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「中国 南京・上海近代史と文化探訪 5日間」レポート  番外編 梅屋庄吉と孫文

2025年01月06日 | 歴史探訪<南京・上海>

古地図に現在の「日比谷交差点」あたりとなる場所に「中山邸」が見えますが、明治天皇睦仁の生母である中山慶子の父、権大納言・中山忠能の邸宅です。

二回目の亡命中だった孫文は支援者の平山周とこの屋敷の前を通ってから、京橋の旅館に着きました。宿帳に偽名を書く段になってハタと考えました。そこで今ここに来るときに通ってきた屋敷の表札「中山」を思い出し「中山樵」と偽名を書きました。中国に帰国してから号を「中山」とし「孫中山」と呼ばれるようになりました。【参考文献】車田譲治著・国父孫文と梅屋庄吉

「君は兵を挙げたまえ 我は財を挙げて支援す」と孫文を支援した、梅屋庄吉の孫である小坂文乃さんが上梓された「革命をプロジュースした日本人 評伝梅屋庄吉」から中国に孫文像を4基も寄贈した部分を転載します。小坂文乃さんは、日比谷公園内にある「日比谷松本楼」の代表取締役社長です。ツアー参加者には、日比谷松本楼のリーフレットを配布しました。

   孫文像とともに中国へ 
 I927年(昭和2年)前後のことだった。中国から庄吉のもとへ国賓として招きたいという連絡が届いた。 
当時の日中関係といえば、張作森暗殺にみられるような関東軍の暗躍が加速し、日中関係は日々、緊張が高まっていった。 
しかしそんな最中、庄吉に対し、外交部長・務武驚が、「孫文がお世話になったお礼のため」と中国へ招聴したのだった。どうやら、孫文から、「革命が成功した暁には、必ず梅屋庄吉氏と家族を国賓として招待してほしい」と言い渡されていたようだ。 
 また、重光葵公使から民間外交の相談役になってほしいとの勧めもあった。 
孫文の死に接し、いつまでも消沈していられないことは、庄吉も十分承知していた。失意を振り払うかのように立てた計画があった。庄吉はかねてから孫文の偉大さを後世に伝えたいという志をもっていた。考えた末、孫文の銅像を中国の名所に建てるのはどうだろうという結論に至った。 
千世子は次のように回想している。 

 ある日、私はあらたまって父の書斎に呼ばれました。そして私名義になっているお金を貸してくれまいか、との話をきかされました。このお金は、慈悲心を常におこして人にほどこしてしまう父から私を金銭的に守るべく、母が私の将来のために私名義でためておいたもので、株券、銀行預金帳など、当時のお金で三百万円はありました。父は私に申しました。 
「私たちは国賓として呼ばれているが、この際孫文の偉大さを尊敬している日本人として銅像を作れば、中国人も神に等しい方として三民主義も、彼の偉大をも知ってくださるだろう。私は隠居の身で七つもの銅像を一度に作るほどの一時金を持ち合わせていない。そこで娘のおまえにたすけをたのみたい」

 父親に助けを求められて拒否する理由などどこにもない。昭和3年頃のことである。 
 庄吉はまずどんなポーズがいいのかを考えた。孫文のさまざまな写真を参考にしながら、彫刻家の牧田祥哉とともに意見を出し合った。孫文と親しかった頭山満や萱野長知、中国人志士らからも意見を聞いた。 
 決まったのは、フロックコートを着た孫文像である。左手を腰に当て、右手を差し伸べ、民衆に三民主義を説き、訴えている姿勢。声が聞こえてきそうなリアリティがある。まなざしをまっすぐにけ、固く結んだ唇には不屈の意志と情熱が秘められているように見える。表情には、威厳ある中に優しさが漂う。
 高さ3・6メートル、重さ7トンもある銅像。制作は有名な篠原彫金店(東京・日本橋)に依頼した。 
 この銅像建設にかかった費用は現在の貨幣価値に換算すると約1億5000万円にのぼった。だから娘のために大切に貯めていた資産をまわさざるを得なかったのだ。 
 まずひとつの銅像が完成した。 
 1929年(昭和4年)3月、庄吉は中国の国賓として、伏見丸に銅像を積み込み、トクと千世子とともに横浜から出航した。
 同月4日、銅像を積んだ伏見丸は上海に入港した。千世子の回想文によると、その日の上海は寒く、「父は二重まわし、母娘は和服にコートの出で立ち」だった。 
 船が接岸すると軍隊が演奏をはじめ、映画の撮影隊もカメラを回しながら待ち構えていた。 
国民党政府の歓迎委員として旧知の股汝耕らがタラップを駆け上がり、庄吉一家を出迎えた。上海に滞在していた山田純三郎も駆けつけた。
 
総理銅像昨展到泥盛況 蒋主席代表到埠歓迎(連報) 

 地元新聞はこぞって、孫文の銅像が上海着したことを大々的に報道した。国賓でもてなされる庄吉一家の様子は日本「聞でも報じられた。 
 庄吉一行は、国民政府のある南京へ汽車が到着するとすぐに蒋介石の私邸へた。この時、 蒋介石夫人となっていた宋美齢は門で出迎え、庄吉のことを「パパ」トクのことを「ママ」と呼んで歓迎したという。 
 また、庄吉一家は反日運動が激化する南京市で行われた国民党政府主催の歓迎の宴にも着物で出席した。地元の邦字紙「上海日報」は、蒋介石の招宴にも、庄吉一家があえて和服で出席したことを伝えている。 
 孫文を尊敬しているのは、なにも中国人ばかりではない。日本人の中にもたくさんいるのだということを、中国の人たちに伝えたかったのだろう。ひとつ間違えば、中国人から反感を買う恐れがあるのに、あえて和服を身につけたのは、庄吉が孫文を命がけで支え続けた自負があったからだろう。
 
 こんなシーンもあったという。3月19日付「上海日報」は概ね次のように伝えた。 
 「尚翁(庄吉)は北平(北京)に於いて排日ポスターを発見すると、『こんな事ではいけん』と言いながら剥取らすと言う有様で流石要人連も之には些か面喰らった模様だった」 
 先の招宴では、熱烈な日支親善論を闘わせたというが、両国に横たわる感情的な問題には我慢ならなかったのだろう。 
 庄吉は到着から間もなく、一人、北京郊外の碧雲寺に向かった。孫文の亡骸に対面するためだ。 
 物言わぬ孫文と対面した庄吉は、「先生の遺骸を見れば、今にも唇が動きそうで先生が死んだことは信じられない」と鳴咽したという。 
 用意してきた1000字を超える「追悼之辞」を、万感の思いを湛えながら読んだ。 
その日の日記には、強い言葉でこう記している。
 
 孫文死ストモ精神死セズ。我ニヨセラレシ電報『是レ全亜細亜民族復興主義』ハ遺訓トシテ存在ス。我中国ニ止マリテ此遺訓ヲ導師トシテ貫徹一生ヲ送ル覚悟也
 
  二年にわたった中国滞在 
  銅像は、まさに孫文の精神を後世に伝えるためのものであった。 
  南京中央軍官学校の校庭に運ばれた1基目の孫文像は、10月14日に除幕式が行われた。蒋介石ら当時の国民政府の要人が出席した。 
  蒋介石、宋美齢、孔祥照ら要人たちは庄吉に寄せ書きを残した。 

 四海之内 皆兄弟也
 
 庄吉がいつも彼らに伝えていた言葉も書かれている。この人類平等の精神は「反日」という当時の状況を超えて、彼らを結び付けていた。 
 庄吉は式辞を読み上げた。 
 その文章には、庄吉のさまざまな想いが込められていた。 
 孫文が「中国の国父」という存在に止まらず、世界の偉人として尊敬すべき人物であるという想い、また自由・平等・博愛の孫文の主張に深く共鳴し、中日親善こそが東洋平和につながると信じて孫文先生と出会ってから、30年以上も一臂を注いできた想いについて語ったあと、こう述べた。

 予の本懐や決して銅像を以て単純なる記念となすに非ずして、万衆のーたび仰ぐもの、よく先生至明至徳に感化、発奮、其の遺訓を遵奉して、永く三民主義的国家の建設に向つて、統一和平の実を挙げ、之が滞謝に一致努力せらるるあらんことを戴がふ加虎なり
 
 孫文の銅像はたんに記念として贈るのではなく、孫文が望んだ三民主義の国家の実現を中国に対して促す想いが盛り込まれていた。 
 庄古の願いは中国側にも伝わった。 
 黄捕軍官学校の除幕式を報じた「黄捕日刊」(1930年5月31日付)の記事である。
 
「歓迎梅屋壮吉先生」 
 梅屋先生は反革命社会の中で生まれた革命の種である。(中略)彼は常に人道正義の考えを持ち続け、人類の平等のために努力を惜しまなかった。(中略)我々中国国民革命運動は彼から多大の援助を得た! 彼の思想と精神、彼の主張と人格、我々は仰ぎ見慕っている。
 
 黄捕軍官学校は孫文が1924年に創立した中華民国陸軍の士官養成学校である。蒋介石が校長を勤め、後に首相となる周恩来も政治部副主任として在籍していた。 
 船積みの手続きのため一時、日本に戻ることはあったが、庄吉一家の中国滞在は、1931年(昭和6年)4月までの2年間に及んだ。その間、残り3基の銅像を贈皇するために中国を行脚した。 
 住まいは最初の1カ月間は南京にあったが、その後は上海に移動。 
 中国当局からは、当初公館を提供された。当時の庄吉宛の郵便物をみると「上海法租界金神父路一四四貌 梅屋公舘」となっている。日記を見るとそれは「国民政府提供」と記されている。それは蒋介石、宋美齢も暮らしたことがあった1500坪もある大邸宅だった。現在、上海在住で中国各地でトヨタ自動車首席代表を務めた東和男氏が、当時の梅屋家の郵便物の住所から、それが現在の「瑞金賓館第1楼」というホテルの建物であったことをつきとめた。しかし、この公館は、1年足らずで返上し、庄吉は自分で督遺公園の西側に家を購入して移り住んだ。「真の友好を実現するには中国側に耳の痛いことも言わなければならない」からである。庄吉の信念はあくまでもまっすぐなものであった。 
 中国に滞在中、庄吉は日中交渉の推進役として尽力した。中国側が押さえている物資を、政府と交渉して運用できるように働きかけたりしていた。朝から中国の大臣級の人物や三井洋行など商社マンとの面会が多かった。人脈を生かして、コーディネーターのような役割を担っていたのだろうか。 
 庄吉はまた、日本と中国の親善と繁栄のため、まず経済問題に着手し、民間外交を展開させるべきと考え、大阪において「日華経済会議」を開催するよう提案している。庄吉は顧問となり、日本と中国の商工会議所の代表者や関係商工組合、弁護士などが準備委員に選定された。 
 さらに中国において万国博覧会の開催を提唱し、「中華国産博覧会開設趣意書」も書いている。民間外交で日中関係を改善しようと奔走する庄吉の姿が目に浮かぶ。構想そのものは実現しなかったが、約80年後の2010年に、長く滞在し、縁のある上海で万博が開かれることは奇縁である。その開催中、日本館のイベントステージにおいて、孫文と庄吉の友情を紹介する展示も予定されている。 
 上海滞在中の庄吉の楽しみといえば、孫文とともに革命に奔走した居正らが開いてくれるタ食会だった。戴季陶ら革命の志士たちが集まり、旧交を温めた。 
 千世子の楽しみは、宋餌齢が上海を案内してくれることだった。車で出迎えを受け、フランス租界のおしゃれな店、デパートなどを見せてもらったという。 
 庄吉は、孫文の生まれ故郷香山県(現・中山市)翠亨村、医者として活躍していたマカオ、そして国民革命軍発祥の地である広東など各地をまわり、孫文の足跡をたどった。 
 実は、庄吉とトクは、孫文の故郷広東に赴いたとき足を延ばし、マカオに住む孫文の前夫人慮慕貞を訪ねている。銅像の贈呈の旅は庄吉にとり、体に応えたに違いないが、それでも、慮夫人には一目会わなければならなかった。義理堅いというか、情のある行動にあらためて人として、感慨を覚える。 
 庄吉が贈った孫文像に影響されたのか、中国側も独自に孫文像を何基かつくっている。右手を前に差し出したポーズは、全体のバランスを取るのが難しく、中国製の像はその右手に杖を
つかせて体を支えている。 
 庄吉は当初、孫文像を日本にも1基設置しようと計画した。しかし、その願いはかなえられなかった。 
 西多摩郡調布村友田字阿須下に、900平方メートルの土地を購入して整地し、警視総監に銅像建設の許可を申請したのだが、警視庁は「銅像建設ノ件許可相成リ難シ」と返答してきた。孫文が革命家であることから、その思想が日本に与える影響を考慮したのである。 

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