移動劇団さくら隊平和祈念殉難法要が目黒五百羅漢寺で行われたことでしょう。
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2018年桜隊原爆忌の会主催の「桜隊原爆殉難者追悼会」を休止させていただきます。
すでにマスコミで報道されましたように、本年1月、神山寛当会会長が逝去されました。前会長の中村美代子の後を継ぎ、2012年から6年間会長を務めていただきました。ここで改めて哀悼の意を表したいと思います。
さて、私どもは数年来、原爆忌の会の今後の在り方について、桜隊の悲劇を永く後世に残すために永続性のある組織を確立する必要があることを提起し、訴え続けて参りました。その長期展望を実現するための過渡的な運営縮小も検討中であることも昨年お伝えしました。そうした議論の上で、本年の「桜隊原爆殉難者追悼会」を、誠に無念な思いで休止の決断をし、五百羅漢寺様主催の「平和祈念桜隊殉難法要」に参加する形で追悼を捧げてゆくことといたしました。毎年ご参加頂いている方々には深くお詫び申し上げます。
五百羅漢寺様の法要は、8月6日(月)午前8時より「さくら隊原爆殉難碑」前で開催されます。私ども事務局は、ご都合の付く皆様とも、ぜひごいっしょにお参りできればと願っております。 今後、桜隊原爆忌の新たな出発を目指してその環境が整うまでの間は、皆様からお預かりしているご篤志を羅漢寺様への法要料としてお納めし、皆様からの追悼とさせていただく所存でございます。
なお、今後も会の後継、移管先を模索してまいりますが、現在のところ展望は開けておりません。本会の果たしてきた役割を断絶させることなく後世に伝えるためとご理解いただきたく存じ、皆様のご助言、ご助力をお願い申し上げる次第です。
2018年7月7日
桜隊原爆忌の会 世話人事務局
新藤兼人著 未来社刊「さくら隊散る」から
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新宿平和委員会が2000年7月7日に発刊した「葵から菊へ 軍都新宿の歴史を訪ねる」から抜粋をしたい。(記述したのは故人となった元会長松田修次さん。)
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鎮魂(1)櫻隊全滅
櫻隊(戦時下の丸山定夫率いる移動劇団で、興業のため広島に向かい被爆全滅した。)の隊員に新宿区荒木町に生まれた森下彰子がいる。
ある劇団の原爆殉難記(江津萩枝著)の記述に森下彰子が、成女学園に在学していたことが紹介されている。
森下彰子の詳細
一九二二(T十一)年三月、当時の四谷区荒木町に出生、一人娘として育つ。成女学園に、在学中に父親の反対を押し切って、映画会社「日活」に応募して入社、映画女優としての道を歩き始めた。役がつきはじめた頃、戦時統制令で映画の制作もガタガタに減ってきた中で、森下は苦楽座の第二回公演(一九四三年六月、丸ノ内の邦楽座)に参加。演目は『文吾きたる』で娘道子役で出演している。なぜかその後、第三、第四回公演、さらに一九四五(S二〇)年の移動劇団の結成時の名簿、神奈川・広島県下の移動巡演活動にも参加していないのに、櫻隊最後の活動となった山陰地方の移動巡演には羽原と共に参加して、帰寮後も次の活動に備えて寮にいて被爆した。
森下彰子の家庭には自宅に舞台があり、幼児から仕舞を身につけて、しつけのよいきりっとしたところのある娘さんであり、「岡田嘉子の若い頃のプロフィール」を想起させる、感じのよい女優さんだったと紹介されている。
小泉八雲とともに「櫻隊の殉難」にも想いを馳せるのも又、歴史ウオークの一つの視点ではないでしょうか・・・?。
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2015年8月6日のブログ記事もご参照下さい。
移動劇団“桜隊”も原爆で全滅「新藤兼人監督のメッセージ」“さくら隊散る”鎌倉市で上映会
鎌倉市妙隆寺の「丸山定夫の碑」
「gariken design 鎌倉散策 鎌倉写真 鎌倉の歴史」より転載しました。
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2018年桜隊原爆忌の会主催の「桜隊原爆殉難者追悼会」を休止させていただきます。
すでにマスコミで報道されましたように、本年1月、神山寛当会会長が逝去されました。前会長の中村美代子の後を継ぎ、2012年から6年間会長を務めていただきました。ここで改めて哀悼の意を表したいと思います。
さて、私どもは数年来、原爆忌の会の今後の在り方について、桜隊の悲劇を永く後世に残すために永続性のある組織を確立する必要があることを提起し、訴え続けて参りました。その長期展望を実現するための過渡的な運営縮小も検討中であることも昨年お伝えしました。そうした議論の上で、本年の「桜隊原爆殉難者追悼会」を、誠に無念な思いで休止の決断をし、五百羅漢寺様主催の「平和祈念桜隊殉難法要」に参加する形で追悼を捧げてゆくことといたしました。毎年ご参加頂いている方々には深くお詫び申し上げます。
五百羅漢寺様の法要は、8月6日(月)午前8時より「さくら隊原爆殉難碑」前で開催されます。私ども事務局は、ご都合の付く皆様とも、ぜひごいっしょにお参りできればと願っております。 今後、桜隊原爆忌の新たな出発を目指してその環境が整うまでの間は、皆様からお預かりしているご篤志を羅漢寺様への法要料としてお納めし、皆様からの追悼とさせていただく所存でございます。
なお、今後も会の後継、移管先を模索してまいりますが、現在のところ展望は開けておりません。本会の果たしてきた役割を断絶させることなく後世に伝えるためとご理解いただきたく存じ、皆様のご助言、ご助力をお願い申し上げる次第です。
2018年7月7日
桜隊原爆忌の会 世話人事務局
新藤兼人著 未来社刊「さくら隊散る」から
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新宿平和委員会が2000年7月7日に発刊した「葵から菊へ 軍都新宿の歴史を訪ねる」から抜粋をしたい。(記述したのは故人となった元会長松田修次さん。)
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鎮魂(1)櫻隊全滅
櫻隊(戦時下の丸山定夫率いる移動劇団で、興業のため広島に向かい被爆全滅した。)の隊員に新宿区荒木町に生まれた森下彰子がいる。
ある劇団の原爆殉難記(江津萩枝著)の記述に森下彰子が、成女学園に在学していたことが紹介されている。
森下彰子の詳細
一九二二(T十一)年三月、当時の四谷区荒木町に出生、一人娘として育つ。成女学園に、在学中に父親の反対を押し切って、映画会社「日活」に応募して入社、映画女優としての道を歩き始めた。役がつきはじめた頃、戦時統制令で映画の制作もガタガタに減ってきた中で、森下は苦楽座の第二回公演(一九四三年六月、丸ノ内の邦楽座)に参加。演目は『文吾きたる』で娘道子役で出演している。なぜかその後、第三、第四回公演、さらに一九四五(S二〇)年の移動劇団の結成時の名簿、神奈川・広島県下の移動巡演活動にも参加していないのに、櫻隊最後の活動となった山陰地方の移動巡演には羽原と共に参加して、帰寮後も次の活動に備えて寮にいて被爆した。
森下彰子の家庭には自宅に舞台があり、幼児から仕舞を身につけて、しつけのよいきりっとしたところのある娘さんであり、「岡田嘉子の若い頃のプロフィール」を想起させる、感じのよい女優さんだったと紹介されている。
小泉八雲とともに「櫻隊の殉難」にも想いを馳せるのも又、歴史ウオークの一つの視点ではないでしょうか・・・?。
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2015年8月6日のブログ記事もご参照下さい。
移動劇団“桜隊”も原爆で全滅「新藤兼人監督のメッセージ」“さくら隊散る”鎌倉市で上映会
鎌倉市妙隆寺の「丸山定夫の碑」
「gariken design 鎌倉散策 鎌倉写真 鎌倉の歴史」より転載しました。