明治神宮外苑【その一】
「神宮外苑は何区何町にありますか?」と聞かれて正確に答えられるのは地元と関係者の皆さん達だけでしょう。国立競技場の崖下の一部が渋谷区、銀杏並木と権田原交差点のあたりが港区で圧倒的大部分が新宿区霞ヶ丘町です。
江戸時代は広い原野で幕府の煙硝蔵・鉄砲場などがありました。明治になってからは陸軍火薬庫と広大な青山練兵場に引き継がれました。付近には近衛騎兵連隊、陸軍大学校、女子学習院が設置されました。明治天皇の葬儀が青山練兵場で行われた後は神宮外苑となり、聖徳絵画館、国立競技場、野球場、明治記念館などが建てられました。
1943年(昭和18)10月21日、いまはJリーグサッカーで賑わう国立競技場で若者7万5千人が終結する出来事があったのです。あいにくの雨でしたが、戦況の悪化に伴って20歳以上の学生の兵役免除がとかれ、戦地に赴くことになった学生の出陣壮行会が行われました。雨の神宮外苑での「学徒出陣」壮行会に、送られる学徒2万5千人、見送る女子学生ほか約5万人の人々が集まったです。
文部省から出された壮行会の目的は、「学生たちを戦場に赴く決意を促し、意識を昂揚する。」にありました。そのため大観衆が集められることになり、女子学生や旧制高校生が動員されたのです。
この人たちはずぶぬれになりながら、スタンドからどのような気持ちで。見送ったのであろうか。東條英機首相の訓示、出陣学生代表の東大生答辞、最後に「海行かば」の大合唱で壮行会の幕を閉じました。この壮行会に出た出陣学生のうち、3千人以上が戦死したといわれています。
戦争に若者を駆り立てたもう一つの建物が国立競技場の南側にあります。それは日本青年館です。 著名な画家いわさきちひろがこの日本青年館と深い関わりがあったことが最近明らかになりました。 (続く)