「海軍の日中戦争」の謹呈本が(出版社の平凡社経由で)管理人に届きましたので、笠原十九司先生の自宅にお礼の電話をかけました。
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著書の「はじめに」の一部を引用します。
筆者は『日中全面戦争と海軍ーーパナイ号事件の真相』において、盧溝橋事件をきっかけに華北で戦闘が開始された「北支事変」第二次上海事変により華中・華南へと拡大させ、「支那事変」と当時いわれた日中全面戦争にまで拡大したのが、海軍であったことを明らかにした。(略)
本書では海軍が「知能犯」であったがゆえに、今日でも国民が「騙されている」あるいは「気づくことができないでいる」海軍の「謀略」「戦争犯罪」を究明して歴史の記録に留めておきたい。その代表的なものが、第二次上海事変そして日中戦争の全面化の導火線になった「大山事件(一九三七年八月九日)が、現地海軍が仕掛けた謀略であったことである。その事実を歴史学的に追及したのは、筆者が初めてであり、それを体系的に論じたのは本書が最初であろう。「知能犯」たる海軍がおこなった「謀略・大山事件」が「完全犯罪」で終わるのを阻止しようとしたのが本書である。
「おわりに」の一部を引用します。
筆者は、戦後五〇年を契機に、『日中全面戦争と海軍パナイ号事件の真相』(青木書店、一九九七年)を執筆して、海軍が日中戦争を全面化したことを明らかにし、さらにアメリカでは「真珠湾への序曲」「日米戦争への序曲」といわれたパナイ号事件の全貌と影響を解明することによって、日中戦争が日米戦争へと連続していった歴史の側面に注目した。
同書は、筆者が、日本海軍の戦争責任を究明しようとした第一弾であったのにたいし、本書は、奇しくも戦後七〇年の年に、日本海軍の戦争責任をさらに全面的に究明しようとした第二弾となった。前書では、大山事件(一九三七年八月九日)を「拡大派の「謀略のシナリオ」を見るようなタイミングの良さ」で発生したと指摘するにとどまっているが、本書では、「知能犯の海軍」による、謀略事件であったことを明らかにすることができた。私が大山事件を問題にし、海軍が仕掛けた謀略事件であったことを明らかにしなければ、歴史的には海軍の「完全犯罪」が成立してしまうことになったのではないか。
それにしても、大山事件は海軍が仕掛けた謀略であったという歴史の真相が、戦後七〇年にもなる今日まで、歴史家やジャーナリストをふくめて解明されてこなかったのが不思議である。本書で明らかにしたように、海軍が日中戦争を全面化させ、陸軍ではなく、海軍が「自滅のシナリオ」の結末として、日本を「日米戦争へと引っ張っていった」歴史事実の解明が、なぜ本格的になされてこなかったのだろうか。
歴史書としておそらく初めて、大山事件が海軍によって仕掛けられた謀略であることを明らかにした本書にたいして、さまざまな批判と反論が寄せられることが予想される。そのなかで、もっとも問題ににされるのが、上官の上海海軍特別陸戦隊司令官大川内伝七少将から大山勇夫中尉に直接伝えられたと想定される「口頭密命」について、当事者の証言や文書記録がないではないか、ということではないかと思われる。
「口頭密命」に関して、発案・命令者は長谷川清第三艦隊司令長官、海軍首脳として知っていたと思われる人物として、米内光政海相、山本五十六海軍次官、伏見官軍令部総長の名前をあげておいたが、「口頭密命」については、戦後になっても海軍首脳の誰からも「自白」「告白」「告発」されることがなかった。本書の「はじめに」に記した海軍は「知能犯」であったことが見事に証明されたといえよう。
そこで、裁判に例えれば、本書は、犯人の「自白」がないままに、「状況証拠」ならびに「傍証」にもとづいて、「有罪」判決を下したのと同じになる。しかし、本書を読んでいただけば分かるよぅに、大山事件が海軍によって仕掛けられた謀略事件であった事実は、本書が提示した「状況証拠」と「傍証」の記録史料によって十分に立証されたのではないかと、自負している。おそらく今後とも「口頭密命」の直接史料は発見されることはないと思われる。
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08年8月10日(日)に「早稲田9条の会」が主催した講演会が新宿区立若松地域センターで開かれ、講師は自衛隊イラク派兵差し止め訴訟違憲判決の名古屋高裁で原告側証人として証言された明治大学教授山田朗さんでした。
開会挨拶をした「早稲田九条の会」代表委員武藤徹さん(元都立戸山高校数学教師)は東京帝國大学数学科1年生の時、陸軍参謀本部第三部(情報担当)が疎開した長野県下諏訪に勤労動員学徒として昭和20年5月3日から8月15日まで勤務していた。帝大生は20人だった。ポツダム宣言受諾の詔勅放送があったの後、将校たちが米などの物資を運び出すのを見た下級兵士が肩章をはずして「戦争は終わったのだ。士官も兵隊の区別もあるものか」と醜い物資の取り合いをというその時の貴重な体験を話されました。その後の懇親会の中で武藤さんは大山中尉事件について、衝撃的で驚くべき証言をなされました。
>上官だった釜賀一夫少佐が第二次上海事変時の大山事件の真相を私に話した。「海軍は大山勇夫中尉に家族の面倒を見るから死んでくれと言った。そこで大山中尉は中国軍の三重の警戒線があったが、まず第一、第二の阻止線の誰何(すいか)を突破していった。そして第三の阻止線における銃撃で殺されたのだ」<
大山事件の謀略が歴史的事実としたならば日中戦争の歴史がひっくり返る重大な問題と考えました。
管理人が生後六ヶ月の時に父親が、第二次上海事変で応集し、上海に上陸後、蘇州・南京・岳州・徐州と転戦した陸軍第九師団輜重聯隊特務二等兵だったことから、大山中尉事件が謀略だったと聞かされたときは大変ショックでした。何となれば、もし父親が中国戦線で戦死をしたならば「靖国の遺児」となっていたかも知れず、“靖国神社問題“は他人ごととは思えなかったからです。さらに謀略で始まった日中戦争と引きく太平洋戦争で犠牲になった多くの中国人とアジアの人々、そして日本人は改めて戦争責任を追及し、尚且つこの戦争は正しかったんだという靖国派の政治家は許すことは出来ません。
都留文科大学教授笠原十九司先生(現在は名誉教授)に、09年7月5日に開催された「南京大虐殺 夏淑金さん名誉毀損裁判 大勝利集会」の終了後、立ち話でしたが「大山中尉射殺事件は謀略だった」という証言をお伝えしました。笠原先生は早速証言者の武藤さんと逢わせて欲しいということになり、7月20日、新宿区議会待遇者控室で二時間半にわたり。聞き取りをしました。
笠原先生はその証言をヒントにして「大山勇夫の日記」などの文献史料を基にして、2012年9月、「年報 日本現代史第17号」に「大山事件の真相」を寄稿されました。その後、上海市紅橋飛行場事件現場の調査と、さらなる文献史料の蒐集をされて今回の上梓となりました。
管理人が「初めて海軍の謀略を明らかにした歴史書」である「海軍の日中戦争」の出版に対して些かのお手伝いができたことは、この上にない喜びです。父母の仏壇に謹呈本をお供えしました。
参考gooブログ【「大山中尉射殺事件」で衝撃的な証言が】
「さながら拡大派の『謀略のシナリオ』を見るようなタイミングの良さである」と記述がある「日中全面戦争と海軍 パナイ号の真相」
(以後、クリックで画像は拡大)
09年7月5日の集会で講演をする笠原先生と夏淑金さん
09年7月18日笠原先生と武藤徹さん(撮影は管理人)
「大山事件の真相」が掲載された「年報 日本現代史第17号」と笠原先生からの手紙
管理人が作成した大山事件関係上海市地図
管理人が作成した事件現場図
昭和12年8月10日事件を知らせた東京朝日新聞(国会図書館蔵フィルム)
事件当時の東京朝日新聞に掲載された上海地図(紅橋飛行場と碑坊路は図に見えないくらいの郊外であった。以下の各地図に共通することは大山中尉が常駐していた西部派遣隊本部がないことでる。)
昭和12年11月「日本歴史研究會」発刊(靖国偕行文庫室蔵書)
大東亜戦争海軍戦史本紀巻一第六篇事変拡大及之二対スル措置 軍令部(靖国偕行文庫室蔵書)の現場地図
大山勇夫の日記(国会図書館蔵書)
父が上海へ出征した後、淀橋区十二社(じゅうにそう・現新宿区西新宿4丁目)のアパートから蒲田区御園町(現大田区西蒲田7丁目)にある母の実家に住みました。
戦地の父に送った写真
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日本側がこれこれの行動があった、だから企んでそれらを行なったのだろう、みんな海軍が悪い、日本が悪い、という推論に終始しているように思えるのです。
しかし、中国側はその時、いったいどのようなことを日本側に対して行なっていたかの視点が、この本には殆ど無いように思えるのです。笠原さんの他の本もそうです。不思議な笠原さんだと思います。
92頁から140頁をご覧下さい。
94頁には「対支作戦計画内案」(7月12日策定)とあります。
http://www.shimousa.net/kaigunkichi/kisaradu.html
『かくして、8月8日木更津本隊は大村基地へ、司令部と鹿空隊は台北松山基地に進出完了した。そして第一連合航空隊は、第三艦隊司令長官(長谷川清中将)の指揮下にはいった。当初8月8日の移動と同時に、作戦行動を起こす予定だったらしいが、折からの台風の影響で、それは数日延期されることとなった』
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渡洋爆撃隊は、大山事件の前日に作戦準備を完了している.
第一次上海事変がそうであったように、大山事件もかなり怪しいと思ってきました.
『海軍第3艦隊作戦要項内安』はその本に書かれていますか?