葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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「日ソ戦争への道」から「原子爆弾」関連を抜粋します

2024年06月28日 | ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ

なぜ広島・長崎に「人類史上最悪の兵器」が落とされたのか…「降伏しない日本が悪い」というアメリカの詭弁

ヒロシマ通信【  今日の通信=有馬哲夫さん・原爆論考 】

〔追記〕

6月28日のヒロシマ通信に下記の記事がありましたので転載します。

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  昨日の通信=有馬哲夫さん・原爆論考配信への批判がお二人から届きました 】

・・・・・・「有馬哲夫は過去戦争と植民地支配を肯定し、反省することを自虐史観とみなしています。通信掲載論文も、自虐史観とみなす立場、立憲民主批判、日本の占領地維持の視点で記されています。侵略戦争肯定での原爆投下批判です。彼の立場を批判することなく通信に掲載して流すことは理解できません。有馬哲夫批判を記すべきです」

・・・・・・有馬哲夫氏は長い間日本軍性奴隷制について否定論を繰り広げている、歴史修正主義者です。

https://twitter.com/TetsuoArima/status/1806196179698651303

https://twitter.com/TetsuoArima/status/1805901043471188426

https://twitter.com/TetsuoArima/status/1805898279437394041

またヘイトを拡散し、ネット上で被害者への攻撃を呼びかけています。こうした人の論考を、何のコメントもつけず拡散されるのは、なぜでしょうか。確かに有馬氏は日本軍性奴隷制以外の歴史問題については必ずしも否定論の立場を取らないこともありますが、批判や説明抜きにその論考を拡散することは、ヘイトスピーカーに権威性を持たせることです。有馬哲夫氏の名前が評価されているかのように突然メールで送られてきて、衝撃を受けています。」・・・・・・引用ここまで。

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遊就館の展示と同じような「反米右翼」かも知れません。

マッカーサー元帥は、グルーの提言通りに天皇の戦争責任を追及せず、憲法第1~8条で国家神道を残し、利用して占領統治をしてきました。

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二つのBlog記事で有馬哲夫氏の論考を紹介してきましたが、ポリス・スラビンスキー著 共同通信社刊「日ソ戦争への道」にも、広島・長崎への原爆投下について詳細な論考がありますので抜粋いたします。

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第6章 ソ連への停戦仲介依頼 ソ連の対日参戦に対する米政府内の動揺(一九四五年四月ー八月)

(略)

 スターリンとホプキンズの会談では 「三巨頭」 による新たな会談が検討された。スターリンは会談をベルリン地域で開催することを提案した。 
 会議の開催の時期は、トルーマンの提案により、一九四五年七月一五日と決定された。後に明らかになったように、トルーマンは、米国が原子爆弾の実験を行った液に会議が開催されるようにした。大統領は、既にソ連との交渉で「原子の切り札」を使いたいと思っていたのである。米国では原子爆弾の実験の準備作業が終わりつつあった。マンハッタン計画の秘密を明かされていた政治家や軍人は、原子爆弾に大きな期待をかけていた。 

原子爆弾の使用問題
 
 米国は一九四一年から原子兵器の製造を研究するようになり、四五年の春には大きな成功を収めた。ヒトラー・ド イツから逃亡したユダヤ人を含む世界の各地から集められた学者は、当時としては膨大な資金、すなわち約二〇億ドルをかけて爆発テストを準備する段階にまで至った。最初、原子爆弾はドイツに対して使用される予定であった。ドイツが撃滅されたので、太平洋戦争で米国がソ連の支援を得る必要がなくなる可能性が生じた。ハリー・トルーマンがホワイトハウスに登場すると、米政府は、米国人の膨大な犠牲を伴う日本本土侵攻や、ソ連参戦によるリスクに代わって、原子爆弾の使用を念頭に置くようになった。 
 しかし、原子爆弾の実験は夏を待たねばならず、それが使用できるかどうかはまだ確実ではなかった。 
 米政府内で原子力計画と核兵器の可能性について最も知らされていたのはスチムソン国防長官であった。外交の道具としての新兵器の価値を強調したのは彼が初めてである。 
 一九四五年の初め、マンハッタン計画の指導者たちは、スチムソンに原子爆弾の完成予定報告書を提出した。「四カ月後に、われわれは間違いなく人類がそれまで知らなかった恐るべき兵器の製造を完了する。この爆弾ひとつでひとつの町全体を破壊することができる」 
 四月二四日、スチムソンは、原子爆弾について詳しい話をするために、至急、自分に会ってほしいとトルーマンに要請した。スチムソンは「この問題は、わが国の国際関係を今後発展させるのに極めて重要であり、私の脳裏にこび りついているので、私は速やかにあなたに知らせる義務があると思います」と述べた。 
 翌日、米国が核兵器を使用する件についてスチムソンとトルーマンの間で長時間の会談が開かれた。国防長官は原子力計画は必ず成功すると語り、七月初めには爆発実験を行うことができ、ーカ月後には、戦闘状況によっては爆弾が使用可能になると請け合った。スチムソンは大統領に、爆弾は「戦争遂行に革命的な変化」を呼び起こし、多分、米国の国際関係に決定的な影響を与えることになろうと述べた。 
 この会談はトルーマンに深い印象を与えた。その後、彼は側近の顧問たちと原子爆弾について検討を続けた。J. バーンズはトルーマンに「爆弾を用いれば、戦争の末期にわれわれの条件を押しつけることができるだろう」 と述べた。 
 トルーマン自身も、次第に、原子爆弾が米国の外交を著しく強化し、、ソ連に圧カをかける際に何よりも「大きな切り札」を米政府の手に握らせ、「欧州においてロシアをおとなしくさせる」のに役立つであろうという見方を持つようになった。彼は原子爆弾について側近の顧問たちに、こう語っている。「私は、もし爆弾が爆発すると何が起こるかと考える。もちろん、私は、これらの若者たちのために梶棒を持つであろう」 
 「これらの若者たち」との会談は間もなくポツダムで開かれることになっていたので、トルーマンはポツダム訪問までに核実験の結果を知りたいと望んだ。 一九六二年、トルーマンは、あるインタビューで、できるだけ早く会談を行いたいというチャーチルの執拗な要請にもかかわらず、首脳会談を延期したのは、原子爆弾が念頭にあったからだと話している。 
 ドイツの敗戦後、マンハッタン計画を指導したL ・グローヴス将軍は、部下に作業期間を全面的に短縮するよう強く求めた。彼は、後に、原子爆弾の製造に従事していた研究所や工場の様子について、「われわれの緊張は極限まで達していた」と書いている。原子爆弾が製造されていたロスアラモス研究所のロバート・オッペンハイマー所長との会談で、スチムソンは、ポツダム会談の開催と新兵器の準備との関連を特に強調した。オッペンハイマーは、「ポツダム会談までに爆弾をつくるために、われわれには信じられない圧力がかかっていた」と指摘している。 
 原子爆弾を戦闘に使用する準備は並行して進められた。爆弾は、新たな任務に応じて装備を変更した爆撃機B29から投下することになった。一九四四年九月から第二〇航空軍の第五〇九航空部隊は強化訓練を始めていた。 
 日本爆撃の基地としてはテニアン島(マリアナ諸島)が選ばれた。一九四五年五月、ロスアラモス研究所の専門家からなる最初の技術部隊がテニアン島に到着した。この部隊の任務は爆弾を組み立て、爆撃機の乗組員を指導することであった。新兵器を戦闘に使用するためのすべての作業は、六月初めには準備が終わり、七月末に巡洋艦「インデイアナポリス」が原子爆弾をテニアン島に運んできた。 
 その間、五月初めに、トルーマンは米空軍および学者の代表からなる原子爆弾使用勧告準備臨時委員会を設けた。一九四五年七月一日付の同委員会会議議事録にはJ・バーンズの提案により、委員会は次のことに同意したと書かれている。「できるだけ早く日本に対して原子爆弾を使用すべきである。労働者住宅地帯によって囲まれた軍事工場に原子爆弾を投下すべきである。原子爆弾は警告なしに使用すべきである」。原爆を落とす候補地を選択する際、委員会は最初の目標として、広島、小倉、新潟、京都の四市を勧告した。 
 トルーマン大統領の同意を得て、空軍司令官アーノルド将軍は、原子爆弾による爆撃の結果をはっきりと確認するために、航空部隊に対してこれらの都市に空襲を行わないよう指令を出した。同日、トルーマンは臨時委員会の勧告を承認した。 
 日本に対する原子爆弾の使用について語るときには、さらにいくつかの要因を指摘しなくてはならない。第一に、この計画と原子爆弾の可能性については、高度の機密が保たれていたため、統合参謀本部の戦争遂行計画作成者たちは直前まで事実上、何も知らなかった。そのため彼らは新兵器の可能性や、対日戦の進行と結果に対する影響を多少とも評価することができなかった。一九四五年六月、ホワイトハウスで開稽れた統合参謀本部会議で初めて原爆の使用問題が検討されたとき、「このような選ばれた人物の間でも衝撃が走った」。 
 第二に、統合参謀本部議長レギ提督をはじめとして、多くの有力な軍人の間では、原子計画は、一握りの学者のばかげた想像以上のものではないという意見が大勢を占めていた。原爆の開発者のひとりであるV・ブッシュが新大統領に、原子爆弾の原理について報告した後、レギ提督はトルーマン大統領にこう話した。「これは、われわれがこれまで行ってきたなかでも最もばかげたことである。爆弾は決して爆発しない。私は、起爆装置の専門家としてこう申し上げたい」。米国防長官の補佐官D・マックロイは、一九四五年六月一八日のホワイトハウスの会議では、学者が説明したにもかかわらず、参謀長のだれひとりとして、この「物体が作動する」とは信じなかったと証言している。

(略)

三巨頭による非公式会談
(略)
 この会話では日本に対して爆弾の使用が予定されているとは一言も述べられていない。ソ連側は、スターリンとトルーマンの間で行われた会話、および日本の都市に対する原爆攻撃について書かれたすべての出版物において、米国政府のこの野蛮な動きから距離をおこうとしてきた。それでは実際はどうだったのか。 
 トルーマン大統領自身は次のように書いている。 
 「七月二四日、私は、ちょっとついでにという感じで、スターリンに、われわれが巨大な破壊力を有する新兵器を持っていると話した。彼は、これを聞いてそれはけっこうだと答え、日本に対してうまい使い道を見つけてほしい、と述べた(傍線は著者)」。この会話を通訳したのはスターリンの通訳官パヴロフである。なぜならトルーマンは、出来事に偶然的な性質を付与するために、会話のために自分の通訳官ボーレンを連れていかなかったからである。また、日本に対して爆弾を使用することを強調した語句が、ソ連側の会談メモには存在しないことを指摘したい。 
 七月二一日、アラモゴードにおける爆発について文書による詳細な報告を受け取ったトルーマンは、レギ提督、キング提督、マーシャル将軍、アーノルド将軍、アイゼンハワー将軍といったポツダムに滞在していたすべての軍最高指導者の会議を招集した。ここで原子爆弾を日本に対して使用するかという唯一の議題が検討された。全員が満場一致で、原爆の使用に同意した。大統領自身は後に回想録で、こう書いている。 「この点に関していかなる過ちもないように。私は、原子爆弾を武器とみなしており、この武器が使用されなければならないという点は決して疑ったことがなかった」 
 七月二四日、マーシャル、スチムソン、トルーマンは、米軍参謀本部の作成した命令を承認した。その命令は、戦略空軍司令官スパーッ将軍に対して日本を原爆攻撃させよ、というものである。そこにはこう記されている。「第一一〇航空軍の第五〇九航空団は、 一九四五年八月三日以降、天候が視力による爆弾投下を許すやいなや、最初の特殊爆弾を広島、小倉、新潟、長崎という目標のひとつに輸送すること・・・ 」 
 トルーマンは会議で、事実上、すべての問題でソ連代表団の固い姿勢にぶつかり、原子爆弾が使用されるときまで大部分の係争問題の解決を延期することにした。前述したようにトルーマンが米国の開発した「未曾有の力」を持つ武器について伝えたとき、スターリンは、その「心理的攻撃」に屈しなかった。ソ連政府は、既に、米国が原子兵器の製造を研究しているという情報を持っており、加速したテンポで同様な研究を展開していた。 
 核の要因が、ソ連の対日参戦に対する米国の指導者の態度に影響を与えた点を特に強調すべきであろう。その何人かは、米国が核を保有することによって、日本撃滅へのソ連の支援を断り、それによって極東問題解決に向けてソ連の参加を制限することができる、と考えていた。こうした考えを持っていたのは、特に、国防次官のD・マックロイである。六月一八日、ホワイトハウスにおける米軍最高司令官の会議で、マックロイは「米国は、日本撃滅のためにロシアの支援を必要とするか」という観点から原子爆弾を見るべきでむ槌、と述べたoトルーマンもマックロイの意見に同意した。しかし、そのときは原子爆弾はまだ存在せず、多くの軍人は 「これが作動する」 ことを疑っていた。 
それゆえに大統領はモスクワの支援を得ようとしていたのである。トルーマンは回想録のなかで、ポツダムで彼にとって最も重要な課題のひとつが「スターリンから直接、ロシアの対日参戦への確認をもらうこと」 であった、と書いている。 
 全一二巻の『一九三九ー四五年の第二次世界大戦史」を編纂したソ連の学者は、「爆弾の実験が成功した後になって初めて、米英両政府は、ソ連の参戦なしに対日戦を終わらせる方がよい、という考えに傾くようになっと記している。一九四五年七月二二日、ヘンリー・スチムソンは日記に米国は 「もはやロシアを必要としな画」 と書いている。チャーチルも同じような立場をとっていた。ブルック元帥の証言によると、原爆実験の結果についての報告は、チャーチルに極めて強い印象を与えたという。 
 しかし米国の指導者たちは、次の理由によってソ連の対日参戦に公然と反対することは適当でないと考えていた。第一に、米国が最近までソ連の参戦を主張していたこと。第二に、原子兵器が日本政府に対して必要な影響を与えないかもしれないこと。ジェームズ・バーンズは回想録のなかで、こう書いている。「もしロシアが参戦しないとの決定を下すなら、私はさぞかし満足感を味わったであろう。 しかし、協定は結ばれ、われわれは自国の義務を守らなければならない」 
 今や米国政府は、ソ連が参戦する前に、原子爆弾の使用によって日本を降伏させることに大きな期待をかけるようになった。ソ連の参戦を引き延ばすために、国務省は、中ソ交渉に時間をかけさせようとして中国代表団に圧カをかけ続けた。後にJ・バーンズは、次のように認めている。「われわれの目的は、中国側に交渉を続けるようにさせることであった。・・・・・スターリンと蒋介石の間の交渉が継続すればソ連の参戦が引き延ばされ、日本はその間に降伏するかもしれなかった。大統領はこの見解に賛成であった」 
(略)

七月二六日のポツダム宣言

 ハリー.トルーマンとJ.バーンズは、原爆実験が成功したとの報告を受け取ると、日本に対し最後通牒を突きつけようという考えに傾いた。最後通牒は具体的な輪郭を取りつつあった。軍幹部もこの構想を支持していた。 
 米国の軍・政治指導部は、日本外交の唯一の期待がソ連の好意により、ソ連の参戦を抑制し、停戦の仲介をとるようモスクワを説得することだとは百も承知だった。東郷外相は、ソ連が参戦すれば、日本は間違いなく降伏に追い込まれると強調していた。 
 米国の統合情報本部は、このことき絶えずトルーマンに知らせていた。ある報告には「ソ連の参戦は、日本人に完全な敗北を最終的に確信させるであろ顔」とある。 
 前述したように、ソ連の参戦はヤルタで連合国によって下された決定に基づいていた。その後、この決定は、 一九四五年五月二八日、米大統領特使ハリー・ホプキンズとの会談でスターリンがロ頭で確認した。スターリンは、そのとき、赤軍は八月に参戦するつもりだと述べた。トルーマンとの最初の会談で、スターリンは、ソ連は八月中旬に参戦すると述べた。五月から七月にかけて、赤軍部隊と兵器がプロシア、カレリア、その他の欧州地域から極東へと続々と移動した。このとき、米国はアラスカからカムチャトカやウラジオストクに、ソ連の六〇個師団をニカ月間養うのに必要な兵器や自動車、食糧、燃料を供給した。 
 一九四五年の春と夏に、第二次世界大戦最大の秘密作戦のひとつである「フーラ」作戦が実施された。作戦実施にあたり、アラスカのコールド湾に配属されていた米海軍の特殊部隊は、各級の軍艦一四九隻のために総数一万二四〇〇人の海軍将兵を養成した。これらの軍艦はソ連太平洋艦隊に引き渡され、養成された乗組員とともに一九四五年八月の対日軍事行動に参加することになっていた。 
 参戦した場合、ソ連は、ヤルタでソ連に約束されたもの、即ち、東支鉄道および同鉄道に付随する満州の工場、赤軍の朝鮮進駐、旅順港と大連、南サハリンと千島列島を手に入れる予定だった。欧州において米ソ関係に大きな困難が予想された情勢のもとで、極東のソ連の戦略的立場が強化されることは、米国外交にとって深刻な問題を生み出しかねなかった。 
 このような状況のもと、トルーマンとバーンズはどのように行動すべきかというジレンマに直面した。日本の撃滅にソ連の援助を必要としないとスターリンに直接言うべきか。しかし、これは同盟関係の公然たる断絶を意味した。このような決定は欧州と極東に予想できない危険な状況をつくりだすであろう。米国と英国がドイツを撃滅した後、自国の軍隊を太平洋の戦場に移動させ始めたときに、欧州には強力な赤軍が残っていた。同盟国と敵対関係が生ずれば、赤軍は欧州全体を占領できる。同時に、満州国境に展開した一五〇万人のソ連軍とソ連太平洋艦隊は、蒋介石の意見をかえりみず、いつでも満州に進入できる。毛沢東と一緒になれば、ソ連軍は中国の北東部と朝鮮に長く居座るであろう。そうなれば米国は手出しができなくなる。日本の有名な政治家、広田弘毅がマリクとの会談で述べた推測は全くありそうなことであった。広田は、米国と共同して対抗するために、ソ連陸軍と日本海軍が手を握ってもいいと述べていた。米国の戦略家はこのようなシナリオも考慮せざるを得なかった。 
 米国の指導部に唯一残った可能性は、ソ連が参戦する前に日本を降伏させることであった。その際は、ソ連の支援要となる。このような状況のなか、バーンズと軍人たちはトルーマンにポツダム宣言を公表するよう提案した。 
 一九四五年五月にポツダム宣言案を作成したのは、日本をよく知っている元駐日大使のジョゼフ.グルーだったこ思い出していただきたい。グルーは、「無条件降伏」という表現から離れ、降伏後に日本の天皇制が維持されることを日本の軍事・政治指導部に理解させれば、日本は降伏すると確信していた。日本の皇室、内閣、外務省、参謀本部のなかのムードをよく知っている米国の情報機関は、この考えを定期的に報告していた。 
 米国の軍指導部は、この案を熱烈に支持したが、これを五月に公表することは時宜を得ていないと考えた。なぜならば沖縄島では最終的な戦闘が行われており、このような呼びかけがでれば、日本はこれを米国の弱さの表れと見るにちがいないからである。グルーはトルーマンにこの文書を報告したが、トルー マンはポツダムで最終的決定を下すと述べた。そしてバーンズ 国務長官は、ポツダムに向かうとき、自動車のなかで初めてグルーーからポッダム宣言案を受け取った。 
 これらの劇的な日々に、米国にとって不幸であったのは、国務省のトップにいたのが、外交的な経験は全くないが、その代わりに大きな野心と自信を持ち、そのうえ好戦的な反ソ的見解を持つ人物であったことである。その人物とは 米代表団がポツダムに向けて出発する数日前の七月三日に国務長官に任命されたJ・バーンズその人である。トルー マン自身は対外政策の諸問題についてはあまり知らず、率先して最終的結論を下さないよう努めた。あれこれの外交政策上の提案に対する彼の通常の回答は、「スタッフと相談する必要がある」ということであった。一方、バーンズは、ハリマンやスチムソン、レギなどが不満を漏らしているように、対外政策の決定の立案から彼らをはずし、だれよりもトルーマンに近いことを利用して、大統領が下そうとする決定に決定的な影響を与えた。ポツダム宣言に関してはそのような事態が起こったのである。 
 ポツダムの米国代表団のなかに日本専門家がおらず、バーンズがスチムソンとグルーの意見を無視したために、バ ーンズ自身が専門家が作成した文書案を「改善」することになった。その結果、原文からは、宣言の本質をなす「妙味」が消えてしまった。 
 宣言案では、 一方で壊滅的な破壊によって日本を脅しながらも、他方で、東京のムードを考慮して、天皇制を存続させてもよいという主張が明確に述べられている。ところがバーンズは、脅す部分だけを残し、日本人が全く魅力を 感じない程度まで「飴」の部分をなくしてしまった。例えば、ポツダム宣言第一二条には、「統治形態に関しては、日本国民自らの意思によって決定される」と述べられている。このとき、バーンズは、「かかる政府が決して再び侵略を志向しないことが全世界に示されるならば、現皇室下での立憲君主制を保持しうる」という実によく理解できる語句を削ってしまったのである。 
 後に、日本の軍部は、この一節からは、降伏後に日本の天皇制が残るかどうか明らかではないと表明し、それゆえに戦争の継続を主張し続けた。 
 ポツダム宣言では、最後通牒の脅しの部分を相当強めることができた原子爆弾には言及されなかった。 
 日本の都市を原爆攻撃する大体の日が決まった後の七月二四日、米国は、蒋介石とチャーチルの署名を求めてポツダム宣言の原文を手渡した。七月二五日、チャーチルはトルーマンに、提案された案に同意すると伝えた。翌日、蒋介石から前向きの回答がきた。七月二六日のタ方、ポツダム宣言はラジオ放送で公表された。翌朝、全世界の新聞がポツダム宣言を掲載した。ソ連側は、ポツダム宣言が公表のために手渡された後で、その内容を知った。 
 ソ連側が宣言の内容を知ったのは七月二六日の夕方である。ヴャチェスラフ・M・モロトフは、自分の通訳官を通 じて宣言の公表を二日間遅らせようとした。しかしバーンズは、もう手遅れだと答えた。宣言は新聞記者に渡されていたのである。 
 バーンズ自身は、この出来事を次のように書いている。 
 「ポツダムでわれわれが(原子)爆弾の実験成功について知ると、チャーチルは(ロンドンに)出発する前に文書を訂正した。大統領も若干の変更を加えた。案は、承認を求めるために蒋介石に送られた。七月二六日、宣言は世論の所有物となった。宣言では原子爆弾についての警告、天皇の地位に関する指摘はなかった。しかし国体に関する最終的決定は日本国民にゆだねられると述べられていた」 
 宣言は「日本に対する警告」 であった。 
 七月二六日の夕方、宣言は外交チャンネルを通じて配付され、同時にプレスに渡された。 「親切心から私は、モロトフに知らせるためにモロトフの宿舎に宣言のコピーを送った。 彼の通訳官は、モロトフの指示により、公表を数日間延ばすよう要請した。翌日、モロトフとの会談で私は彼に、ソ連政府が日本と戦争状態にないときに、宣言についてソ連と協議するのは不適当であると説明した。モロトフは、これに答えなかったが、彼は、何らかの変更を加えるつもりはないと述べた。モロトフは、自分と協議すべきであったと考えていた」 
 実際、モロトフ、いやそれ以上にスターリンはがっかりしていた。何しろ彼は、朝から晩まで一緒になってトルー マンやバーンズとさまざまな軍事・政治問題について話し合っていたのである。しかしトルーマンとバーンズは、原爆の情報と同様、ソ連代表団に宣言を秘密にし、これに合意を求めるまでもないと考えていた。ソ連の指導者から見れば、米国がソ連なしに済ませ、極東問題の解決からソ連を排除したいと考えていることは明らかだった。しかしバーンズは、このような政治的な動きに出ながら、このとき二つ目の外交的誤算を犯した。もしワシントンの「秘められた課題」が、ソ連を極東の戦争から排除することであったなら、そのためには、トルーマン、チャーチル、蒋介石とともにポツダムで文書に調印するよう提案することが論理的であったであろう。文書には、連合国は共同して、これ以上の犠牲を防止し、戦争の期間を短縮するために、日本に無条件降伏を要求すると述べられていたのだから。 
 ともあれ日本の軍事・政治指導部は、最後の望みをソ連の姿勢に結びつけ、モスクワの姿勢が明らかになるまで、戦争の停止に応じるようにという「和平派」の呼びかけを拒絶したのである。米政府はこの動きをよく知っていた。四大国の共同声明に天皇制を維持するという約束が入っていたなら、 一九四五年七月二六日付のポツダム宣言を日本政府は受諾することができたにちがいない。まさにここでバーンズは、広島と長崎に原子爆弾を使用する必要性に米国を導くという戦略的な誤算を犯したのである。 
 それだけではなく、この外交的な過ちのために、米国は、満州、朝鮮、千島列島への赤軍の侵攻を止めることができなかった。その結果についてはよく知られている。このために世界の政治地図上に分裂した朝鮮が出現し、「北方領土」問題や捕虜問題などが生じたのである。同時に中立条約があったにもかかわらずソ連が参戦したことは、日露関係の歴史における「悲しい一頁」をもたらした。
(略)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Blog記事>「迫水久常の手記」(終戦時内閣書記官長)天皇の聖断で受諾した“ポツダム宣言”<を読んでいただくと分かりますが、長崎に原爆投下があった9日にも御前会議で「国体護持」を議論していたのです。そしてソ連参戦によって10日に「天皇裕仁の御聖断」が下されました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(了)

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