12月26日「民間抗日戦争博物館」を見学後、同館の4階会議室で、元朝日新聞記者上丸洋一さんが上梓された「南京事件と新聞報道 記者たちは何を書き、何を書かなかったか」について講演されました。
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レジュメ 「南京訪問ノート」 2024年12月 上丸洋一
●珠江路で何があったか(南京市が1984年と90年に1756人から聞き取り調査)
証言1 わたしの家は珠江路の花紅園でした。1938年の春、兄が革細工師の技で生計を立てていて、家の前に露店を出して古靴を修理していました。ある日の午前中に、不意に娘さんが一人、兄の目の前を走って行き、すぐ後ろを日本兵が追いかけて来て、ホアクーニャンはどこだと聞くので、兄が分からないと言うと、すぐ日本軍に打たれ、打たれた後、小営河の岸まで捕まって行き銃殺されました。こうしたことはわたしがこの眼で見たのです。
(『「この事実を 」南京大虐殺生存者証言集、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館編集』2000年刊から。以下、同じ)
証言2 1938年1月16日の日に、わたしが師匠と小麦粉を買いに珠江路に行ったら、‘ 日木兵が、そこで小麦を買おうと並んでいる女の人の腹を刀で・突きし、その女の人が地に倒れるのが見えました。
証言3 珠江路の角まで来たら、忽ち日本軍の群に引っ張られ(連行され)、藁を担がせられて湖南路の国民党巾央木部まで行きました。 明くる日の朝、LJ本軍は手椙弾でそこの後ろにある沼の魚を爆死させ、難民の多くを無埋やりに素っ裸にさせ、沼に飛び込んで爆死した魚を掬いに行かせました。ちょうど厳寒の時で、わたしたち沼から上がった時、皮膚がみんな紫色に凍えていました。日本軍は又わたしたちを焚き火の傍に立たせ、火に当たらせましたが、なんと日本軍四人がわたしたち難民の一人を担ぎ上げ、火にあぶって面白がるのでした。わたしをあぶり焦がして全身、火脹れにしたら、脇へ放り投げてほったらかし、食べさせず飲ませずで、丸まる三日辛抱させられ、やっと幸いにも放たれ出て来たのでした。
証言4 難民区の鼓楼=条巷12号に住んでいました。一度、わたしが珠江路の角から家に帰るのにロ(にんべんに古)依廊まで来たら、角の電信柱に10何歳かの女の子が一人縛られ、すでに突き殺されていて、どこの家の子か分かりませんでしたが、後でお婆さんの一人が言うには、日本軍に強姦された後に突き殺されたのでした。
●国内の反応
38年1月6日付、外務省東亜課長・石射猪太郎日記「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦口もあてられぬ惨状とある。鳴呼之れが皇軍か。日本困民民心の廃顔の発露であろう。大きな社会問題だ」
1938年、大本営陸軍部が中国戦線の兵士に配布した冊子「従軍兵士ノ心得」から。
「敵意なき支那民衆」に対しては「万一にも理山なく彼等を苦め虐げる様なことがあっては けない、武器を捨てて投降した捕虜に対しても同様である、特に婦女を姦し私財を掠め或は民家を謂もなしに焚くが如きことは絶対に避けねばならぬ、斯くの如き行為は支那民衆よりは未来永劫迄も恨を受け、仮令戦闘には勝っても聖戦の目的は達し得ぬこととなる」
●在留外困人の思い
ベイツから駐南京日本総領事への手紙(38年5月11口付)「いかなる(国の)兵上も将校も公民も、悪いことをやったり他人を傷つけたりしたら、それが外国人や日本人であっても、アメリカ人やドイツ人であっても、わたしたちは同じように反対します。わたしたちはいかなる国の公民がした有益な働きも尊敬します。わたしたちはある政府を支持し、もう ーつの政府に反対する立場を採ったわけではありません。(日本)軍がわたしなり他の中立人士なりに採った行動は、わたしたちを漢口政府(国民党政府)の代理人と決め込んだり、日本に敵意を抱く者としたりで、これは公止ではありません。日木軍がわたしを脅したときにだけ、わたしは日本に敵意を抱きました」
●被害と加害 原爆と南京
72年 栗原貞子「ヒロシマというとき」
〈ヒロシマ〉 というとき
〈ああ ヒロシマ〉 と
やさしくこたえてくれるだろうか
〈ヒロシマ〉 といえば〈パールハーバー〉
〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉
〈ヒロシマ〉といえば 女や子供を
壕のなかにとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
〈ヒロシマ〉 といえば
血に炎のこだまが 返ってくるのだ
95年7月19日付朝日新聞名古屋本社版記事「対話 平和の旅」武谷三男らとの対談の中で、沖縄反基地闘争の指導者、阿波根昌鴻「原爆を落とした国より落とさせた国の罪は重い」
朝月新聞アジア総局長の吉田実、「アジアの心ある人々」の声として。
「被爆者の方々には同情する。しかし、あの原爆投下が、中国や東南アジアの広範な民衆を悲惨な目に会わせた、日本軍の侵略に対する総決算だった、と感じていることを忘れないでほしい。日本の『反核・平和運動』はあくまでも、過去の戦争で日本の犠牲者となったアジアの民衆と、心の痛みを分かり合えるものであってほしい」ジュリスト臨時増刊85111
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