管理人が5日に、富士国際旅行社主催の「靖国神社・遊就館ツアー」で東海林次男さん(歴史教育者協議会常任委員)とコンビを組んでガイドをしました。
休憩中に「集団的自衛権に関連して陸上自衛隊練馬駐屯地の自衛隊員が、福島第一原発に派遣されたが、放射能が怖くなって逃亡した事案から「敵前逃亡」を研究していて、陸軍刑務所(衛戍監獄)があった渋谷区役所・合同庁舎敷地にある『2・26事件慰霊像』の写真を撮りに行ってきた」と東海林さんに話をしたところ、「跡地にある小学校宿直室に幽霊がでる怪談話があることと、刑務所に捕虜として収容されていた米兵が空襲で焼死したために、戦後関係者がBC級戦犯として裁かれた」と陸軍刑務所に纏わるエピソードを教えてくれました。【参照ブログ記事】「敵前逃亡をした自衛隊員を収監するのは自衛隊刑務所」
早速、渋谷区郷土博物館・文学館の学芸員に電話をして尋ねたところ「渋谷区役所周辺が空襲にあったのは1945年5月25日夜間である。陸軍刑務所で米兵が焼死したことは知らない」とのことでした。「ウィキペディア」で検索をしたら「東京陸軍刑務所飛行士焼死事件 」として詳しい記事がありましたのでご紹介します。
『1945年5月25日夜から26日明朝にかけて470機のB29によってそれまで空襲を免れていた東京山の手に大規模な空襲が加えられた(死者3651名。焼失16万6千戸)。この空襲によって渋谷区の東京陸軍刑務所も被災し、収容されていた囚人のうち日本人囚人の約400名は救出されたが、ドゥーイン・L・ターナー中佐(B29に便乗、撃墜され捕虜)以下の米兵捕虜62名は救出されずに焼死した。また、この時逃れ出ようとした数名の米兵捕虜が日本人看守により斬殺されるという事件が起きたとされる。なお巣鴨法務委員会編「戦犯裁判の実相」では、看守は留置場の扉を開いて、米兵のうち23名を牢から出したが、塀に阻まれていたため逃げ場を失って焼死したものとしており、このような不可抗力であったとする見方も存在する。
1948年3月24日から7月8日にかけて行われた横浜軍事法廷におけるBC級戦犯裁判の結果、東京陸軍刑務所長の田代敏雄陸軍大尉が死刑(再審で懲役40年)、看守長の越川正男陸軍少尉が死刑(再審で懲役30年)、米兵を斬殺したとされる看守の大久保又一法曹長、神本啓二法軍曹、神戸初明法軍曹が死刑(ともに再審で懲役10年)の判決を受けた。』