『新宿には二つの顔があります。繁華街歌舞伎町と超高層ビルの新宿です。もう一つは
軍事都市だった新宿です』と「新宿の戦争遺跡」について書かせて頂きましたが今回からは「葵から菊へ・かっての軍事都市新宿」を順次ご案内して行きたいと思います。
徳川家康が江戸に幕府を慶長8(1603)年に開いて404年になりました。
家康が江戸の街づくりで苦労したことの一つが「水」問題でした。江戸に入府した天正18(1950)年小石川上水を開き、その後、井の頭池、善福寺池、妙正寺池を水源とする神田上水だけではまかなえないので玉川兄弟に命じて都下の羽村から四ッ谷までの堀割水路が敷設されたのが玉川上水です。今から353年前のことでした。
四ッ谷大木戸まで開削工法で引かれた上水はそこからは木樋でもって地下で江戸市中へ通水されました。区役所四谷庁舎敷地内に玉川上水記念碑が建っています。明治31(1898)年には玉川上水を浄化する淀橋浄水場が出来て近代水道が始まります。このことからも新宿は早くから都市インフラが整備されていた地域だったといえましょう。移転後の淀橋浄水場跡が現在の新宿新都心です。
さて徳川御三家の筆頭大名、尾張徳川家第二代光友公が明暦2年(1656)年第四代将軍家綱公より市谷本村町5万坪を拝領して上屋敷を築き、後に河田町に中屋敷を、戸山に下屋敷を築くことになります。こうして現在の新宿区内には徳川家の家紋「葵」が多数存在することになります。新宿の市ヶ谷台、牛込台は関東ローム層の台地であり、江戸城の西北に位置する要衝の高台であります。且つ又甲府への避難路である甲州街道を守護する役目もあることからこの地を拝領したと見られます。
四谷の若葉にある西念寺には家康のお庭番筆頭の家臣、服部半蔵の墓がありますが、特別に「葵」の家紋が許され寺院の正門に飾られています。