いよいよ今回から「菊」の登場です。それは朝敵討伐の標として用いられた『錦の御旗(錦旗:きんき)』に金糸で縫取りした「菊」の紋章に象徴される天皇家の軍隊「皇軍」が新宿区の歴史上に登場してくるのです。
【注・江戸東京博物館や遊就館に展示されている錦旗は日章となっていますが、菊と二種類あったようです。】
新政府軍の「錦の御旗(錦旗:きんき)」は日月模様(丸い模様)と菊の模様が登場しますが、どちらが事実か。戦いの前の慶応3年の段階で用意されていたのは「日月」模様だったが、戊辰戦争が終わるころは菊の紋の旗が増えていたらしい。「鳥羽伏見の戦い」についてはくわしい記録がないが、新政府発足当初から公印等に菊の紋が使われていたことなどから、「日月」「菊」両方の錦の御旗がすでに使用されていたと考えられています。
慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いで官軍は兵力の上では劣勢でありましたが「錦の御旗」を見た幕府軍は戦意を喪失して、官軍の大勝利となりました。江戸に退去した徳川慶喜を追って、官軍の江戸総攻撃は、東海道・東山道・北陸道の三方面から行われました。官軍は品川弥次郎が作詞、大村益次郎が作曲した日本で初めての軍隊行進曲『宮さん宮さんお馬の前にひらひらするのはなんじゃいな。トコトンヤレトンヤレナ。あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか。トコトンヤレトンヤレナ』の曲を唄い、錦旗を先頭に江戸に向かって行進しました。
東山道軍の参謀板垣退助は、まず土佐、因州【注・山陰道の一国。今の鳥取県東部】の兵を率いて甲州街道を江戸に向かって出発し、勝沼で新選組の近藤勇らと一戦を交え、八王子を経て3月14日に内藤新宿に到着、本陣は東山道鎮撫総督の御宿となりました。やがて全軍が続々江戸に到着、市谷本村町の尾張徳川藩邸に布陣し、市ヶ谷台から外堀をへだてた江戸城に、大砲の筒先を向けながら、三田薩摩屋敷で二回にわたる西郷隆盛と勝海舟が談判の末、4月11日江戸開城となりました。つまり、徳川本家の親藩である尾張家をまっ先に官軍が占拠し、精神的な圧力を徳川方にかけたのです。
「新宿地図集」に『東京鎮臺砲兵営』『陸軍野戦砲兵営』が見えますが、こうした由緒から見ても考えられます。
画像は春と秋の例大祭の時に靖国神社拝殿前に掲げられる錦旗(これは菊の紋章となっています)