「歴史探訪 世田谷の戦跡を歩く」資料
「世田谷区平和マップ」2024年版
「世田谷区平和マップ」2015年版
東条英機邸跡と東京裁判
「今昔マップ」より
「昭和58年航空住宅地図」より
冩眞週報「大東亜戰爭一周年」モノクロ印刷の表紙が初めてカラー印刷となった。
「民一億の総師として大東亜戰爭をあくまで戰ひ抜く鐵石の決意」
開戦の詔書(国立公文書館)
1945年8月30日厚木飛行場に降り立ったマッカーサー元帥
ミズリー号上で降伏文書の調印式(国立公文書館)
逮捕された時にピストル自決未遂の東條英機(1945年9月11日)「図説 東京裁判」より
昭和21年(1946)5月4日東京裁判の開廷を報じた毎日新聞
河出書房新社刊「図説 東京裁判」(管理人が加筆)
陸軍士官学校一号館講堂の東京裁判法廷(左側が裁判官席、右側が被告席)
動画「大森収容所で生活するA級戦犯」をご覧ください。東条英機や岸信介の姿は確認できました。
「防衛省市谷記念館を考える会」公式ホームページ
昭和23年(1948)11月13日東京裁判の判決を報じた朝日新聞
1948年(昭和23年)12月23日(皇太子明仁親王・現在の明仁上皇の誕生日)にA級戦犯7人の絞首刑が巣鴨プリズンで執行されました。処刑された7人の遺体は、横浜市西区の久保山斎場で火葬され、遺骨は伊勢佐木飛行場から飛びたった米軍軽飛行機によって東京湾外に捨てられました。しかし、12月25日に小磯国昭の弁護人だった三文字正平弁護士らが遺灰を密かに回収し、近くの興禅寺に預けられ、1949年5月に伊豆山中の興亜観音に密かに葬られました。
その後、1960年(昭和35年)8月16日に愛知県幡豆郡幡豆町三ヶ根山の山頂付近に移され、三ヶ根山には「殉国七士廟」が設けられ、その中の「殉国七士墓」に遺骨が分骨されて安置されてiいます。そしてもう一カ所は、長野市赤沼の「七光無量寿之墓」です。(「図説 東京裁判」)による。
「殉国七士墓」(田園調布学園高・中学校元教諭川口重雄氏提供)
靖国神社遊就館「靖国の神々」に展示されている東條英機
池尻大橋駅周辺の戦跡
馬魂碑
兵舎跡を使用している「韓国居留民団世田谷支部」
陸軍獣医学校跡碑
騎兵第一聯隊碑
防衛ホーム社刊「彰古館」
世田谷美術館前庭 本郷新作「わだつみの像」
東京農業大学と満州湖北報国農場
輓馬機動部隊
世田谷区長保坂展人氏は区のおしらせ「せたがや」2015年8月25日号に『「馬の魅力を伝える馬事公苑」2020年のオリンピック・パラリンピックまであと5年となりました。既に報道されているように馬事公苑(上用賀二丁目)でオリンピックの馬術競技が開催されます。「ふるさと区民まつり」の会場としても親しまれている馬事公苑の歴史を探ると、オリンピックとのつながりが深い施設であることがわかります。馬事公苑は、1940年(昭和15年)に開苑しています。この年に開催予定で戦争の激化により返上された「幻の東京オリンピック」の会場としての使用も計画されていたそうです。戦時中には輓馬(ばんば)部隊が置かれ、戦後の1964年(昭和39年)のオリンピックの時に改めて馬術競技の会場となりました。』と書かれました。
東京農業大学の校地は戦前、陸軍自動車学校(陸軍機甲整備学校)でしたので、南側に隣接する馬事公苑も軍用馬に関連した戦跡ではないかと睨んでいました。早速世田谷区に電話をしたところ、区長はネット情報から執筆したので、区として「輓馬部隊」の文献資料はないとの回答でした。毎年馬事公苑で「ふるさと区民まつり」をしているので、その担当係長が馬事公苑に電話をして調べてくれました。
「1940年に開苑したが、1944年12月馬政局によって輓馬部隊となった。1945年3月から運送業務が開始された。」
これ以上は分かりませんというので、横浜市根岸競馬場跡にある「馬の博物館」に電話をして学芸部村井氏から教えていただいた。
『正式名称は「輓馬機動隊」という。銀座松屋、代々木、玉川、馬事公苑に事務所があり、物資の移動・供給が任務だった。実際の業務は国策会社の日本通運だった。詳細は「中央競馬会発刊:日本競馬史全7巻」の第6巻を読んでほしい。敗戦時の軍事機密書類焼却命令によって馬事公苑には文献はありません。』
馬事公苑「紀元二千六百年」碑
輓馬各種地形行進
高射砲陣地
探照灯と高射砲「陸軍つはもの写眞集」より
その他
奥沢海軍村
蘆花恒春園「徳富蘆花記念館」
安重根の書(レプリカ)
参考Blog記事
■「江戸時代は甲州道が、近代は大山道が軍用道路に」世田谷区の軍事史Ⅰ
(了)