総理大臣菅義偉の横浜市会議員時代をウィキペディアで見ると『1975年、政治家を志し(略)衆議院議員小此木彦三郎の秘書となる。以後11年にわたり秘書を務めた。1983年、小此木の通商産業大臣就任に伴い大臣秘書官を務める。1987年、神奈川県の横浜市会議員選挙に西区選挙区から出馬し、初当選。その後市議を2期務めた。横浜市政に大きな影響力を持っていた小此木の死後、当選回数わずか2回にも関わらず、小此木の事実上の代役として、秘書時代に培った政財官の人脈を活かして辣腕を振るい、高秀秀信市長から人事案などの相談を頻繁に受けるなど、「影の横浜市長」と呼ばれた。』とある。11年間の代議士秘書と横浜市議二期の間に、陰湿で警察官僚を使った政治手腕を培ったのではないかと元新宿区議として直感している。日本共産党神奈川県委員会に電話をして、横浜市議時代に「影の横浜市長」と呼ばれたのはどのような政治活動をしたのか深掘りをして貰いたいとお願いした。
週刊朝日9月25日号記事に「菅義偉新首相の知られざる過去」注目した。特に 「学生運動を見に行って捕まった過去」については、ウィキペディアをはじめ何処にも出てこない事実である。「学生運動を見に行って捕まった」のに、父親和三郎が上京したということは、菅氏は19歳だったので「少年法」事件による東京家庭裁判所と判事から送致された東京地検による取り調べがあったことを裏付ける重要な記事である。記事内容の確認のために朝日新聞社大鹿靖明記者に9月30日にメール照会をしているが未だにレスポンスがないが、この記事は「誤報記事でした」とは絶対にならないだろう。
〔文字起こし〕
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もう11年前のことだが、当時アエラ編集部の記者だった私は、自民党内でめきめきと頭角を現してきた菅義偉という政治家の人物像を描こうと、生家のある秋田県湯沢市の秋ノ宮という集落に出かけた。菅にはどこかしら翳のようなものがあると感じられたが、私は彼の郷里に赴いて初めて、その独特の翳の由来を推察できた気がした。以下はそのときの記録である。
新幹線とレンタカーで5時間以上かけて辿り着いた秋ノ宮は、山あいにある農村である。秋田県の南東の端にあり、宮城、山形の両県境に近い。冬は雪深く、それゆえに「春に土が見えたときの喜びは都会の人にはわからない」と菅は言っていた。
父和三郎、母タツの長男として生まれ、高校卒業後「集団就職」で上京し、東京・常盤台の段ボール工場で働いたという。「集団就職で上京」は、菅を或るときに必ずついて回るエビソードで、私は彼の生い立ちを調べようと実家を訪ねたのである。
国道から少し入ったところにある菅家を訪ねると、このとき91歳だった和三郎が満面の笑みで、「待ってました」とばかりに出迎えてくれた。顔は息子そっくりだが、息子にある翳はなく、とにかく押しが強い。
(略)
結局、法政大に進学。父和三郎は、意外なことを打ち明けた。
「学生運動が盛んなとときで、アレはデモを見に行ったら捕まってしまったんです。『自分はやっていない』と言っても、検事に調べられて長く留め置かれた、それで関係ないことがわかって帰されました。
――えっ、連行されたんですか
「んだ」と和三郎。饒舌な父だが、さすがにこの瞬間は、しゃべりすぎたと思ったのか、神妙になった。タツも「あのときはショックだったみたい」と相槌を打つ。和三郎が話題を変えた。「就職も、私が政治家の秘書になれと言って、中村梅吉(元衆院議長)さんを紹介したら、『年だから若い人につきなさい』って、小此木(彦三郎元通産相)さんを紹介されたの。それで秘書になったんです」
(略)
13人に取材した後2回に分けて本人にインタビューした。菅は政治家としての半生や自民党内事情、政策課題については能弁だったが、私が父について切り出すと、急にロが重くなった。
――お父さんの存在感は大きいですよね
「わからない・・・・・」
――親子の相克は?
「親とはあまり話さない」
――いまでいうと「自分採し」が長かったのでは?
「東京に出ればいいことがあるかなと思って出きたが、思い出したくない青春」和三郎が言っていた学生デモに巻き込まれ、連行された件を聞いてみた。
――取り調べを受けた?
「見物にに行った新宿で、何でもないのがわかって、すぐに出したっていう感じ」
――新宿騒乱事件 見物に行った?
「そんな感じ」
――見物に行って逃げ遅れて捕まった?
「そんな感じ」
(略)
インタビューの最後に菅が放った言葉が印象的だった。「私は寄り道ばっかりやってきた。寄り道がよかったんじゃないかな。いま思うと」
それはきっと、自分に向けて放った言葉だったろう。(文中敬称略)
朝日新聞記者大鹿靖明
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(了)