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日本中国友好協会千葉県東葛飾支部のニュース「葛の花」121号

2023年01月21日 | 日本と中国

日本中国友好協会東京都連合会事務局長北中一永さんからのメールを転載します。

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おはようございます。千葉県東葛飾支部・田中事務局長からのニュース「葛の花」121号を転送します。

王さんの展覧会に参加した 戸塚さんより早速感想を寄稿頂きましたので添付します。(当支部報2月号で紹介する予定です)当支部報1月も併せ添付します。田中

王希奇「一九四六」東京展を見て浮かんだ風景
                                                            戸塚 章介
中国の画家王希奇の「一九四六」東京展を見に行った。3m×20m の巨大画に圧倒された。日本への引揚げに望みを託して、葫蘆島にたどり着いた群衆。女性や子供が目立つ。私はかつて丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」を見たことがあるが、それと同じ感銘を受けた。
画の中央に遺骨を首から下げた少年が描かれている。頬肉の落ちた顔を斜め上へ向けて、何かを訴えるかのような視線。私は強い既視感にとらわれた。あの時の私と同じではないか。私も1946年6月、葫蘆島から引揚げ船に乗ったのだ。
私の父は遼陽郊外に進出した関東軍火工廠の職員で身分は軍属、41 年春に一家で渡満した。引揚げ時私は9歳、父母と姉、妹2人の6人家族。引揚げの年の3月に4歳で死んだ妹の骨箱を私が胸に抱いた。
 45年8月15 日の敗戦から過酷な毎日が続いたが、46 年4 月、やっと帰国の段取りができて各家庭に「帰国便覧」が配られた。「この帰国は中国当局を始め連合国の好意によるものでありまして、私ども日僑は良く自己の立場を認識し、祖国への長い旅路を恙なく一糸乱れぬ統制のもとに終始しなればなりません」。なお「伝染病患者及び普通旅行に耐えざる者」は引揚者から除外された。
「帰国便覧」には持ち帰り金品について「年齢の区別なく1人1500円の携行を許可。うち500円は出航までの費用とする」との記載がある。現地で私たちが持っていたのはいわゆる「満州円」で、日本国内では通用しない。葫蘆島の埠頭銀行で日本円に換えるのだから不正持ち出しの余地はない。
火工廠には将校、技師、その家族など 4500 人ほどいたが、そのうち4000 人が集団で引き揚げることになる。他は中国側の「留用」要請で現地に残留した。4000人は1000人ずつの大隊に分けられた。私たち一家が属する第3大隊は6月28日に火工廠所在地を出発、遼陽、瀋陽(奉天)を経て29日午後3時に錦州錦県駅に着いた。列車は無蓋貨車だった。そこで収容所に入り 1 週間滞在、7 月 5 日に葫蘆島最寄りの茨山駅へ向かう。茨山には 2日間滞在。この茨山は葫蘆島を見下ろす小高い丘で、後年、「日本僑俘遺返の地」という石碑が建てられたという。
7月7日朝、茨山の収容所を出ていよいよ引揚げ船に乗り込む。船はアメリカの上陸用舟艇(フリゲート艦)で、船底の広い空間に全員詰め込まれた。その日のうちに葫蘆島を出航、10 日に博多港外に着いたが、港へ入るまでに2 日、上陸までさらに2日間待たされた。14日午前10時、やっとのことで日本の土を踏むことができた。
あれから77年、私は今年86歳になる。王希奇画伯の巨大画を前に、感無量のまま無言で立ちつくすのみであった。(とつか・しょうすけ=松戸在住)

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(了)

 

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