OCNブログ人のアクセス解析を見ていたら「大山事件」のキーワードから管理人のブログ『「大山中尉射殺事件」で衝撃的な証言が』を訪問した方がいた。
その時に「誰かの妄想・はてな版 大山事件に関連する場所の位置」というサイトを知った。そのサイトには『「歴史学研究で使えるのは三等史料まで」と言った東中野氏が五等史料を使っている件 - 誰かの妄想・はてな版でさらっと書きましたが、地図を示した方がわかりやすいと思いましたので、アップしときます。日本軍・政府は大山事件直後、大山中尉は西部派遣隊本部(図中のA地点)から、海軍陸戦隊本部(図中のD)へ向かう途中だったと発表していますが、だとすれば、虹橋空港(図中のB)で遭難するはずがありません。AからDに向かう予定で、Bに向かったのでは方向音痴にも程があります。』との記述があるが、管理人と全く同じ問題意識であった。
管理人が作成した上海地図である。
都立戸山高校元教諭武藤徹氏の証言『大山中尉は中国軍の三重の警戒線があったが、まず第一、第二の阻止線の誰何(すいか)を突破していった。そして第三の阻止線における銃撃で殺されたのだ』
『防衛省防衛研究所図書館所蔵』
支那事変上海戦跡案内骨子
上海海軍特別陸戦隊司令部
昭和十二年~一六年
〈上海方面開戦直前ノ概況〉(本項軍極秘)
【八月九日】
北支ニ於ケル我陸軍戦ノ進捗ニ伴ヒ八月以降、中南支方面ニ於ケル情勢ハ逐日悪化シ長江在留邦人ハ八月九日迄ニ全部上海ニ引揚ゲヲ了シ、上海ニ於テモ日支経済関係ハ事実上断絶状態ニ陥リ、支那軍又公然停止協定ヲ無視シ正規軍ヲ保安隊ニ擬装シ上海近郊ニ侵入セシメ盛ニ軍事施設ヲ補強スル等形勢ハ漸次逼迫シ來レリ
上海海軍特別陸戦隊西部派遣隊長海軍中尉大山勇夫ハ付近地区視察及連絡ノタメ八月九日一七〇〇頃水月倶楽部發(制服着用)、一等水兵齋藤与蔵ノ運転スル陸戦隊自動車ニテ上海西部虹橋飛行場越界路タル碑坊路上(飛行場南東隅正門ノ北方約一〇〇米)ヲ通行中、一八三〇頃支那保安隊員ノタメ射撃殺害セラレ齋藤一等水兵ハ行方不明トナレリ
【八月十日】
〇四二〇、工務局、市政府、淞滬警備司令部各代表及ビ我官警立会ノ上、現場ニ於テ大山中尉ノ屍体ハ収容、大山中尉ノ位置ヨリ北東方約千米ノ畑地帯ニテ射殺セラレアル齋藤一等水兵ノ屍体ヲ収容セリ、両人ハ射殺后、刀剣ニテ斬リ苛マレ携帯品一切略奪セラレ居タリ(以下略)並びに「正面の道路を相當な速さで眞直ぐに疾走し來り、鐵条網十メートルの前で急カーヴを切りその瞬間自動車前から發砲した」という〈八月十一日付朝日新聞記事〉から管理人が作成したイラストである。【注】齋藤一等水兵の遺体までの距離は文献史料によって1キロ・1哩・600㍍と違っている。
都留文科大学名誉教授笠原十九司先生に上記「大山事件について武藤氏の証言」を「南京大虐殺 夏淑金さん名誉毀損裁判 大勝利集会」の終了後、立ち話だったがお伝えした。笠原先生は著書「日中全面戦争と海軍 パナイ号の真相」では文献と証拠が見つからなかったので『「謀略のシナリオ」のシナリオを見るようなタイミングの良さ』と記述したと話された。
その後、国立国会図書館所蔵の「大山勇夫の日記」や靖国偕行文庫所蔵の軍令部著「大東亜戦争海軍戦史 本紀巻一」の文献、アジア歴史資料センターwebサイトの文献、さらには東洋文庫所蔵の「民国七年発行 大上海新地図」などを閲覧して「上海越界路たる碑坊路の現場」を確定してきた。今後も「日本海軍の謀略」であったことを引き続き明らかにしたいと考え、笠原先生に武藤徹氏を紹介したり、収集した史資料を提供してきた。
昨年秋に笠原先生から下記の手紙を頂いた。
『長谷川 順一 様
お元気でいらっしやいますか。東京に戻られたのですね。
すでに3年前になりますが、大山事件の真相に言及した釜賀一夫少佐の証言について、武藤徹さんから聞き取りをする機会を設定して下さり、ありがとうございました。その後、釜賀一夫少佐が話したことがほぼ事実であることを裏付ける史料を見つけましたので、同封の『年報日本現代史』第17号に、大山事件が海軍の謀略によるものであったという論稿を書きました。
長谷川さんが武藤さんを紹介して下さらなければ、大山事件の真相を解明する手がかりは得られなかったので、改めて感謝申し上げます。
拙稿に書きましたように、「大山事件の真相」も含めて、日中戦争全体における海軍の侵略戦争責任を問う『海軍の日中戦争』をまとめようと思っています。そのためにも、今回の拙稿に誤りや問題点がありましら、ご指摘いただければ幸甚です。
厳しい残暑がつづいておりますが、どうぞ健康に留意され、ご自愛なさって下さい。
2012年9月12日 笠原 十九司』