三日目 16:00南京駅発の高速鉄道で17:40分上海駅に到着。20:00~22:00ホテル内会議室で「大山勇夫中尉殺害事件」の講演会
DVD戦記映画復刻版シリーズ「支那事変 海軍作戦記録4」を上映しましたが、音声が出なかったので「大山勇夫中尉殺害」の現場と「大山勇夫中尉・齋藤與蔵水兵の葬儀」で止めました。そのために、首都南京市をはじめとする渡洋爆撃の部分を放映出来ませんでした。
レジュメ
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(株)富士国際旅行社主催「中国 南京・上海近代史と文化探訪 5日間」
レジュメ「大山中尉殺害事件」 2024年12月27日 文責:長谷川順一
「大山中尉殺害事件は謀略」が定説となるまでの、笠原十九司教授の論考系譜
〔1〕1997年8月5日青木書店刊「日中全面戦争と海軍 パナイ号事件の真相」64頁『それにしても、長江流域の日本人居留民の上海および日本への引き揚げが無事完了した8月9日の夕方、さらに言えば川越・髙の第1回会談が行われた日に、大山事件が発生したのは、さながら拡大派の「謀略のシナリオ』を見るようなタイミングの良さである』
〔2〕2008年8月10日(日)早稲田9条の会が主催した講演会が新宿区立若松地域センターで開かれ、講師は、自衛隊イラク派兵差し止め訴訟違憲判決の名古屋高裁で原告側証人として証言された山田朗教授(明治大学教授:日本近代史・日本軍事史・天皇制論)「勝った国側も驚いた,負けた原告も驚いた!!“イラク派兵判決と市谷・防衛省のトンでもウラ話”」
開会挨拶をした早稲田九条の会代表委員故武藤徹さん(当時83歳・元都立戸山高校数学教師)は東京帝國大学数学科1年生の時、陸軍参謀本部第3部(情報担当)が疎開した長野県下諏訪に勤労動員学徒として1945年5月3日から8月15日まで勤務していた。帝大生は20人だった。ポツダム宣言受諾の詔勅放送があったの後、将校たちが米などの物資を運び出すのを見た。下級兵士が肩章をはずして「戦争は終わったのだ。士官も兵隊の区別もあるものか」と醜い物資の取り合いをというその時の貴重な体験を話された。その後の懇談会の中で武藤さんは大山大尉事件について衝撃的で驚くべき証言をした。
>上官だった釜賀一夫少佐が第2次上海事変時の大山事件の真相を私に話した。「軍は大山勇夫海軍中尉に家族の面倒を見るから死んでくれと言った。そこで大山中尉は中国軍の3重の警戒線があったが、まず第1、第2の阻止線の誰(すい)何(か)を突破していった。そして第3の阻止線における銃撃で殺されたのだ」<【注】名誉の殉死として一階級特進し、大尉となる。>また、名前は忘れたがある上官が中国・天津の英国領事館から暗号コードブックを盗んだことを自慢話として私に気安く話してくれた。<
〔3〕都留文科大学教授笠原十九司教授(現在は名誉教授)に、2009年7月5日に開催された「南京大虐殺 夏淑金さん名誉毀損裁判 大勝利集会」の終了後、立ち話でしたが「大山中尉射殺事件は謀略だった」という証言を伝えた。笠原教授は早速証言者の武藤徹さんと逢わせて欲しいということになった。
〔4〕2009年7月20日、新宿区議会・議員待遇者会控室に於いて、約2時間半にわたって笠原十九司教授が故武藤徹さんの聞き取りをした。
〔5〕2010年5月25日岩波書店刊「日本軍の治安戦」注(第一章)236頁に武藤徹さんの証言を記述した。
〔6〕笠原教授はその証言をヒントにして「大山勇夫日記」を緻密に分析して、2012年9月10日発刊「年報 日本現代史第17号」に「大山事件の真相」を初めて寄稿された。
〔7〕2010年9月1日岩波書店刊「図書」1頁「歴史書と歴史小説」に「密命を与えたことを証明する史料や証言が必要となる。ところが、「海軍関係者による真相隠蔽の壁は厚い。」と記述した。
〔8〕その後、上海市紅橋飛行場事件現場の調査と、さらなる文献史料の蒐集をされ2015年6月17日平凡社刊「海軍の日中戦争 アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ」に「3 謀略・大山事件の真相」を現場のイラストを作図して完璧な学説として発表した。
〔9〕2017年7月20日 高文研刊「日中戦争全史 上」229頁には日中戦争全史から、この謀略を位置づけられた。
著書の「はじめに」と「あとがき」の一部を引用。
筆者は『日中全面戦争と海軍ーーパナイ号事件の真相』において、盧溝橋事件をきっかけに華北で戦闘が開始された「北支事変」第2次上海事変により華中・華南へと拡大させ、「支那事変」と当時いわれた日中全面戦争にまで拡大したのが、海軍であったことを明らかにした。(略)
本書では海軍が「知能犯」であったがゆえに、今日でも国民が「騙されている」あるいは「気づくことができないでいる」海軍の「謀略」「戦争犯罪」を究明して歴史の記録に留めておきたい。その代表的なものが、第2次上海事変そして日中戦争の全面化の導火線になった「大山事件(1937年8月9日)が、現地海軍が仕掛けた謀略であったことである。
その事実を歴史学的に追及したのは、筆者が初めてであり、それを体系的に論じたのは本書が最初であろう。「知能犯」たる海軍がおこなった「謀略・大山事件」が「完全犯罪」で終わるのを阻止しようとしたのが本書である。「おわりに」の一部を引用します。筆者は、戦後50年を契機に、『日中全面戦争と海軍パナイ号事件の真相』(青木書店、1997年)を執筆して、海軍が日中戦争を全面化したことを明らかにし、さらにアメリカでは「真珠湾への序曲」「日米戦争への序曲」といわれたパナイ号事件の全貌と影響を解明することによって、日中戦争が日米戦争へと連続していった歴史の側面に注目した。同書は、筆者が、日本海軍の戦争責任を究明しようとした第1弾であったのにたいし、本書は、奇しくも戦後70年の年に、日本海軍の戦争責任をさらに全面的に究明しようとした第2弾となった。
前書では、大山事件(1937年8月9日)を「拡大派の「謀略のシナリオ」を見るようなタイミングの良さ」で発生したと指摘するにとどまっているが、本書では、「知能犯の海軍」による、謀略事件であったことを明らかにすることができた。私が大山事件を問題にし、海軍が仕掛けた謀略事件であったことを明らかにしなければ、歴史的には海軍の「完全犯罪」が成立してしまうことになったのではないか。それにしても、大山事件は海軍が仕掛けた謀略であったという歴史の真相が、戦後70年にもなる今日まで、歴史家やジャーナリストをふくめて解明されてこなかったのが不思議である。
本書で明らかにしたように、海軍が日中戦争を全面化させ、陸軍ではなく、海軍が「自滅のシナリオ」の結末として、日本を「日米戦争へと引っ張っていった」歴史事実の解明が、なぜ本格的になされてこなかったのだろうか。歴史書としておそらく初めて、大山事件が海軍によって仕掛けられた謀略であることを明らかにした本書にたいして、さまざまな批判と反論が寄せられることが予想される。そのなかで、もっとも問題ににされるのが、上官の上海海軍特別陸戦隊司令官大川内伝七少将から大山勇夫中尉に直接伝えられたと想定される「口頭密命」について、当事者の証言や文書記録がないではないか、ということではないかと思われる。
「口頭密命」に関して、発案・命令者は長谷川清第3艦隊司令長官、海軍首脳として知っていたと思われる人物として、米内光政海相、山本五十六海軍次官、伏見官軍令部総長の名前をあげておいたが、「口頭密命」については、戦後になっても海軍首脳の誰からも「自白」「告白」「告発」されることがなかった。本書の「はじめに」に記した海軍は「知能犯」であったことが見事に証明されたといえよう。そこで、裁判に例えれば、本書は、犯人の「自白」がないままに、「状況証拠」ならびに「傍証」にもとづいて、「有罪」判決を下したのと同じになる。しかし、本書を読んでいただけば分かるよぅに、大山事件が海軍によって仕掛けられた謀略事件であった事実は、本書が提示した「状況証拠」と「傍証」の記録史料によって十分に立証されたのではないかと、自負している。おそらく今後とも「口頭密命」の直接史料は発見されることはないと思われる。
―【了】―
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スクリーンに映した画像資料