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田園調布学園「5回目となる被災地研修旅行」レポート

2016年05月04日 | 学校教育
田園調布学園中学高等学校社会科教諭の川口重雄さん(丸山真男手帖の会代表)からのメールを転載します。
・・・・・・・・引用・・・・・・・・・・・・・・・

各位                   5月4日〔BCCです。〕
午前中の暴風と大雨がうそのような青空が広がっています。
4/29~5/1の2泊3日、5回目となる被災地研修旅行に行ってきました。
1.4/29は東松島市在住の石垣義春さんの案内で、東松島市のJR仙石線旧・野蒜駅付近のすさまじい津波の跡。
そして昨年訪ねた石巻市立大川小学校(生徒の死者70人、行方不明4人、教職員の死者10人)と北上川(追波川)でへだてた対岸の吉浜小学校・相川小学校の跡。
吉浜小学校では、生徒の死者5人、行方不明2人、教職員死者1人ですが、学校で避難した時の犠牲者ではありません。
相川小学校の生徒行方不明者1人も同様で、なぜ犠牲者が出たのかではなくて、「どのようにして犠牲者を出さなかったのか」を考えることが大切だという石垣さんの言葉が耳に残りました。
宮城県全体の生徒の死者235人、行方不明26人、教職員死者17人の犠牲の上に、私たちがどのようなことを汲み取るか。
南三陸町では津波が20メートル以上遡上したという戸倉中学校などを見学しましたが、校庭には災害復興住宅が並び、体育館は地区の公民館に変わる予定です。
南三陸町では「保存」が決まった旧・防災庁舎の周りに、8メートル以上の嵩上げ工事中。
元の高さの庁舎とうずたかく積まれた土砂との対照にビックリします。
連休に入ったのでそうでもないと言われましたが、ダンプカーの多いこと。
2.第1日目の宿の、歌津泊浜の民宿清観荘は高台にありましたが、家屋のコンクリートの土台部分まで津波が。
明治三陸地震(1896年)の津波で流された経験から、高台に家を建てたそうです。

今回の旅行では、明治三陸地震、昭和三陸地震(1933年)の言い伝えを守って、家を建てたところは無事だったという話を各所で伺いました(釜石市唐丹地区など)。
3.初めて訪ねた気仙沼市。
海抜16メートルの高地が避難場所に指定され、それ以上の遡行高の津波で94人が犠牲となった杉ノ下地区。
校舎4階まで津波が押し寄せた気仙沼向洋高校跡(生徒は高台の中学校へ避難して全員無事。教職員・住民51人が屋上へ逃れた)。
三陸海岸といえば「リアス海岸」というイメージですが、遠浅の海水浴場に適した大谷海岸、お伊勢浜海岸も想像を超える津波に襲われました。
高台の景勝地岩井崎も、津波が乗り越えた跡がそこかしこに残っています。
陸前高田の「奇跡の1本松」ほど有名ではありませんが、被災した松が「龍の松」の名付けられて残っています(角度によっては龍に見えないこともありません)。
龍の松の隣りには出身の江戸時代末期の横綱秀ノ山の銅像が、津波に耐えて立っています。
リアスアーク美術館が収集した震災の被災物・写真、そして新聞の挿絵と記事が伝える明治三陸地震の惨状。
4.大船渡では観光船「潮騒」の船着場で、市議会議員の三浦隆さんが出迎えてくださいました。
4/23の市議選で無事5選。
ところが選挙運動中には一切連絡なく、北海道・京都の衆院補選に気をとられている間に選挙は終わっていました。
大船渡港クルーズの「潮騒」は、2015年4月から。
東京の屋形船を運んできたそうです。
蒸し牡蠣と三陸の幸、お酒に舌鼓です。
5.釜石市では、市の指定した(震災時に市民が実際に避難した)避難路を歩き、釜石大観音(1970年落慶)へも登りました。
観音さまの足元からは、釜石湾の大防潮堤が見えます。
津波でひっくり返ったものの、復旧工事が進められています。
釜石の戦争は、1945年7月14日と8月9日の連合国艦隊(米英)による艦砲射撃と戦闘機の機銃掃射。
焼け野原となりました(死者753人)。
郷土資料館にその様子が展示されています。
6.第2日目は陸中海岸グランドホテル泊。
2012年の一度目の旅行の時にすすけたグレーの建物と思った建物は、2階部分まで津波が突き抜けたそうです。
躯体が頑丈だったため、震災から1年8ヵ月後にリニューアルオープン。
7F展望風呂からは釜石湾が見渡せます。
7.最終日は生憎の雨、加えて5℃に届かない天候の元、2015年に世界遺産登録された橋野鉄鉱山へ。
インフォメーションセンターで観た14分の映像も、整えられた高炉跡の説明板も、お見事です。
曰く「今日の経済大国の礎となった橋野鉄鉱山、そして釜石・・・」。
自国の過去の歴史をここまで肯定するかぁ・・・。
「鼻白む」という言葉を知らぬがごとくです。
鉱山労働者の苛酷な労働や、日清・日露戦争、そしてその後の日本の戦争に釜石製鉄所の果たした役割には一切触れられていません。
①2012年12月まで、次は世界遺産登録確実といわれた「九州などのカトリック教会群」を押しのけて、安倍政権が誕生したとたんに「明治日本の産業革命遺産」が先に登録されることになりました。
「日本を取り戻す」安倍政権の肝いりです。
②苛酷な年貢取立てで知られた南部藩。
農民の貴重な「日傭取り」が鉱山稼ぎ(鉱山で働き続けた者の平均寿命は30歳に届きません)。
8.栗林地区出身の南部藩嘉永6年一揆(三閉伊一揆)の指導者三浦命助(1847~1864)の記念碑「三浦命助之碑」(没後100年の1963年建立)と建てかえられた生家。
没後150年(2013年)の記念誌には「幕末の志民」とあります。
こっちの方がしっくり来ます。
9.柳田國男の遠野へ。
そしてJR北上駅で「お開き」に。
添付したのは『反改憲運動通信』第11期11号の記事3点です。
それでは。例によって長々とした文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。

川口重雄拝
追伸:講演会のお知らせ
①平良修牧師(辺野古報告):5/30(月)オープニング18:15~、講演19:00~、練馬文化センター大ホール、連絡先090-2737-5311、チケット申込み03-3998-9953(ねりま9条の会)
②中村哲(アフガニスタン報告):6/10(金)18:45~、練馬文化センター大ホール、問合せ・申込みはメールsiminnokoe@nifty.com、電話03-6806-6312(市民の声ねりま)




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