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日比谷高校同窓会に、泉麻人著「昭和遺産な人々」を贈呈

2016年05月09日 | 管理人のこと
都立日比谷高校は、創立百周年を機に戦前から建っている倉庫を「同窓会記念館」とし、非常勤職員を配置しました。
管理人は、同窓会記念館に『「昭和遺産な人々」泉麻人著:新潮社刊』を贈呈するためにレターパックで郵送しました。この書籍は、泉麻人さんが「新潮45」に連載「泉麻人の消えた日本」2000年1月号~2001年12月号をまとめてもので、12月号に「ブランさんのオート三輪」と題して管理人のことを執筆されました。




日比谷高校定時制についての部分を転載します。
・・・・・・・・引用・・・・・・・・・・・・・・・
 二十歳になった頃、「東京梱包」から「金太郎運送店」という別の運送屋に移って、長谷川さんは日比谷高校の夜学に通い始めた。
「目的は勉強、というより演劇。当時の日比谷は演劇活動が盛んな学校でしてね、僕は小学校の学芸会の時代からお芝居が大好きだったんですよ。数年前に取り壊された講堂の地下が演劇部の稽古場でね、チェーホフの 『結婚申込み』とかパニョルの 『マリウス』とか……ロシア演劇がハヤリの時代です。僕は『マリウス』のブランって役がハマリ役で、以来仲間から『ブランさん』って呼ばれるようになりました」
 この日比谷の夜学時代の話には、正に〝長谷川さん青春全開!″というムードが漂っている。
「仕事先からそのままオート三輪で学校に乗りつけてました。荷台のところに〝金太郎運送店〟なんてドバッと入ってる。あの頃はクロガネの大型のやつが多かったかな…‥ホテルニュージャパンの角にラテンクオーターがあって、ビンボ・ダナオが唄ってた時代ですよ、あそこの横の急坂、学生は遅刻坂″って呼んでたんですけど、あれをダーツと上っていきまして、校門入って校舎の真ん前に横づけする。運送屋の格好のまま入っていくとね、先生に〝工事の人〟とまちがえられてね……。で、授業の後、芝居の稽古やって、荷台にみんな乗っけて新宿とか渋谷の道玄坂あたりに繰り出していくわけです。もう九時過ぎた頃ですけど、あの頃は深夜喫茶なんかがけっこうありましたからね、そういったところで夜中まで芝居の話したり、くだらない話してました。『うたごえ喫茶』に行くようになったのも、その頃からですよ」
 長谷川さんのオート三輪は、「ブランさんの三輪車」と呼ばれて、学友たちに親しまれていた。
 長谷川さんが夜学に通っていたのは、昭和三十二年から三十六年頃にかけて。この頃が販売台数から見ても、オート三輪の最盛期ということになる。なかでも、昭和三十二年にダイハツから発売された小型車の「ミゼット」は、大村昆と佐々十郎のCMによって、時代のヒット商品となった。

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