福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

大野和士 & 都響 ベルリオーズ「レクイエム」 

2015-04-12 17:00:59 | コンサート

まずは、滅多に演奏される機会のない作品を実演で聴く機会を与えられたことに感謝。また、関係各位の労をねぎらいたい。

さて、肝心の演奏だが、マーラー「7番」で覚えた失望感を払拭するものとはならなかった。

大コーラスの他、シンバル10対、ティンパニ8対という巨大オーケストラに4つのバンダ隊が付くという、これだけの音響を聴いても、腸(はらわた)に響くことも、背中に電気の走ることもない。

これは余程のことだ。響きの質が途轍もなく浅いということだろう。

コーラスの発声も、わたしには受け入れることのできないものだ。ズバリ、彼らの歌は、日常で日本語を話す帯域を超えることはない。だから、そこに陶酔も法悦も生まれないのだ。

(もっとも、この帯域を聴く習慣のない方には問題は感じられないのかも知れない・・・)

このあたりのことは、終演直後、FB上で友人S.Fさん、K.Yさんと交わした会話を再現することで確認しておこう。

 福島 残念。大野和士のベルリオーズ「レクイエム」。面白くも可笑しくもなし。

   S.F 曲を肥大化させもしなければ矮小化もしておらず、前に流行った言葉で言えば「ありのまま」ってやつでしょうか。私は良かったと思いました。誇大妄想的なこの曲にさらに「盛る」やり方もあるとは思います。

 福島 ボクのポイントは、そこではないんですよ。

 S.F なるほど、そんな気もしておりました(笑)。

 福島 日本人演奏家の超えるべき壁の内側にある演奏だった、ということです。レコードでいえば、国内プレスのつまらない音に近い感覚かな??

 K.H 福島さんと同じ感想ですが、会場で会った知人とその友人が語ったことは、ひとつに作品の内容、ふたつに文化会館の残響の無さでした。

 福島 確かに、作品やホールにも原因はありそうですが、ロバート・ディーン・スミスが歌っている間だけ不満はなかったのです。そこに重要なヒントがあると思います。

 K.H 合唱が迫力不足でした。スミス1人の声と変わらない。

 S.F 合唱の迫力不足は感じました。あと、響きが窮屈で広がらない。

 福島 声量でなく、質なんです。日本語を話す帯域しか使われていない。実は都響の響きも同じ。ということです。

という具合に、大野和士による都響の新時代に、暗雲の到来を予感させるスタートとなってしまった。

大野の指揮を観て印象に残るのは、まずは腕の力の逞しさ。特に上腕の強靱さでもってオーケストラやコーラスを引っ張るわけだが、そこに丹田による深い呼吸が伴っていないため、オケもコーラスも鳴りが悪くなってしまうのである。今日はコーラスがあったため目立たなかったが、ヴァイオリン群の味気ない音はマーラーのときとあまり変わらなかったように思う。

これについては、上記のK.Hさんも次のように語っている。これにも同感である。

大野和士の指揮をこうして二度続けて聴くと常に力みが入っていて肝心のときにパワーを発揮できていないようにみえます。ゴルフのスイングも指揮も共通項があると思います。ゴルフでは力を入れると遠心力が働かずスイングスピードが落ち距離も伸びません。音楽でもフォルティシモを出そうとすれば、その前は力を抜いて溜めてから力を一点に集中すべきだと思うのです。もちろん基礎体力があることがベースとなりますが。常にテンションが高く抜く部分がない。窮屈。それが音楽を小さくしているようです。

東京春祭 合唱の芸術シリーズ vol.2 ベルリオーズ

《レクイエム》
~都響新時代へ、大野和士のベルリオーズ

日時:2015年4月12日(日)15:00開演(14:00開場)

場所:東京文化会館大ホール

指揮/大野和士
テノール/ロバート・ディーン・スミス
管弦楽/東京都交響楽団
合唱/東京オペラシンガーズ


という具合に、千穐楽は残念なものであったが、ヤノフスキの「ワルキューレ」、クールマンのリサイタルという至福を味わえたことで良しとしよう。


エリーザベト・クールマン メゾ・ソプラノ・リサイタル 東京春祭 歌曲シリーズ16

2015-04-12 01:12:06 | コンサート



エリーザベト・クールマン メゾ・ソプラノ・リサイタル。

ヤノフスキ指揮の「ワルキューレ」公演の素晴らしいフリッカを聴いて、矢も楯もたまらず東京文化会館小ホールへと駆けつけた。座席は、舞台やや上手寄りの前から3列目。大ホールを征服するクールマンの歌唱を小ホールという空間のこんなにも間近で享受できるという至福、何という贅沢だろうか。

歌とは何か、声とは何か、歌手とは何かを教えてくれる素晴らしいステージだった。

前半はリストとワーグナー、そしてグルック(下記参照)。

リストも良いのだけれど、やはり自分の大好きなワーグナー「ヴェーゼンドンク歌曲集」からの3曲には恍惚となった。声そのものも美しいのは勿論、豊かな低声からピアニシモの高声まで、表現の振幅の大きさは驚異的である。しかし、聴く者に「声」でなく、音楽を感じさせるというのが本物の芸術家の証だ。

さらには「ワルキューレ」で、あの怖い怖い背筋の凍るようなフリッカを歌った同じ歌手が、知恵に溢れ、堂々たる威厳をもったエルザを歌うという凄み!

休憩後は、まずシューマン「女の愛と生涯」を軸に展開。
これが、ひとつの芝居のように、或いは映画のように、実に巧みに構成されていて、大きな説得力を持つものだった。
「女の愛と生涯」から歌われたのは、全8曲のうち、第1、3、6,7,8曲の5曲。出会いのときめきを歌った第1曲につづいてリスト「われ汝を愛す」が置かれることで、恋の想いにより一層の高鳴りを覚えたり、シューマン「子供の情景」から「満足」(ピアノ・ソロ)が間奏曲のように二人の愛の進展を思わせ、 さらに、永訣の前にシューベルト「子守歌」歌われることが、まるで死者の魂を慰めるようでもあり、或いは、二人の間に子供が誕生したようにも思われたりと、奥行きの深いものとなっていた。

そして、シューベルトの4曲での盤石の締めくくり。

アンコールは以下の3曲。これも溜息が出るほど聴かせた。

リスト「3人のジプシー」
「さくらさくら」(日本語歌唱 三ツ石潤司・編曲)
リスト「愛とはいかに?」

ピアノのクトロヴァッツは、ムーアやヴェルバのような端正なスタイルではない。やや饒舌で、崩しすぎのようにわたしには思えた。もう少し表現を抑え、楽曲の骨組みを明らかにしてくれた方が、シューマンやシューベルトがより生きたろうと思われる。しかし、全体に、これだけの感動はなかなかあるものではない。歌曲を聴いた、というより、オペラの一場面を聴くようでもあり、いくつもの人生を聴くようなリサイタルであった。

なお、リハーサル後の判断で、予定になかった20分の休憩の置かれたのは正解だった。この中身の濃さ・・・。そうでなければ、聴衆の集中がつづかなかっただろう。

東京・春・音楽祭 歌曲シリーズ16

■日時・会場
4.11 [土] 19:00開演(18:30開場)
東京文化会館 小ホール

■出演
メゾ・ソプラノ:エリーザベト・クールマン
ピアノ:エドゥアルド・クトロヴァッツ

■曲目

リスト:
 私の歌は毒されている S289 
 昔、テューレに王がいた S278

ワーグナー:
 《ヴェーゼンドンク歌曲集》 より
  温室にて
  悩み
  夢
 エルダの警告~逃れよ、ヴォータン(舞台祝祭劇《ラインの黄金》 より)

リスト:
 私は死んだ (《愛の夢》第2番 S541-2 ) (ピアノ・ソロ)

グルック:
 ああ、われエウリディーチェを失えり
 (歌劇《オルフェウスとエウリディーチェ》 より)

 ♪休憩

リスト:
 愛し合うことは素晴らしいことだろう S314

シューマン:
 彼に会ってから (《女の愛と生涯》 op.42 より)

リスト:
 われ汝を愛す S315

シューマン:
 私にはわからない、信じられない (《女の愛と生涯》 op.42 より)
 満足 (《子供の情景》 op.15 より)(ピアノ・ソロ)
 やさしい友よ、あなたは見つめる (《女の愛と生涯》 op.42 より)
 私の心に、私の胸に (《女の愛と生涯》 op.42 より)

シューベルト:
 子守歌 D.498

シューマン:
 あなたは初めての悲しみを私に与えた (《女の愛と生涯》 op.42 より)

シューベルト:
 夜の曲 D.672
 死と乙女 D.531
 精霊の踊り D.116
 小人 D.771