福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

マエストロ尾高の崇高なる「第九」

2017-12-29 08:50:11 | コンサート
Facebookには過去の今日、自分が何を投稿したか教えてくれる趣向があってなかなか興味深いのだが、今日忽然と現れたのは、アメリカ生まれの名ピアニスト、ロザリン・テューレックの至言である。2年前、読書をしていて心に引っ掛かったフレーズを、備忘録としてFacebookに記していたのだ。



「真の演奏家は(中略)、自らの個性に無意識であらねばなりません。それが本当の個性なのです。たねやしかけのあるものは、独特のやり方であっても、個性ではありません。」

「演奏者として、わたしが目的としているのは、ただ演奏する、あるいは美しく弾いて喝采を得るということではありません。わたしは、自分の内にある経験が、聞く人に、人生に対する何らかの新しい洞察を与えることになれば、と思っています。全聴衆のうちにたった一人でも、悟りの曙光を得た者がいたなら、なんらかの地平の広がりを感じた者がいたなら、それが十分な酬いです。」
「ピアニストは語る」エリス・マック著 井口百合香訳(音楽之友社)より

この美しい言葉と再会したのが、他ならぬ今日というのは、偶然とは思えない。というのも、大阪フィル「第九」公演に向けた一昨日の合唱稽古、昨夜のオーケストラ合わせに接して、マエストロ尾高に感じた畏敬の念そのままだからである。

尾高忠明先生に対する一般のイメージとしては、堅実、穏健、誠実、羽目を外さない、といった真面目だけれど、些か面白みに欠ける、といったもののような気がする。SNS上でもそうした声に出会うことがあるのも事実だ。

しかし、少なくとも、今回の大阪フィルとの「第九」は全く違う。

確かに、聴衆をアッと驚かせようという仕掛けは一切ない。どこまでも、スコアに忠実(一部、ヴァイオリン音型のオクターヴ上げあり)であり、オケ、コーラスからは蓄積した癖や垢を取り除き、清廉な響きを紡ぎ出す。

それだけなら、毒にも薬にもならないということになるが、マエストロ尾高は、ただ棒に合うだけの演奏、ただ楽譜をなぞるだけの演奏を厳しく否定し、ベートーヴェンの想いに共感し、演奏家の情熱を注ぐことを激しく要求する。棒などあてにせず、自分の音楽を奏でろと言う。

プローベに於ける指摘や要求も、的を得ているとともに、向かうべき方向が明確に示されるため、何度繰り返してもプレイヤーのテンションが落ちることはなく、常に新鮮な音が現出する。

もうひとつ歓ぶべきことは、各声部の動きがクリアに聴こえつつ、音量がたっぷりと大きなこと。オーケストラも本当に気持ちよく鳴っているし、コーラスも潜在能力を引き出されて良い声となっている。

オケ合わせを聴きながら、これほど血湧き肉踊る想いさせて頂くとは!

本番は、いよいよ今宵と明晩。
この年の瀬、尾高&大阪フィルの「第九」を聴いて、心の大掃除をしては如何だろう?