管理人は「防衛省『市ヶ谷記念館』を考える会」の共同代表をしていますので、青木書店刊「東京裁判ハンドブック」など東京裁判関連の本が書棚にあります。しかしA級戦犯容疑者として1946年3月1日GHQに逮捕された阿片王・里見甫の名前がどの書籍の「A級戦犯容疑者名簿一覧」には記載していません。「謎」ですね。
田中利幸、ティム・マコーマック、ゲリー・シンプソン編著 大月書店刊「再論 東京裁判 何を裁き、何を裁かなかったのか」には、ニール・ボイスターが「アヘン問題」を取り上げています。世界的なアヘン問題、満州問題、軍部との癒着などを追及した優れた論考です。「興亜院」、「A級戦犯 星野直樹 土肥原堅二 賀屋興宣」の責任も厳しく批判しています。しかし、キーナン主席検事と国際検察団はA級戦犯容疑者として逮捕し、スガモプリズンに収監した里見甫を起訴しなかったようです。それにしても「A級戦犯容疑者名簿一覧」に記載しないのは「謎」ですね。
管理人が重要だと思った部分を転載します。
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一 はじめに
国際犯罪の「核心的」となるような犯罪(戦争犯罪、人道に対する罪、組織的大量虐殺、他国への侵略など)は、「条約」犯罪(麻薬の密売やテロリズムなど)と結びつけて考えられることが多い。ジェリコ・ラジュナトビッチはセルビアの準軍事組織「虎(通称アルカン・タイガー)」のリーダーで、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷で人道に対する罪で起訴されたが、彼は同時に悪名高い組織犯罪者でもあり、そのネットワークを準軍事活動のなかでも用いたとされていた。ヘルマン・ゲーリングはニュルンベルク裁判において占領地から美術品を盗み出したと告発された。アフリカ大陸地域では私益のために不法に資源を開発し、それが原因で抗争が終わることなく続いていた。戦争は永らく私腹を肥やすための道具として用いられ、個人の犯罪資金が戦争に使われてきた。スペイン無敵艦隊を打ち破ったドレークとホーキンスは私掌捕船の乗組員であり、イギリスにとっては英雄であるが、スペインからすると海賊であり、犯罪者である。
犯罪学的現象としては核心的犯罪と条約犯罪は関連があるが、一般的な国際犯罪法のなかでは異なるカテゴリーに属するとされることがほとんどで、実体的にも手続的にも区別されていた。国際法の下では核心的犯罪は個人に刑事責任があり、国際法廷で裁かれる。一方、条駒犯罪は条約上の義務を怠った結果出てくるものだが、国内犯罪として扱われ、自国の法廷で裁かれる。この違いは、核心的犯罪は国際社会に脅威を与えるが、条約犯罪はそういうことはなく、少なくとも国際法の下で個々の刑事責任を間うには不十分であるという考え方から定着したようである。
しかし、この二つのカテゴリーが重複し、法的・道義的混乱をもたらした出来事が起こった。東京裁判において検察は、中国侵略・占領中に非医療・非科学的目的で日本が中国に麻薬を供給したこと(中国では不法行為であり、同時に、多数国参加の麻薬取り締まり関連条約にも違反している)と核心的国際犯罪のーつである侵略行為とを結びつけたのである。多数派判決はおおむねこの主張を受け入れた〔本章の目的は、関連する事実や法的・人道的正当性に触れながらこの結びつきについて考察し、一般的な意見をいくつか述べることである。第二節では検察、弁護人から提出された法的見解と証拠を列挙し、パル判事と多数派判事の意見を述べる。第三節では裁判での事実認定と、中国での麻薬問題に関する日本の役割についての現代の歴史的見解を比較する。第四節と第五節では裁判の判決で示された法的・人道的見解を分析する。そして第六節では、判決で示された核心的国際犯罪と条約犯罪との重複部分について、より一般的な意見を述べる。
東京裁判の目的のーつは、国際関係において軍事力を用いることを禁じている国際法に日本が違反したことに対する個人的責任を追及することであった。日本の麻薬に関する政策が中国でどのような役割を果たしたのかということは東京裁判のなかでもあまり注意を払われていないが、条約犯罪と核心的犯罪との関係を見ていくための事例研究と考えればとても興味深い。
二 中国での日本の麻薬政策についての解釈
(略)
多数派判事の反応
裁判の多数派判事は検察の意見により近かった。判決文書の第3章のなかでは、日本は国際社会のなかで条約(麻薬に関するものでは1912年、1925年、1931年の麻薬条約)と国際連盟の規約に従う義務があると述べている。条約のいくつかについては詳しく内容を紹介し、中国に対する特別な義務と幅広い国際協力の必要性を強調している。最後に、「日本は国際社会の一員であった」という見出しのもとに以下のことを述べた。
このようにして1930年の前、多年にわたって、日本は世界の文明社会でその一員としての地位を占めることを主張し、平和を増進し、侵略戦争を不法とし、また戦争の惨害を軽減するためにつくられた以上の義務を自発的に負っていた。被告の行為は、これらの義務に照らして観察し、判断されなければならない。
この判断の大部分は妥当性を欠いた内容であるが、麻薬条約が文明国家の指標のーつであり、日本政府と被告人の行動を裁く尺度のーつであったということは言える。(【注】被告人 星野直樹 土肥原堅二 賀屋興宣 並びに里見甫の事だと思われます。)
判決書の第5章では、多数派判事が、中国における日本の麻薬政策についての検察の証拠を大まかな点で承認している。麻薬問題と満州への侵略、満州国の建国はすべてつながっているというのである。大まかに言うと、次のような意見になる。
日本は満州におけるその工作の経費を賄うために、また中国側の抵抗力を弱めるために、阿片と麻薬の取引を許可し、発展させた。
さらに明確に、多数派判事は以下のように意見をまとめた。
日本陸軍の進出した中国の至るところで、軍のすぐあとから、朝鮮人や日本人の阿片行商人がついて来て、日本側当局から何の取締も受けずに、その商品を売買した。ある場合には、これら阿片密売者は、陰謀、間諜行為または破壊行為に従事することによって、侵入軍のために準備を整えておくように、侵入軍に先んじて送り込まれた・・・
日本の軍部、とくに特務機関はこの「利益の多い商売」に深く関わっていた。特務機関の指導部に土肥原がいたということで、土肥原と麻薬問題の関係が浮き彫りになったというのが多数派判事の理解であった。段階的に麻薬を禁止していくというのは単に「隠れ蓑」にすぎず、その間に供給独占体制を確立し、収益を増やしていこうとしていたというのである。収益を増やすために麻薬消費が奨励され、日本の占領地ではどこでも占領期間中、麻薬の消費が増えていた。しかし、多数派刊事にとつては、収益を増やすということよりももっと深刻な論点があった。
麻薬取引に従事するにあたって、日本の真の目的は、単に中国人を頑廃させること以上に悪質なものであった。日本は阿片条約に調印し、これを批准したので、麻薬取引に従事しない義務を負っていたのに、満州国のいわゆる独立によって、しかし実は虚偽の独立によって、全世界にわたる麻薬取引を行い、しかもその罪をこの塊偶国家に帰するという都合のよい機会を見出したのである。朝鮮で産出された阿片の大部分は、満州に輸出された。満州で栽培され、また朝鮮とその他の地方から輸入された阿片は、満州で精製され、世界中に送られた。世界の禁制白色麻薬の九割は日本人の手から出たものであり、天津の日本租界、大連、ならびにその他の満州、熱河及び中国の都市で常に日本人によって、または日本人の監督のもとに、製造されたものであるということが、 1937年に、国際連盟において指摘された。
多数派判事は、中国の他の地域についても類似の意見を展開した。
満州において採用された方針と類似したものが、中国の北部、中部及び南部で軍事行動が成果を収めるに伴って、随時採用された。この売買は、軍事行動と政治的発展に関連していたものである。この売買によって、日本側に設置された種々の地方政権のための資金の大部分が得られたからである。そうでなければ、この資金は日本が供給するか、地方税の追加によって捻出しなければならなかったであろう。序でながら、阿片吸引者の非常な増加が、中国の民衆の志気に与えた影響は、容易に想像することができるであろう。
麻薬取引による収益は興亜院が管理しており、そこから日本が作った現地政府の資金が出ていた。
このことから麻薬取引と軍事・政治活動との関連が立証できると多数派判事は判断し、日本の外務省は、三菱と三井がイランからアヘンを輸入できるように取り計らつた。この貿易は多額の収益を生み、アヘンの使用量が増えるにしたがって中国人の志気に悪影響を与えられ日本が援助する「改革政府」にはアヘン禁止総務局が作られ、アヘン禁止宣伝活動のために月に2000米ドルの予算が組まれていたが、これは「表向き」の対策にすぎなかった。同じようなことは中国中央部でも起こっており、それまでにほとんどなくなっていた麻薬取引が日本からの占領によって再び社会全体に広まり、1939年にはーカ月の収益が300万米ドルにも上るようになった。これは、他の収入源と比べてもかなりの価値を持つものである。
これらの具体例は、日本が中国を侵略した際、日本の軍事・民間の要求を満たすために中国を搾取したという多数派判事の意見を裏づけた。麻薬政策のことは個人判決には中国を搾取判決には明言されていないが、星野の責任、賀屋による中国資本の搾取の認定の際の手がかりになったであろう。検察当局は産業。通称の指導者については起訴しないこととにしたため、三井財閥、三菱財閥に関係する人物の責任は不問に付された。
三 中国における麻薬政策──関係事実の要点
中国における日本の麻薬政策についての歴史的見解は、日本を真っ向から非難するものから、日本政府の直接的な関わりまを疑うものまで幅広いが、そのほとんどは「日本が帝国勢力を広げる資金源としてアヘンその他の麻薬を悪用した」とする多数派判事の主要意見に同意している。歴史的背景を考えると、これは珍しいことではない。ただ、中国におけるアヘンと帝国主義という観点から見ると、日本の登場が遅かったにすぎない。18─19世紀に西洋の麻薬売人が中国に入ったが、これを機会に中国と西洋の交流が増えていったというのが歴史家の意見である。中国は麻薬を全面禁止しようとしたが、植民地勢力によって「アヘン戦争」がおこなわれ、 1858年には麻薬販売の合法化を受け入れなければならなくなった。
日本の帝国主義者のほとんどが麻薬を搾取手段として用いることに何の罪悪感も抱いていなかったと考える人もいるだろうが、日本の歴史のなかでのアヘンの存在を考えてみると、東京裁判の検察が描き出したよりももつと複雑な絵が浮かんでくる。それまで「汚れていなかった」日本(日本へのアヘン流入が始まる前にアメリカ合衆国が麻薬協約義務に同意したため、日本へのアヘン貿易がおこなわれることはなかった)であったが、台湾の占領を通じて麻薬に遭遇した(2世紀にわたってのアヘン常習地であった)。台湾から退こうとしていた中国当局(中国は台湾での収入源としてアヘンを用いていた)は、日本が麻薬問題を扱うときに出てくるであろう諸問題について警告を残していった。日本は政府が管理する専売システムを選択し、麻薬の新規使用を禁止することによって少しずつ台湾の麻薬使用者を減らしていこうとした。このシステムには、占領にかかる費用の一部を麻薬販売によってまかなえるという利点もあったが、この収益は徐々に減っていった。日本は、朝鮮で精製されるアヘンの専売も始めた。
異論のあるところではあるが、台湾での賢明な禁止政策は満州の租界でも用いられたが、徐々にその形を変えていった。麻薬精製・供給のネットワークを広げるなかで、世界的な違法麻薬供給システムと関係を持つ日本人が出てきたのだ。それらの日本人は日本租界の外で密売買を始めた。そこでは当局の抑制力は弱く、輸送ネットワークは充実し、麻薬精製は個人にも許可されていた。許可をとつた者は、違法市場に麻薬を流すために制度を悪用し始めた。キャサリン・マイヤーは、日本による満州その他の中国各地方への侵略は麻薬製造者(薬剤師と農民)と麻薬販売人(熱狂的な超国家主義者でもあった「浪人」)によって進められたと主張している。その結果、もたらされたものは征服だけではなく麻薬中毒であったとジョン・ジェニングスは指摘する。
1931年の満州事変が起こる頃にはもう、北東地域ではアヘンと麻薬がはびこっていた。麻薬の乱用はすべての階級でなんらかの形でおこなわれていただけでなく 満州の何百万人の人(ケシ栽培農家から売人まで)が生活の糧として麻薬売買に携わっていたのだ。
満州が日本の支配下に置かれたときの麻薬製造と使用の使用の拡大は──住民を意図的に衰弱させようと思っていたわけではないだろうが──秘密の目的からくるものであった。ジェニングスは、以下のよに説明している。
関東軍の将校たちは中国東北部三省の乗っ取りに関しては慎重に計画を進めたが、その地域を運営していくということについては用意不十分であった。管轄地域を鎮圧し、中央政府の組織を新しく設立するための費用が足りないという状況に陥った関東軍は、それまで満州を治めていた清朝その他の将軍と同様に、アヘンを魅惑的な収益源として見るようになったのである。
軍の影響が大きくなるにつれ、麻薬製造と供給は、軍に資金のすべてを頼っていたわけではない急進的右翼主義者たちから軍の高官の手へと移っていった。帝国の強化、拡大というのがその理由であった。ここで星野直樹が果たした役割は大きかった。星野は1932年9月16日に施行されたアへン法により満州国での専売制度を確立し、その利益によって返済していく3000万円の国債を発行したのである。この政策は日本が征服した中国のどの地域でも採用され、とくに大きな役割を果たしたのが興亜院のアヘン禁止局であった。まず星野が満州国で、続いて日本の行政官が中国で、この制度から得られる利益は短期のものであり、制度運営のための費用のほうが多いということがわかるまで、麻薬からの利益は戦争遂行に傾ける努めために使われたとジェニングスは説明している。しかし、専売制度が放棄されることはなかった。
中国に日本が軍を進めてきたときの日本の麻薬政策は、違法密売と専売公社を共存させるというものであった。この抑制システムは失敗であったとジェニングスは考えている。製造・供給に対する公的抑制は不十分であった。製造量がはるかに上回り、値段も安い違法麻薬と競合することができなかったからである。しかし、戦争目的の資金にするために麻薬からの収益を使おうとしていたことは疑いのないことであろう。
四 東京裁判の法的分析に関する考察
占領前の中国への違法麻薬持ち込みと条約犯罪(略)
中国における日本の麻薬政策と戦争犯罪(略)
「平和に対する罪」としての日本の麻薬政策(略)
侵略の手段としての麻薬政策
多数派判巾が認めた検事の申し立ては、日本は故意に中国人に麻薬を供給することによって戦争の費用を捻出し、抵抗勢力を弱めたというものであった。言い換えれば、この二つの手法は侵略の手段として用いられたということである。これは、銀行強盗の資金を作るために麻薬を売ったり、その人を弱らせるために麻薬中毒にさせたりすることと似ている。犯罪の実行要素と侵略の意志が同時に存在したことを実証するために、多数派判事がこの二つの手法が使われた方法をどのように明らかにしたかは、さらなる説明が必要であろり多数派判事は「侵略」の定義を明確にはしていないが、判決文全部を読むと「領土の獲得による支配」と考えているようである。多数派判事にとって、中国における日本の麻薬政策に直接関連があるのはその結果(支配)よりも、その手段、すなわち、東京裁判憲章第五条による、侵略(支配)戦争の「計画」、「準備」、「開始」、「遂行」、そして「共同謀議」である。
もし被告人の目的が中国の麻薬使用者の弱体化と搾取であり、麻薬からの収益に手をつけようとしていたのであれば、日本の麻薬政策は「陰謀」、または侵略戦争の「計画」、「準備」であったと言えるだろう。しかし、そのような証拠はどこにもなかった。アヘン製造と売買から日本が利益を得たことは間違いないが、日本の高官たちはその利益を追い求めるよりも、前任者から引き継いだ問題に対処するための体制作りに汲々としていたのである。
多数派判事は、占領前に麻薬の密売人がスパイ活動をおこなっていたと考えた。また、民間の犯罪ネットワークを使って半ばならず者の外交政策活動家に麻薬を供給することによって中国への侵略に日本が「着手」していたとする歴史評論家もいた。しかし、イラン・コントラ判事と同じレベルで、民間の麻薬業者が日本政府の積極的な外国政策を遂行するための仕組みを提供したという考えは、判決文のなかには明らかにされていない。
判決文のなかで一番強調されているのは、侵略戦争が「遂行」されたということと、その戦争の資金調達に麻薬が使われたということとの関係である。麻薬からの資金によって帝国の拡大が可能になったというのは明らかである。したがって、裁判において麻薬が侵略のために必要不可欠であったと論じるのは理にかなっている。満州国におけるアヘン専売の真の目的は中国を毒し、ヨーロッパとアメリカにも違法麻薬を大量に送り込むことであったと多数派判事は推察している。彼らが麻薬を兵器と見ていたのか、利益のための道具と見ていたのかは明らかにされていない。さらに根拠のない推察もある。それは、被告人の直接目的は現地の人々に害を加えるものであったという意見である。
多数派判決文のなかでの日本の麻薬政策に対する取り扱い方は多くの批判にさらされている。たとえば、各被告人と麻薬政策、ひいては中国侵略との関係についてはほとんど述べられていない。さらには、日本の専売政策は麻薬条約、とくに「1925年排他的ジュネーブ協定」にのっとったものであり、国際法には違反していないという弁護側の主張に対しても満足のいくような返答をしていない。
しかし、このような批判があるからといって、多数派判決の基本概念には根拠がないとは言えない。
反対意見のなかで、パル判事は、麻薬条約違反が侵略戦争を特徴づけるものであるという議論に疑念を示している。しかし、もしも日本の麻薬政策が存在したという証拠が、(占領地住民)搾取の証拠として、日本が引き起こした戦争が侵略戦争であったということを定義づけるうえで概念的にも何の役にも立たないとこの学識のある判事が言うのであれば、失礼ながらも私はそれに異論を唱えなくてはならない。国際刑事裁判所の侵略犯罪特別分科会が「侵略」の定義草稿について話し合っているが、これを念頭に置くと現代の視点を通してこの問題を見ていくことができる。この定義を使うと、「侵略行為」の「計画」は麻薬収入を得るための攻撃、または占領を計画すること、と言うことができる。
「侵略行為」の「開始」は、陰に隠れた活動やスパイ活動のために麻薬売買ネットワークを使うこと、そして「侵略行為」の「遂行」は占領地その他の土地で得られた麻薬からの収益を戦争目的に用いること、となる。国際紛争のなかでこのような搾取がおこなわれたという証拠は、ある種の侵略がおこなわれたという証拠にもなる。したがって、たとえば、麻薬を供給するということはある土地が占領されていること(その占領のために麻薬からの収益が使われること)を立証するということになり、侵略戦争の「遂行」との関係性が証明される。この例の場合、占領状態を維持するために麻薬収益の一部を使うことを意図的に認可することで、被告人には侵略戦争を遂行する意図があったということが立証されれば、「侵略の意図」があったと判断される。しかし、だからといって、収益目的の麻薬売買が1974年の国連総会での「侵略」の定義のーつだというわけではない。これまで見てきたように、戦争にかかる費用をまかなうために麻薬を売買するということは侵略手段のーつとして考えられることもある、という認識を東京裁判は私たちに与えた。パル判事の解釈が、麻薬条約違反の正式な認定が侵略の認定を実証する証拠として概念的にすらなりえないというものであれば、私はこれにも異論を唱えなければならない。ここで注意しなければいけないのは、日本が麻薬条約に違反したと多数派判決ははっきりと言葉に出してはいないということだ。しかし、この意見を暗に支持していることは明らかである。いずれにせよ、この戦争が侵略的であったと裁判で説明するその助けとして日本の麻薬条約違反を持ち出すことができたはずである。そ
うしたからといって、(麻薬関連の)国際法による判断の結果を侵略の罪に直結させることにはならなかったはずである。すでに指摘したように、麻薬条約に違反したというだけで、それが侵略の前提であったとは』一口ではいえないからである。しかし、麻薬条約違反を証拠として提出できないわけではない。なぜなら、それは被告人の人格の不道徳性を表すことに使えるからである。東京裁判では証拠に関しては厳密な規定解釈に従う必要はなく、唯一問題となるのはその証拠にどれくらいの重みを検察・弁護双方が置くかということであった。事実証拠としてあるのは、日本が中国の国内麻薬政策と国際麻薬政策に違反したということだけである。しかし、このことに倫理的な重みを持たせると、日本政府と被告人の不道徳性を立証する目的で使えるのである。
五 日本政府の倫理性に対する非難
「侵略」という言葉は、もともと善悪の意味四 東京裁判の法的分析に関する考察づけのない中立的なものであった。しかし20世紀前半になって、侵略者は悪であるという倫理価値が付加されるようになった。その倫理価値は、ニュルンベルク裁判前のロンドン会議で連合国によって法的性格も与えられた。しかし、ロンドン会議では何をもって「侵略」とするかという全体一致の見解が出なかった。そこで、ニュルンベルクと東京、それぞれの裁判で各自の判断をしなければならなかった。日本の指導者を侵略の罪で非難した連合国側は、日本の攻撃の違法性を証明する義務を負うことになった。東京では麻薬条約違反を証拠として引用することにより、日本の倫理性を非難しようとした。検察主張のまとめとして、以下のような意見が出された。
満州を経済的に搾取するために、日本は農業、商業、工業というような通常の方面に手を出しただけではなかった。すべての文明社会で嫌悪されているもの その土地の人々を無差別に堕落させるもの アヘンと麻薬の売買に手を染めたのである。
これは、キーナン首席検事の「日本は文明社会に宣戦布告した」という冒頭陳述と強く呼応していた。
前記の発言に暗に込められているのは、19世紀に(しぶしぶながらも)日本を「文明」(西洋)国と同じ地位だと認めてやった国々の信頼を日本が裏切ったという不満である。当時、ジョン・ウエストレイクは「日本は東洋からヨーロッパ水準へと向上した。これは貴重な、そして興味深い例である」と述べ、ゲリット・ゴンは、「文明社会の基準というのは、暗黙のものにせよ明言されているものにせよ、 一つの前提の現れであり、ある特定の社会に属する者と属さない者とを区別するために用いられる」と指摘し博日本が西洋諸国に受け入れられたのは、「西洋難準」に達したと認識されたからである。この基準は国際法を形作った倫理価値の上に成り立っている。日本は、西洋社会に受け入れられるために尽力した。1933年、日本の外交官であった石井菊次郎子爵は次のように述べた。「私たちは、文明国に同等の国として対時してもらえるように、国内の再建と改革に努めてきた。
石井の言葉は、「日本のような非西洋国は、外国から統治権を認めてもらい、文明国際社会に入れてもらうためには、国民の声を犠牲にしなくてはいけない」というアントニー・アンギーの意見と一致する。日本は、とくに他国との対等の立場を求めていた。しかし、国際社会の基準にただ到達するだけでは、他の国と同等に扱ってもらうには不十分である。この基準の内容は、西洋諸国に都合のいいように作られているからである。このことから考えると、東京裁判で明確に主張された、西洋諸国のほうが倫理的に勝っているという主張には、疑念を持たざるをえないということがわかる。
起訴国のなかには、まだ植民地時代の考え方を色濃く残しているものがあった。それらの国は、日本の中国でのおこないを野蛮だと評したが、それは、少なくとも彼ら自身の行動を考えると、とくに偽善的な意見である。当時、これらの植民国は自身でもまだアヘン専売をおこなっていたからである。
ハル判事は、東京裁判後、 1951年におこなったタゴール法学講義のなかでこの点に触れている。
反対意見のなかで、麻薬条約は裁判の争点とは関連性がないとパル判事は述べた。その反対意見の要点をまとめ、書き直したものがタゴール法学講義である。そのなかで、判事は中国とイギリスの関係においてアヘンが果たした役割の歴史的背景を簡潔に説明してい槌o英領インドはアヘン製造と販売を独占し、そこから収入を得、中国への密輸入を奨励し、そして中国へのアヘン輸入を合法化するために中国と戦争をおこなった。結局、 1926年まで英領インドから中国への輸出は止まることがなかった。そしてその後、自身のおこないを恥ずかしく思ったため、イギリスは麻薬条約を積極的に進めていったのであろうと、パル判事は希望的推測をおこなっている。しかし、歴史資料を調べればわかるが、アヘンはイギリス帝国の中核を成していた。インド、マラヤならびにマラッカ海峡植民地の英領植民地政府、そして大英帝国植民地省は、アヘン製造と販売を徐々に減らしていこうとする麻薬条約に最後まで強く反対した。
日本にとって不運だったことは、麻薬完全禁止という新しい国際価値観の主要な擁護者がヨーロッパの植民地宗主国ではなくアメリカであったということだ。アメリカは、東アジアでは反植民地主義を意味する新しい国際価値、麻薬禁止の最も重要な擁護国であった。 1910年代、20年代にアメリカは、麻薬完全禁止をおこなうことは国際文明の倫理的・法的価値であると広めた。日本は麻薬条約に調印しながらも、同時期に満州と中国でのアヘン政府専売体制を推し進めた。これは、条約でわれている麻薬禁止の価値観に反するものであった。この結果、1909年の上海アヘン委員会以来、日本は守勢にまわってきた。麻薬製造・供給の拡大を抑制するという約東をしてはそれを破る、ということの繰り返しであっ博 日本の受け身の姿勢はOACでのアメリカの麻薬禁止の熱意とぶつかった。日本は1935年に国際連盟を脱退したが、OACには加盟したままであった。OACでは、アメリカの代表であったフラーが日本を激しく非難した。満州国におけるアヘン専売は「これまでの麻薬違法売買において、最大の事業」だというのである。さらにフラーは、中国での日本の麻薬政策について、「いかなる政府も義務を守ることで他国から敬意を払ってもらい、 同じ義務を守る他国に敬意を払うのであるが、これはその義務を完全に無視した例である」と述べた。この意見は東京裁判での検察側の証拠として取り上げら樋、その強い倫理的論調は検察の主張、多数派判決に反映された。この論調は、中国での麻薬使用による影響が明らかになるにつれて生まれてきた純粋な嫌悪感によるものである。そして日本の政策ほ、「自分たちではまだ独立できない人々」(この場合は中国人)の「健康を保障することは文明社会の義務である」というウィルソン大統領の信念を裏切るものでもあった。麻薬完全禁止は、アメリカによって国際文明社会の‘員となるための条件だと奨励されてきた。この価値観を裏切った結果、日本はその文明社会から離脱し、その指導者は無法者だという論が東京裁判で出された。
重要なことは、麻薬条約それ自体には、アメリカがはっきりと述べているほど完全禁止について明確に記されていないということである。東京裁判の弁護側は、政府指導の下で段階的に麻薬使用と供給を減らすというような柔軟な麻薬政策も麻薬条約の範晴であると主張しようとしたが、これは失敗に終わった。アメリカはもっと厳格にこれらの条約を解釈し、OACでもその解釈を通した。この解釈基準が日本の行動を評価するために用いられた。OACにおいて日本代表は日本の政策を擁護するために次のように述べた。アメリカの厳しい価値観は理想主義にのっとったもので、アメリカ自身もまだその理論をうまく適用できておらず、そして「麻薬という悪は、長期間にわたって中国に存在してきたので、 一瞬で消し去るには社会の深部まで浸透しすぎていた」。東京裁判でも、同じ弁護論旨を用いたが、それは成功しなかった。麻薬完全禁止主義を支えていた、住民諸個人が自分自身に危害を加えるようなことを防ぐのが文明社会であるという温情的干渉主義が、OACから東京裁判へと引き継がれたのである。麻薬条約違反において日本を懲戒することは、日本への非難であると同時に、東アジアにおける麻薬使用・供給の複雑な諸要因を隠すことでもあった。
「文明」世界の一員という位置を維持したまま、日本が「文明」社会の価値観に従わない麻薬政策を採用することはできない。だからといって、日本だけがこのような政策を施行していたのではない。
日本は、他の植民地勢力の例に倣ったのである。日本が植民地勢力のーつになったのは一九世紀後半であった。裁判で問題となったのは、日本そのものの麻薬政策ではなく、日本の植民地における麻薬政策である。実際のところ、日本においてはもちろんのこと、植民地においても、日本国籍を持った者に対しては麻薬完全禁止政策をとっていたのである。日本は、軍事占領という優位性をいかして、中国における法基準を選択し施行させた。中国には、それを拒絶する権利はなかったのである。
【注】第一次世界大戦後には、国際連盟のもとに「アヘンおよび危険薬物の取引をめぐる諮問委員会(以下 OAC と略)」が設置され、アヘン・麻薬類の規制をめぐる各国間の協調が国際体制のもとで推進されるようになった。
(略)
六 核心的犯罪と条約犯罪との規範重複に関する考察
法律(略)
倫理性(略)
七 おわりに
犯罪が起きたときに国家主権の概念が不規則に使われること、それが永年国際弁護士たちの悩みの種になってきた。たとえば、過去の国際弁護士は、独立国家としての要素を全部持っている土地(準州など)で、戦争行為ではなく個人による略奪行為が起こった際に、その土地に対する国際評価をどうするかという問題に突き当たった。これはアルフレツド・ルービンが指摘していることだが、アフリカ北部のベルベル諸国のことをジェンティリその他の専門家は海賊地域と呼ぶ一方で、バインケルスフークその他は、ベルベル諸国は独立国家としての条件を満たしており、独立国家として認められる資格があると異論を唱え、主権国家の権限を持たない個人が海で略奪することだけを海賊行為と呼ぶという主張だった。もし彼らが主権者であるならば、その場合は戦争行為となり、現代的な意味での核心的犯罪のなかの「略奪行為」に当たる。また、国がテロリズムの支援をした場合(いくつかの国は間違いなく加担しているが)、それは個人による条約犯罪なのか、それとも国の官権者による核心的犯罪なのかという判断を迫られる。この点で、中国における日本人の麻薬に関する活動と、それに対する東京裁判での取り扱いは今まで忘れられがちであった。しかし、この裁判は、禁止条約違反の証拠に部分的に依拠しながら、核心的犯罪の個人的責任を間うという明らかな前例を残した。条約犯罪から核心的犯罪へ移行する鍵となったのは、この裁判においては、国家主権の状況、主権国家の不規則な目的、証拠の関連性とその重要性であった。東京裁判の前例は、今日の世界では想像しがたいかもしれない。たとえば、オランダがドイツに侵略し、喫茶店をあちこちに作り、そこでインド大麻を売って侵略にかかった費用をまかなうといったようなことは起こりがたいと考えられる。しかし、序論で示したような例や、タリバンがアフガニスタンにおいてアヘンとヘロインの売買で年に少なくとも一億米ドル儲け、それをアフガニスタン侵略のために使っているという例もあり、国際社会の大一きな関心事となっている。それらに鑑みると、東京裁判での議論が前時代的なものであるとは必ずし一も言えないのである。
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(続く)