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カッキーYAMA   akihiko tange

手始めに、日常的なことを気の向いたときに載せていくつもり。

東京の空港の事・街の事などあれこれ・・・

2010-08-11 | エッセイ

羽田空港の新滑走路の増設部分がほぼ完成に近づいているようである。私はこれは始めからよい案だと思っていた。羽田の充実の必要性は以前から言われていた。都心部の上空を飛ぶことになれば騒音がひどいのでは、という事が言われたりしたが、羽田の場合ほとんどこれは心配無いのだった。海から、あるいは海への発着でほぼ済ますことができるとかつて聞いた。風向きなどよほどの事がない限り都心部の上空を飛ばなくて済むのである。そういう設計になっているということだったと記憶している。その点は例えばバンコクの空港などと少し事情は異なるのである。実際に、近くで釣りなどしたこともあるが、騒音はほとんど気にならなかった。航空機は海から来て海へ飛んで行くのだった。
かつて、大前研一氏が確か都知事選に出馬していた頃(政治にはあまり詳しくはなく、記憶があいまいである)、全国のいたるところに空港を造って、ハブ空港も充実させればよい、と、ぶち上げていたが、その後、大前さんは都知事選には落ちたものの、空港建設の提案だけはていよく利用され、全国の都道府県に嫌というほど万遍無く建設されてしまった。横並び好き、隣がやれば我も我も、各県知事の建設招致合戦で各県にできてしまったのである。過剰設備と言われても仕方がないだろう。優先順位の付いた青写真を考え、作る人間がこの国にはいないのかと思うくらい(たぶん本当にそうなのだろう)、場当たり的なおかしな政策であった。政策であったのかすら分からないのである。
 大前さんの、航空機をかつてのように重く考えるのではなく移動手段としてのエアバスと捉える考え方は、ありそうでなかなか発想の転換の効かない、日本では時代を先取りしたコンセプトなのだった。話にそのあたりのところが強く感じられるのであった。同じ言葉だけを使っても駄目な人がほとんどなのである。役人なども駄目である。そこは良かったのだが後は、この国のいつもの光景で我も我も、である。情けない。同様の海外旅行の団体パック集団行動も現地の人々の目にはどう映っていたのだろうか。
 話は変わるが、空港もそうだが、街中の超高層、マンション、建て売り住宅に至るまで、建設会社の「建て逃げ」の感じがある。マンションなど売れなくて値下げ、投げ売りをして、赤字をかぶったりつぶれたりするのは間に入った銀行に密着した不動産会社だったり日本的デベロッパーだったりする。始めからそうなった時でも逃げられるような準備がなされているのではないかと思われるようなペーパーカンパニー的なものもありそうである。いざとなったら不良債権処理されるだけ、それも会社が、自分は社員だし・・・。その時はもう建設会社は立てた後だし、建設費はもらっているしで、仕事は終わっているということなのだろうと思う。空港についても必要も採算性もないのにコンクリート敷いて逃げただけ、ということではないだろうな、と目を凝らしたくなるのである。この場合、建設費は建設会社に流れただけで一般人には何も関係ない。景気浮上効果ももちろん無い。さて、できた空港は費用対効果が十分に発揮されるかといえば、どうもそうではなさそうである。いくらエアバスの時代といったって程度があり、必要もないのに飛行機に乗って喜ぶ裕福な人などいる訳はないのである。費用対効果どころか運営すればするほど赤字になるという状況にならないか懸念するのである。これなど大前さんなどに責任を押し付けるとすれば、それは方向違いだろう。責任があるとすれば県なども含む役人と建設会社あたりか? 後は無責任な政治家と。目がそこらあたりにどうしても向くのである。
 私は成田、羽田の重点整備は適切だと思うし、関西でも同様だと思う。あとは、その次として、九州、東北のどこか、ここらあたりに国際線の比較的充実した空港があれば、使いでがあるだろうと思う。もちろん十分なリサーチは必要だ。しかし、横並びで造ってしまった後では計画は立たないだろうと思う。

                                           

役人は、住民へのサービスを削ることばかりを政治家とやっているようだが(もちろんそこだけを取り上げれば、それはそれで良いのだが)、自分たちの使う必要経費を競争入札させたりして圧縮したり削ったりすることは考えないのだろうか。民間企業なら直ぐにそれをやらされる。それも給料から減らされる。役所の感覚は異常なのかもしれない。一時期、国土交通省だけが叩かれているようだったが、無駄遣いをしている省庁は、ズラリと並んだ省庁の数だけあるはずである。全部やらないと財政の収まりは付かないだろうと思う。ゼンブ。いくらそうではないと屁理屈を言っても、いずれそれは歴史が明らかにするだろう。そうなった時はもう問題は恐ろしくも巨大なものとなってしまっているだろう。
またもやお騒がせ好きの東京都知事が東京の経済活性化のためカジノの誘致を言っているそうである。ウンザリだ。やりたければやれば、との言葉を投げつけたくなる。ラジオのDJなどは、それに乗っかったもの言いをしているようだった。「世はお祭りオンリー」という観点だけからなら、かろうじて私も何とか頭の病気にならずに語ることができるかもしれない。カジノができれば私はもちろん遊びに行くつもりだ。楽しみだ。そのとき正気であるかどうかは別として・・・。
この都知事は、日本橋など橋なんだからどこかに移したらいいじゃないか、と苛立ったように言っているのがTVに映っていたことがあったが、その部分だけを見て理解に苦しむ。その言説に至った経緯を仮に見たとしても、たぶん理解できないだろうと思う。東京都の人々が住みにくくならないようにと祈るばかりだ。その人たちが選出した人である。


                                                                                      
                                                                                     

JALの再生計画はあの様子では上手くいかないと思う。既に投入された1兆円近いお金が無駄になるだろう。それだけでは足りないかもしれない。稲盛さんが頑張ってはいるが、ダメだと思う・・・。

                                           


スカイツリー。何かと話題になっている。独立した電波塔としては高さ世界一。デザイン的にはどうかなと思う。何か鈍くさいな、と。でも、注目である。
辺野古米軍滑走路増設は不必要だと思う。防衛は考えつつも単純に米軍に返ってもらうのが良いと思う。時代は変わって行く。
八ッ場ダムは手順をよく考えて中止を貫徹するのが良い、と思う。

                                           
                                           

追記:訂正・説明など・・・(オーマイゴッド!)。 
上記、一気呵成に書いたのでお詫び、訂正が出そうだと自分でも思っていたのですがやはり出ます。

上記の中ほど 「◆役人は、住民へのサービスを削ることばかりを政治家とやっているようだが(もちろんそこだけを取り上げれば、それはそれで良いのだが)、」というのは、それはそれで良いわけではないのでした。これは最近進行中の「事業仕分け」の事を書いたつもりでした。しかしこれでは読むほうが勘違いします。これは、「不必要になった住民へのサービスを削る時に限り、それはそれで良い」ということです。つまり事業仕分けの事です。経費削減と称して必要な、ちょっとした住民サービスも削られたりはしょられたりしているのではないかと、その辺りを言いたいと思ったのでした。(3時頃PM. 2010/08/12)

                                           

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時として、海で思う事・・・11Aug2010

2010-08-11 | エッセイ
海について

あの感覚・・・である。海での感覚。
 7月の始め、東北へ旅をした。三陸の海岸沿いに鉄道で移動したのだ。あの時、三陸のリアス式海岸を目の当たりにして感じたのである。もう20何年か前に、四国の足摺岬でも感じたあの感覚をまた呼びさまされたのである。
 丁度、東京では相撲界の不祥事が問題となっていた。暴力団に絡む問題で、もと相撲取りが暴力団となり相撲界に絡んでいるというようなもので、日本の歴史とも絡むような実に根の深いものであると思われた。実際に、東京の良識ある相撲好きの人々の間では危機意識もあったに違いないのである。しかし、それらをよそに、その海辺はポカンと晴れた空間が広がっているのみだった。そこにいると東京で起きている様々な問題ある出来事がまるでないかの如く感じられるのであった。同じ日本なのに、である。危機感を共有することがまるでない空気だった。では、そこが日本ではないのかというと、とてつもなく紛れもなく日本的なのである。政治、経済、文化などなどの日本の諸問題がまるで遠くにあり希薄に感じられるのに、まごうかたなき日本の空、海がそこにある、というあの感じだ。それは、誤解を恐れずにあえて言うと、どうしようもないくらい自民党的だ、という事でもある。中央の影響が希薄であるにもかかわらずそうなのである。希薄であるからこそそうなのである。案の定、その遠くの空気が逆流して作用したかのごとく、その後、相撲の方の問題は実に日本的な雰囲気の中で、なんとなく要領を得ないまま収まって行くという経過を辿っているようだ。
 私は三陸の浜辺を歩いた。天気は良かった。太陽はどこまでも太陽らしく照り付け、空も海もどこまでも青くそこにあった。おそらくそこのすぐ近くで戦争が起きていても、何か危機的な天変地異が起きていても、気付かぬくらいポカンとした恐ろしく平和的といえば言えなくもない時間がそこにあったのである。足摺岬で感じたのと同じ吸い込まれていくようなその感覚。たぶん昔から、そうした空気の中で殺戮も行われてきたし、危機的状況も起きて来たのだ。その空気がまさに日本の空気である。ある特殊な海辺で特に強く感じられる空気感だ。ザックリと言ってしまうと、この日本的空気にへばりつき不可分になっているのが、例えば政治で言えば自民党であり、あるいは文化で言えば相撲なのである。この事に気付かぬ限り、あるいは気が付いていても、日本の政治やスポーツ(相撲がスポーツと言えるかどうかはここでは別として)などの根本は変わらない。だから変えなければならない時に変えようとしてもなかなか変わっていかない。
 太陽が照りつけるその浜辺で、すぐそばで起きている戦争に気が付いた時はもう死はすぐそこに迫っているのだ。何事もなく災いが起き、そして多くの死が訪れた後・・・も、ポカンと晴れた空と青い海は、どうしようもなくやるせないくらい平和的にそこにあるに違いないのだ。沖縄のあの美しい海でも、かつてそうであったのだろう、と思う。

                                          
                                           
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