国立国際医療研究センター(NCGM)地下1階アトリウムに創立150年記念で特別展示されているパネルの一枚
生命を守るため
未知に立ち向かう
ビキニ環礁で被曝した第五福竜丸の乗組員治療を
文字起こし
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・1954年(昭和29年)3月1日、南太平洋ニューマレドニアのビキニ環礁で行われた水爆実験は、当初の予想をはるかに超えた規模となり、想定された危険水域外で操業していた第五福竜丸は、放射性降下物により船体や取った魚のみならず、乗組員23人全員が被曝してしまった。それでも第五福竜丸は、自力で日本までたどり着き、乗組員たちは、国立東京第一病院(NCGMの前身)に入院することになった。
・病院では、主治医の熊取俊之(東京大学医学部教授、国立東京第一病院、写真左)とそれを支える医師、三好和夫(徳島大学医学部教授、写真右)たちは懸命なる治療を続けた。その結果、残念ながら久保山氏は亡くなったが、ほか全員を救命した。久保山氏の死に際し、主治医の熊取俊之は、「もう何も言えません」と語ったと言う。
⇒この展示室には、乗組員から贈られた第五福竜丸の模型が展示されています。
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1階の資料展示室
久保山さん達が着ている白衣は、陸軍病院時代の患者用白衣です。
このパネルにある「全身照射推定線量」などの治療記録を開示請求しましたが、医療センターから「誰が何時このパネルを制作したか不明である。治療記録は存在しない。」と不開示回答がありました。
参考ブログ記事【第五福竜丸乗組員入院の開示請求に東大から受付した旨の文書が到達】
(続く)
生命を守るため
未知に立ち向かう
ビキニ環礁で被曝した第五福竜丸の乗組員治療を
文字起こし
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・1954年(昭和29年)3月1日、南太平洋ニューマレドニアのビキニ環礁で行われた水爆実験は、当初の予想をはるかに超えた規模となり、想定された危険水域外で操業していた第五福竜丸は、放射性降下物により船体や取った魚のみならず、乗組員23人全員が被曝してしまった。それでも第五福竜丸は、自力で日本までたどり着き、乗組員たちは、国立東京第一病院(NCGMの前身)に入院することになった。
・病院では、主治医の熊取俊之(東京大学医学部教授、国立東京第一病院、写真左)とそれを支える医師、三好和夫(徳島大学医学部教授、写真右)たちは懸命なる治療を続けた。その結果、残念ながら久保山氏は亡くなったが、ほか全員を救命した。久保山氏の死に際し、主治医の熊取俊之は、「もう何も言えません」と語ったと言う。
⇒この展示室には、乗組員から贈られた第五福竜丸の模型が展示されています。
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1階の資料展示室
久保山さん達が着ている白衣は、陸軍病院時代の患者用白衣です。
このパネルにある「全身照射推定線量」などの治療記録を開示請求しましたが、医療センターから「誰が何時このパネルを制作したか不明である。治療記録は存在しない。」と不開示回答がありました。
参考ブログ記事【第五福竜丸乗組員入院の開示請求に東大から受付した旨の文書が到達】
(続く)