管理人は、九段会館を重要文化財として保存させるためには超党派の「防衛省・市ヶ谷記念館」保存運動の体験を学ぶ必要があると考えています。
そこで2000年7月に新宿平和委員会(会長長谷川順一)が発刊した「葵から菊へ “軍都新宿”の歴史を訪ねる」【絶版】の「発刊にあたって」の一部を転載します。
『一九八七年八月、この平和都市に、防衛庁が六本木から、市ヶ谷台に移転すると発表された。新宿区議会は、即座に、防衛庁の拡充移転に関する反対意見書を可決、関係方面に送付したにもかかわらず、アメリカの顔色を伺い、「夢よもうー度」と、侵略戦争に反省のない政府は、強引に建設工事を進めた。これは、「産軍癒着」の構造と、再び軍事大国への危険をはらんでいる。しかし、当初の「七ヶ年計画」一九九五年完成は、大きく遅れて十二年の歳月を要して、ミレニアムの昨年、完成と同時に移転を完了した。
この間、新宿の平和を愛する人たちは、「防衛庁移転を考える会」に結集、この移転を食い止め、平和都市新宿にふさわしく、市ヶ谷台を平和な史跡公園にとの運動を展開してきた。反面、侵略戦争のシンボルである「旧大本営陸軍部」および、「極東(東京)軍事裁判」の舞台となった、かつての「旧陸軍士官学校」の講堂と、ともに、戦争遂行時のかくれ家的存在である「地下壕」の保存、公開を訴えてきた。この要求は、一時期公開され、一号館は中心部分を「市ヶ谷記念館」として移転復元し、地下壕も三分の二は保存することに成功した。』
2011年8月13日にブログ記事「防衛省市ヶ谷記念館の未来」をアップしましたが、春日恒男氏(文化資源学会)の論考(一部)を再掲します。
題目:「市ヶ谷記念館」の未来
発表者:春日恒男(文化資源学会)
1. はじめに
「市ヶ谷記念館」とは、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地1号館の一部を同駐屯地西端(現在の防衛省庁舎B棟西側)に移設復元した建物である(1998(平成10)年10月に完成)。この建物は大講堂等の四施設を選別し、再構成したもので、「1号館」の約十六分の一に当たる。なお、「1号館」とは、1937(昭和12)年6月、陸軍士官学校本部として建設され、1941年から敗戦まで大本営陸軍部等として使用された建物である。敗戦後の1946年、ここで極東国際軍事裁判所法廷(以下、東京裁判法廷)が開設され、1960~94年まで陸上自衛隊東部方面総監部、各自衛隊幹部学校等として使用された。
2. 成立の経緯
同記念館の成立には「市ヶ谷台1号館保存運動」が深く関与している。1987年、防衛庁(当時、六本木に所在)の市ヶ谷移転を機に「1号館」取り壊しが決定する。1991年、TV報道を契機に「市ヶ谷台1号館の保存を求める会」が保存運動を起こした。1992年、この動きに板垣正(自民党)、翫(いとう)正敏(社会党)聴濤(きくなみ)弘(共産党)の国会議員が協力し、超党派の保存運動へと発展する。1993年11月、参院内閣委の審議の結果、時の防衛庁長官が再検討を決断し、防衛庁は取り壊しから「一部保存」に一転した。しかし、翌1994年1月、参院本会議が全会一致で「保存に関する請願書」採択したにもかかわらず、防衛庁は「全面保存」を拒否する。その後も保存運動側は裁判やデモ等の行動に訴えるが、ついに「全面保存」は実現せず、現在の「市ヶ谷記念館」が誕生した。(以下略)