葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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ペンと剣の旗の下 其のⅠ

2008年06月11日 | 歴史探訪その他

過日、東村山市「美住町9条の会」の靖国神社・遊就館見学会をガイドした際、映画「靖国 YASUKUNI」に登場する刀匠刈谷さんが日本刀を打ち出した「日本鍛錬會」の跡地をご案内しました。そ前で「陸軍砲兵工廠で軍刀の鞘を造った」と会員の平石裕一さんが話しをされたました。

平石さんから

発行者 昭和23年24年開成学園卒業生の記録
    “ペンと剣の旗の下”刊行委員会
発行2007年11月11日(非売品)
    
“ペンと剣の旗の下”
「第5章 学徒勤労動員」
  東京第一陸軍造兵廠
  
の抜粋コピーが送られてきました。

その方の了承を得ましたので実名はイニシャルにしてアップしますのでご覧下さい。(順次スキャナをしましたらアップしていきます)【注】「ペンと剣」とは開成学園の校章デザインです。

切込み隊用日本刀の包装造りのこと N・H 
 
 昭和二十年八月十三日の空襲により、王子造兵廠検査工場が焼失し、検査工場に配属されていた開成の仲間の大部分が本廠の正門の南側にある滝野川分工場に移された。この工場で、本土決戦に備えて、切込み隊用の日本刀の包装造りを行った。米軍の優勢な火力の前には余りにもバカバカしい対応であったが、終戦までの四ケ月間、吾々はこの特異な仕事に従事させられた。
 
 先ず滝野川分工場での日本刀(昭和刀)の包装造りをエ程順に記述すると、
①)刀身に合わせて製材された朴の木(ほおのき)をのみ鈍(かんな)を使って鞘(さや)、柄を作る班、
②万力台の上で楕円形の鋳物板を鑢(やすり)を使って剣鍔(けんつば)を造る班
③風船爆弾(当時工場では丸フ爆弾と呼んでいた)に使用した和紙の残材を使って鞘、柄に包装する班、
④③の工程を終った鞘、柄を漆(うるし)で塗装する班、
⑤最後に徴用された研師の指導で刀を研ぐ班であった。

 吾々開成の仲間は夫々五つの班に分かれ、班長は工員であった。
 しかし塗装班だけは、必ず漆に気触(かぶ)れるため志願制であった。私はM、Eの両君と相談してこの班に入ることにした。この班を選んだ理由は、漆の塗装工場は別棟にあり、入室すると気触れる恐れがあるため、エ場の上司を始め塗装班以外の人は近寄らず、治外法権の職場であったからである。
 
 この班は漆職人の工員が班長で年配の工員二人と学生三人計六名の小世帯であった。仕事は一日のノルマを片付けると、漆塗りの箸や弁当箱を造ったり、本を読んだりして、自由な時間があった。
 しかし吾々三人共入班二~三日で全員気触れ、三九度近い熱を出し、一週間近く工場を休む事になった。休暇は公傷の取り扱いであった。Eと私は漆に免疫となり、続けてこの仕事に従事したが、Mは再度気触れて研ぎ班に移った。
 
 八月十五日、本廠の地金工場前に全員が集合し、終戦の玉音放送を聴いた後、滝野川分工場に、戻ったが、班長等の幹部は皆いなくなり、吾々開成の学生と徴用された二~三人の研師だけとなった。中学三年の血気盛りの年頃であり、日頃から日本刀の試し切りをしたいという気持ちと、終戦の無力感の中で、工場棟の裏手にある竹林に全員が集まった。二〇名前後が包装した日本刀を抜刀して、竹を切ったが、なかなかうまく切れなかった。抜刀の様子が本廠の指令部から見え、伝令が来て、吾々に対して、「軽挙妄動をするな」との通達があった。吾々の気持ちとのギャップに唖然となった記憶が強く残っている。最後に吾々が汗水流して包装された日本刀が、何の役にも立たずに済んだことは、吾々にとっても幸いであった。

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