■今日もまた暑い! 夏も8月に突入といったところ。各地で花火大会や盆踊りなどが開催されているようだ。
暑いのだがそうも言っていられず、近くのスーパーへ食糧の買い出しに出かけた。スーパーで買い物をするのは
嫌いではない。肉、野菜関係よりもとりわけ、魚貝類の生鮮食料売り場が良い。今日は、アメリカ産のカレイの切り身
などが目に入ったが、とりたててこれといったものはなく、冷凍保存用に「エビむき身」というのだけを買った。
売り場の買い物客の中に2,3歳の子供をワゴンに乗せ、魚を物色している若夫婦がいた。このまだ20代前半と思しき旦那の方は、
魚の刺し身が陳列されたケースを見下ろし、「なんじゃこりゃ!」を大声で連発するのだった。わざとらしい声のはり上げ方
だったが、なぜ、魚の売り場を目の前にして、あんなに聞えよがしの声を上げなければならないのだろう。
よくは分からないが、躁状態の感じを受けるのである。Tシャツ姿のラフないでたちで、サッカーのサポート大好き、といった
人々によくいそうな印象を受けた。こちらはスーパーへ買い物に来ているだけなのだが、ほんと、疲れる。
チカレタビ―というやつである。
特に不思議な魚はそこには並んでいなかったと思いますけど・・・。
■そこは、酒類も併設して売られている。一般の酒は普通の棚に普通の値段で並んでいる。そことは少し別の、ひと際高い棚に
値段も高い酒が鎮座していた。ウィスキーだ。あまり買う人はいないのだろう。一品ずつ横に並べて飾っているという感じだった。
サントリーのウィスキーだった。「響き」と「山崎」 ともに1本、7千円、8千円くらいだった。年数によっては同じ銘柄で
2万円近くなるようで、それらも飾ってあった。置いてあるところを見ると、これらのウィスキーを買う奇特な人(何が
奇特か分かったものではないが店にとっては奇特な人だろう)もまた、いるのだろう。
■発泡酒が安い。種類もいろいろある。最近は増え過ぎて何が何やら分からない。しかし、私にとってはそれはあまり関係が
無いという事で済みそうだ。尿酸値が高めでいつも気を付けねばならず、ビール、発泡酒などプリン体を多く含むアルコール類
は禁物なのだ。今回の足の痛みはばい菌が原因なので関係はないのだが、それでも、注意は必要のようだ。医者にそう言われた。
■インターネットのプロバイダーは、ここまで来るとどこもそんなに変わらない気がする。事実、私が選ぶ時もどこも、
甲乙つけがたしと言った感じだった。その事が始めから大体分かっていたので、パンフレットや申し込みの書面などのパッと
見の印象や電話などの応対を選ぶ基準にしてみようと思っていたのである。建築の設計は使うメーカーの種類が膨大である。
その経験でもそれほどはずれはないものなのだ。それで選んだプロバイダーは良かったと思っている。パンフレットのイメージガール
に相武紗希嬢がなっていて、ほぼこのフォトを理由に決めたと言ってもよい。後は電話の応対。うちは通信会社なので・・・と
少し済まなそうに、他社に比べキャンペーン攻勢の少なさを詫びていたが、私はそれでよかった。申込書類も返って来た受付書類も
パッと見で何か確かな感じがした。印字であるか手書きであるかはここでは関係が無い。書式の整理のされ方などのどことは言うに
言えないところのことである。それが良いと思った。今でもそれは変わらない。その後、blogに加入して載せるようになったが、
最近、投稿完了ボタンを押すと会社は違うがそこにも相武紗希嬢が現れるようになった。 まあ、いい感じだ。
まあ、いい感じだと言っても不動産関係のCMで貼りついているのが少し気に入らないが・・・。
プロバイダーの申し込みなどの書式については、今後のなお一層の精進も期待したい。少し大袈裟だが、昨年の今ごろの事を
思い出した次第。
■今日、久々に村上龍の「龍言飛語」という動画を2カ月分くらいまとめてみた。サッカーのWcupや選挙の事、相撲の事などに触れていて、共感するところも多々あり、そうでないところもありで、面白く聴き流していた。その中で、芥川賞・直木賞について言及しているところがあり、それを聴いていてあることを思い出した。つまりこういう事である。芥川賞などの賞の選考委員などをやると、選考委員の間でよく話題になることのひとつに、この作品は神の視点をもっている、ということがあるそうである。それもどちらかというとタブー視されたマイナスのイメージで語られることが多いそうである。何かでちらりと読んだか見ただけなので詳しくは知らないが次のようなことであったと思う。
まず、書き手がAという人に寄り添って書くとすると、1人称であれ3人称であれ、Aの視点で物事を記述していくことになる。Aはこう思う、こう感じた、というように書いていくわけだ。まあ、そうだと思う。ところで、次に、Bという人物が出て来た時に、書き手は、そのBはこう思った、とは書けないだろう、というのが、日本文学界最高の賞の選考委員の間で話題になる事だそうである。視点がAにあるのに、Bが思うとは神のみぞ知るはずの事で、仮にそう書くなら、それは神の視点を・・・ということだそうである。そしてヨーロッパ文学だか何だかでもその事は言われるらしく、大げさに言うと、書き手はそんなに偉いのか、驕りではないかと問われるらしいのだ。そのようなスタイルで書くことはかなり書き手にとって勇気のいることらしい。しかし、はたしてそうか。それは固定観念なのではないか。それは創作上の技法の事で、それを、神だのなんだのの視点と呼び、その視点で書くことを言わば、ためらわせることは何もないのではないかと思うのだ。Aの事を主体で書いていて、次にB主体で書き、どっちも、こう思った、こう感じた、と書いていって特に不自由することもないのではないかと思う。いやもっと、むしろそれゆえに独特の場面転換というか、もっと書き手あるいは読み手の側の視点の転換を効果的に劇的に行えるのではないかと、よくは分からないが思ったりする。それを神の視点だの何だのと変に捉え、多少の揶揄も含んだマイナスのイメージで見るからメンドウになるのではないか。
Aは痛風で足が飛び上るほど痛いと感じた。Bはそれを見て、自分は痛風ではないのだが、同じ痛みを感じ、こいつは容易ならないと思った。トカナントカ、例が実に悪いが、どんどん書けばいいのではないかと思う。
そういう小説、よく探せば、この世に既にごまんとあるのではないか。
違うかな・・・・・。