葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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知らない人と肩を寄せ合い大声で唄う「うたごえ喫茶ともしび」もコロナ過で休店に

2020年10月01日 | うたごえ喫茶

うたごえ喫茶「ともしび」が昨日で休店になりました。書棚にある「うたごえ喫茶」に関するファイルから、幾つかの新聞・雑誌資料と文献をアップします。新宿では「家路」「トミ」が盛業しています。トミは毎週土曜日午後3~6時です。バーチャル歌声喫茶「のび」もご訪問ください。

1998年4月5日週刊うたごえ新聞の記事

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 新宿の〝うたごえ喫茶を発展させる会〟、日本共産党の区議会議員の長谷川順一です(笑い)。方針案の「うたごえ普及の場。うたごえ喫茶のとリくみ」を含めて発言します。
〝うたごえ喫茶ブーム到来〟と、うたごえ喫茶はマスコミでも注目され、最近はテレビニュース番組でも取リ上げられました。大阪ドーム祭典は一般のテレビでは放映されませんでしたが、うたごえ運動とうたごえ喫茶は非常に深い関係がある、と私がテレビ局のプロデューサーに話して企画した番組で、ドーム祭典の時、黒田実行委員長へのインタビューを撮らせてもらいテレビ画面で唯一放映されました。ここでも新宿にある3箇所にうたごえ喫茶が紹介されましたし、「さんまのからくリテレビ」では新宿の「ともしび店」が紹介され中村玉緒さんが店員として登場したリ(笑い)、若者のマンガ誌「モーニング」や新聞各紙でもうたごえ喫茶がとりあげられています。「しんぶん赤旗」に「発展させる会」として私の名前が載ったら、神戸や名古屋からも問い合わせがくるほどです。さて、新宿というのは〝新しい宿〟ということなんですが、今年は江戸時代にできてから〃内藤新宿300年〃ということでその関連行事として行政の方では新宿御苑を借リ切っての〝真夏のジャズ・フヱスティバル〟を企画しました。これを知って、森の石松じゃないけれど、「ちょっと忘れちゃいませんか」、新宿の文化にはシャンソン喫茶、名曲喫茶があるけれど、うたごえ喫茶を忘れていませんか、と区内のうたごえ喫茶を一堂に集めた新宿のうたごえ祭典を提案し、うたごえ喫茶3ヶ所の入ったマップを作って、発行元として「発展させる会」、私が会員たった1人の会長なんですが(爆笑、拍手)、こうして行政に働きかけたところ、これが企画に入リ(拍手)、9月15日敬老の日に四谷区民センターを借リ切って新宿のうたごえ祭典をやろうということになりました。これを11月の東京国際フォーラ厶祭典のプレ企画としてそこに来たお客さんをフォーラ厶祭典に誘おうと思っています。新宿の合唱連盟の人たちや区内で一日うたごえ喫茶を開いている人、フォーラ厶祭典よびかけ人でもある湯川れい子さんは環境審議会の委員でもありますからそういう人にも声をかけていこうと思っています。新宿・歌舞伎町というと大蔵官僚が風俗店に接待されたと有名になっていますが(笑い)、そうではなくすばらしい新宿の街づくり、文化づくリのきっかけにこのうたごえ祭典をしていきたいと思います。新宿は昔軍医学校があった所でその跡地からたくさんの人骨が発見されて10年になリます。合唱組曲「悪魔の飽食」を新宿文化センターで公演したいと関係者とも話しています。これも今度の新宿の祭典につなげたいと考えています。さて、うたごえ新聞の拡大の話があリましたが、和歌山、鳥取、島根は新聞の空白地だそうですが、今度全国の議員の集まリがあリますから、ぜひすすめてみたいと思います(笑い、拍手)。全国に4000人の議員がいますからぜひ訴えてはどうかと思います。(笑い、拍手)

歌うはとバスツアー(2000年3月21日号 TOKYO一週間)から

漫才コンビの「テツandトモ」をカチューシャを案内しました。

1997年8月7日号「モーニング」より

1999年11月号「散歩の達人」より

1998年3月号日本アジア航空「アジアエコー」より

1998年「内藤新宿開設300年記念事業」プログラム表紙と「新宿うたごえ祭典」プログラム

1997年11月30日「うたごえ喫茶フェスティバル」チラシ

管理人作成のチラシ

2000年6月4日東京新聞記事(他にも朝日新聞、読売新聞、しんぶん赤旗にも掲載された。)

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参考文献「 日本におけるロシア民謡の普及」

1984年8月 音楽舞踊団 カチューシャ 代表 青山一男
  (イ)終戦から一九四九年まで
  創成の時代の始めに述べたように、戦後、怒濤のように起った労働組合の文化運動の中で、音楽の分野は明らかにおくれていた。合唱などでも〝流浪の民〟とか、〝ハレルヤ〟といった戦前からの合唱曲として、スタンダード化した作品に依存せざるを得ず、せいぜいが戦前からの労働歌とか、戦後の新労働歌「村から町から工場から」や「世界をつなげ花の輪に」といった作品が、新しい時代の息吹きとして、コーラス化されるにすぎなかった。わずかにロシャ民謡としては、津川主一の訳、編曲による「ステンカラージン」や「ヴォルガの舟唄」が男声用、あるいは混声用などで広く愛唱されているにすぎなかった。
  そうしたなかで、ロシヤ民謡が爆発的に流行したのは、一九四九年二月のソビエト映画「シベリヤ物語」の封切がきっかけになったのは、既に述べたとおりである。だが、その前から、いくつかの歌は、いくつかのルー卜によって青年運動の間にひろがりつつあった。その一つのルー卜は、当時、日ソ協会がひろめたソビエトの歌の、楽譜やレコードなどであった。数は限られていたが、その中には「カチューシャ」「バルカンの星の下に」「全世界民主青年同盟の歌」「波止場の夜」などがあった。これらのものは、シベリヤの文化運動の中で日本語に訳され歌われたものであり、それらが帰還者楽団の帰国より一と足早く、日本語の楽譜に印刷されて、国内に普及されたものであった。
  一九四八年二月に創立された中央合唱団は、そういうなかで、いち早く新しいソビエトの歌をとりあげていった。なかでもその年に新しく発表された「われらの仲間」は、爆発的人気をよんで、青年運動の讃歌のようにひろがっていったが、これはブランテルの〝青春〟という歌に、関鑑子が日本の青年たちに、ふさわしい歌詞を作詞したことが、成功の原因だったと考えられる。一九四九年八月には、それまでの歌集や楽譜を一冊にまとめた「青年歌集」が発行されたが、その中には「カチューシャ」「泉のほとり」「バィカル湖のほとり」などのロシャ民謡、ソビエト歌曲が収められていた。一九四九年には、関鑑子指揮、中央合唱団による最初のレコドが吹込まれた。曲目は「バィカル湖のほとり」と「バルカンの星の下に」であった。これらの歌集やレコードは、版を重ね、「青年歌集」はその後、第十篇まで発行されて、〝隠れたベストセラー〟といわれるまでになっていった。また、日本コロムビアは、安藤まり子の吹込みによる「カチューシヤ」(関鑑子・丘灯至夫詞)を一九五一年一月新譜として発売した。
  (ロ)一九四九年から五一年まで
  四九年末帰国した帰還者楽団は、楽団カチューシャ(五〇年)、音楽舞踊団カチューシャ(五四年)と発展していくなかで、三十数年間にわたって、ロシヤ民謡、ソビエト歌曲、ロシヤ民族舞踊を、レパートリーの一つとして活動をつづける間に、多くの作品を訳詩し普及してきた。その数は一五〇曲をこえるが、代表的なものをあげれば、「トロイカ」「灯」「バルカンの星の下に」「一週間」などがある。三十三年間に全国にわたって公演回数四〇〇〇ステージをこえ、観客数は四五〇万に達している。
  合唱団白樺は、一九五一年七月に発足しているが、その前身は五〇年七月に始まった日ソ学院のロシヤ語友の会の合唱団で、白樺という名前は〝ホール・ベリヨースカ〟と名付けられた、その合唱団から発している。武蔵野音大出身で、ソビエト抑留の経験をもつ声楽家北川剛が当初より一貫して指揮者として育ててきた合唱団で、この合唱団によって訳詩、初演された作品は百曲をこえている。毎年都内で定期演奏会を行ない、その数は八三年に三十一回に達している。アマチュア合唱団としてロシヤ民謡、ソビエト歌曲の普及に果した役割を忘れることはできないだろう。
  東大音感合唱研究会は、一九四七年、石本美佐保の指導で創立された東京大学学生の合唱団体だが、そこから四八年発足したのがトニカ合唱団で、この指導と指揮にはその後、井上頼豊(50~59年)、関忠亮(53年~59年)があたった。うたごえ運動の中で、学生のうたごえの中心的合唱団の一つとして大きな役割を果したが、ロシヤ民謡、ソビエト歌曲の研究、紹介、普及にも一定の役割を果した。とくに「国際学生連盟の歌」「前線にも春が来た」は、広く全国的に歌われたものだった。
 千代田合唱団は、一九五一年一月、都内千代田区の各職場の有志が中心となつて発足したが、その後都内各地域からの参加もあり、千代田区の枠をこえた、東京中部地域の中心的合唱団の一つとして活動した。この合唱団は、ソビエト抑留の経験をもつ声楽家笹谷栄一朗、と編曲並びに伴奏者であつた、宮長大作のコンビによつて一貫して育てられたもので、この二人の影響もあつて、ロシヤ民謡をその重要なレパートリーの一つとしていた。
  ロシヤ民謡の普及と直接のかかわりはないのだが、戦後のロシヤ音楽の普及のなかで、書きおとすことができないものがある。それはショスタコビッチの「森の歌」の日本初演のことである。「森の歌」は一九四九年に発表された、ソビエトの自然改造計画をうたい上げた大作で、過去の宗教音楽の形式であつたオラトリオをうたいながら、きわめて現代的な内容をとりあげることで、過去の形式の発展的継承という意味からロシヤ音楽の伝統に基礎をおいた作曲手法とともに、非常に注目された作品であった。ムラヴィンスキー指揮によるその原盤は、いち早く輸入され、高い評価を集めていたが、日本における全曲初演は、一九五三年京都で、紫明混声合唱団と管弦楽こんせる・ぬぽお、指揮桜井武雄、独唱佐々木行綱、竹内光雄によつて行なわれた。その訳詩は井上頼豊、桜井武雄、合唱団白樺の三者の苦心の共訳であつた。この後、ベートベンの「第九」と並んで、多くの職場、学生合唱団によつて、また専門的なオーケストラのレパートリーとして、この大曲はしばしばとりあげられることになつた。
    一九五一、チェリストであり、ソビエト抑留の経験をもつた井上頼豊は、筑摩書房から「ロシャの民謡」を出版した。これはわが国で始めてのロシヤ民謡、ソビエト歌曲の歴史を紹介したもので、とくにそれと合せて載せられた民謡、歌曲の楽譜は貴重な資料であった。五三年に井上編で筑摩書房より出された「ソビエト合唱曲集」と合せて、これらの本が初期に、ロシヤ・ソビエトの歌の普及に果した役割は大きなものがあった。こうした出版による活動としては、北川剛が音楽之友社から出版した「ロシヤ民謡アルバム」「ロシヤ民謡の歴史」や、矢沢保が飯塚書店から出版した「ロシヤ民謡集」が、井上の仕事をひきついで現在に至っている。
  新世界レコドは、一九四九年ソビエトの原盤の輸入発売元として発足したが、その後、録音権を中心として、ビクター音楽産業と販売で提携、ビクターからメロディア盤音源のレコードが出るようになった。一方、輸入元としての新世界レコードは、七六年に再出発して、現在、多くの新しいレコードを輸入し、国内のレコード店に卸し、愛好家に直販する活動をつづけている。
  (ハ)うたごえ喫茶とヴォーカルグループ
  ロシヤ民謡の普及の波にのって繁栄し、その普及に拍車をかけたのが〝うたごえ喫茶〟であった。そのはしりである西武新宿駅前の〝灯〟は、始めは学生食堂だったが、集ってくる学生たちが興にまかせて、ロシヤ民謡を高唱するのに目をつけた店主の柴田伸が、アコーディオンと、歌のリーダーを入れて、歌唱指導しながら歌う店に切り換えたのが評判をよび、「どん底」「カチューシヤ」といった同様の店が生れて、新宿から〝うたごえ喫茶〟は誕生した。西武新宿の〝灯〟は、五四年に改築して一大ビルとなり、数百人を入れる大喫茶となったが、ここにはボニー・ジャックス、ダークダックス、ロイヤル・ナイツあるいは女声のボーチェ・アンジェリカなど多彩なメンバーが出演して、ロシヤ民謡を歌った。
  戦後のボーカル・グループの皮切りは、ダーク・ダックスである。ダークは慶応のワグネル・ソサエティのメンバーだが、ジャズミユージシャンで、名ディスク・ジョッキーであった先輩の、小島正雄の示唆と援助を得て、バーバーショップスタィルの、プロのグループとして発足した。当初は、ジャズのスィングスタイルのものが中心だったが、世界民謡へとレパートリーをひろげ、ロシヤ民謡をその重要なレパートリーの一つとしていった。この成功によって、ヴォーカルグループに対する要望が、急につよまり次々と生れたが、現在までも活躍している双壁は、早稲田のグリークラブ出身によるボニー・ジャックスで、彼らもロシヤ民謡を、得意のレパートリーにしている。しかし、何といってもロシヤ民謡を歌わせると、群をぬいていたのはロイヤル・ナイツであった。このグループが、解散してしまったのは惜しいことであった。女性ヴォーカルとして一時、評判となったヴ才ーチェ・アンジェリカも、ロシヤ民謡をとり入れていたが、このグループも結婚その他により、メンバーを欠いて解散せざるを得なくなった。
  これらのグループと親しくかかわり合って、プロモートに尽力した蔭の力として、当時のキングレコードのディレクター長田暁二のことも、忘れることはできない。またNHKの〝みんなの歌〟のチーフディレクター、後藤田純生を始めとするスタッフの果した、ロシア民謡普及の上での役割も大きかった。
  長田暁二の調べによると、戦前には一九二九年に藤原義江の「ステンカ・ラージン」、一九三六年にシャリアピンの「蚤の唄」、二三年にはオリオンコルという合唱団が「ヴオルガの舟唄」「ステンカ・ラージン」を吹込んだが、軍の圧力で廃盤になったという。とにかくも、数えるほどしかなかったロシヤ民謡だが、戦後は、長田が五九年に作った「世界民謡巡り・ロシヤ編」を始めダーク・ダックスのLPだけでも、当時十万枚売れたというのだから、まさに隔世の感がある。
  ロシヤ民謡のもつ、あの独特の哀愁にみちたメロディは、日本人の心情に深くくい入るものがあり、それが多くの人たちをして、ロシヤ民謡の魅力にひきつけ、ひろく愛唱されるゆえんなのであろう。歌は国境をこえて、言葉の違いをこえて、人々のこころを一つにつなぎ、平和と友好を深めていく上に、またとない大きな役割を、これからも果しつづけるのではないだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(了)

 

 

 

 

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