明治神宮外苑【その二】
ちひろ美術館安曇野の前で著者の平山弁護士と管理人のツーショットです。
天才画家であったいわさきちひろの没後32年になりますが、弁護士平山知子さんが一昨年「若きちひろへの旅 上・下」(新日本出版社)を出されました。平山さんは、著書の中でちひろの家族との親交そして取材を通じて知り得たちひろの人生と真実を余すことなく語っていますが、ちひろが敗戦前年に中国東北部・勃利に行くことになりますがそれは、大日本青少年団の結婚相談所長として「満蒙開拓青少年義勇軍」にはせ参じた独身青年と見合い結婚をさせる「大陸の花嫁」を送り出していた母・岩崎文江の仕事と無関係ではなかったことを史上初めて明らかにしました。「満州」勃利でのちひろの体験は・・・(本を読んでのお楽しみ)
「大陸の花嫁」として「満州」に渡った多くの女性たちと老人、病弱者、幼児、児童たちが関東軍に見捨てられ、また中国人から開拓民は「農民の侵略者」と攻撃され、ソ連軍の奪略と暴行にと遭いまった悲惨な運命は、「大地の子」などで私たちに語られています。そして戦後、中国人の養父母に育てられ日本に帰国した「残留孤児」たちは日本政府の冷たい仕打ちに責任を取らせるべく東京地裁に提訴しています。来る30日に判決があります。
「大日本青少年団の結婚相談所」があったところが日本青年館です。
日清・日露戦争の後、各地に青年団が誕生しました。そして、大正14年(1925)に初めての青年団の全国組織である大日本連合青年団の結成式がおこなわれました。
一方女子は、大正7年(1918)にはじめての中央組織として処女会中央部ができます。「処女会」は「婦人会」に付随して生まれました。婦人会内で既婚者と未婚者の共存はいろいろ不都合な場合も生じるので、未婚側の若い女性だけが婦人会から分かれて「処女会」を結成したそうです。
処女会は昭和に入ってのち、多少の遅速はあっても、すべてが「女子青年団」と改称され、青年団や婦人会ともども、国家権力や軍部の介入によって巨大な大日本連合女子青年団に編成されます。青年団と女子青年団は「大日本青少年団」に、婦人会は翌年「大日本婦人会」に統合されて、“銃後の守り”に専心させられながら、敗戦の日を迎えることとなります。(続く)