです。
しかし、昭和天皇にとってはこんなにありがたい存在はありません。まさに「忠臣」でした。寺崎更迭の際も昭和天皇は抵抗します。自分がマッカーサーと会見する時には例外的に、寺崎を通訳にしてくれないかとか、やめたのであれば別の情報をくれる人物がほしいなどと言います。寺崎のような行動をやってはいけないことだとは思っていません。むしろ国のことを考えた時にはやるべきだと考えています。
立憲君主の枠さえも超える部分があります。その危うさを田島や吉田がみてとったから、寺崎を更迭したのだと思います。
――昭和天皇はなぜそこまでこだわったのでしょう。
◆昭和天皇は、共産主義が勢力を増した戦後の状況に強い危機感を持っていました。
田島やその周辺がけげんに思うほどです。このままでは、東側陣営やその手先とみていた国内の共産主義分子によって日本が滅ぼされてしまうという認識です。だから米軍には残ってもらいたい、それを日米の主要な人に伝えたい、という考え方が根底にあります。
象徴天皇として政治的な関与をしてはならないことはわかっていても、それを超えてでもやらざるをえないという危機感や使命感があったのでしょう。
戦後、昭和天皇の存命中は、東西冷戦が続いていましたから、政治に関与しつづけようとする大きな理由になったと思います。
※1 昭和天皇が1947年に、米国が沖縄を軍事占領することが日米両国にとって望ましいと米国に伝えていたとされる問題。1979年に研究者の進藤栄一氏が米側資料で明らかにした。宮内庁が編修した昭和天皇実録にも言及がある。
※2 初代宮内庁長官の田島道治(1885~1968年)が49年から5年近い昭和天皇との対話を記録した書類。「昭和天皇拝謁記 初代宮内庁長官田島道治の記録 全7巻」(岩波書店)として刊行。
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(了)