しろねこがあるいたまひるとぼとぼと くさはなえいだ そらがとおいと
韓米連合軍司令部は16日、韓半島と太平洋地域、米本土で実施される韓米合同軍事演習の乙支(ウルチ)軍事演習である乙支フリーダムガーディアン(UFG、16~26日)に韓米両国の兵力と政府関係者ら計53万人が参加すると発表した。
参加兵力は韓国軍が5万6000人、増員兵力3000人を含めた米軍が3万人だ。英国、フランスなど韓国戦争に国連軍として参戦した7ヵ国も参観人を送る。
UFG演習は、コンピューターシュミレーションを通じて実施される指揮所訓練で、今年初めて陸海空軍の参謀総長に作戦指揮権が与えられた上部指揮構造再編案が適用される。
シャーマン在韓米軍司令官は「イラクとアフガニスタンで学んだ教訓はもちろん、北朝鮮の挑発に対応した韓米同盟の最近の(対応)経験と過去の演習を通じて、蓄積されたものを適用している」と話した。在韓国連軍指令部は、演習に先立って、板門店(パンムンジョム)の北朝鮮軍代表部宛てにUFG演習の時期と性格について通告している。
一方、韓国政府は16~19日まで、国家非常事態に備えて官民軍統合防衛態勢を点検する乙支部演習を実施した。市・郡・区以上の行政機関と主要重点管理指定業者など3700の機関と44万人が参加した。
今年は、局地的な挑発に備えた政府演習を初めて実施した。西海5島近くの住民の避難訓練や抜き打ちのサイバーテロ対応演習なども実施した。
東亜日報~~~~~~~~
今の国連のトップが、特定の国の為に動き、おかしなことになっていきつつあることは見て取れる。
北朝鮮と韓国の戦争に国連軍として参戦した7ヵ国が連動するということはそういうことであるといわれても、おかしくない状況である。
不平等がすぎる国連の動きを、監視しなければならない。
以下、国連軍の動きとの連動についての懸念の論拠をウィキより抜粋~~~~~~~
休戦会談を行う両陣営(1951年10月11日)
この後、1951年6月23日にソ連のヤコフ・マリク国連大使が休戦協定の締結を提案したことによって停戦が模索され、1951年7月10日から開城において休戦会談が断続的に繰り返されたが、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉は難航した。1952年1月18日、実質的な休戦状態となったことで軍事的に余裕をもった韓国は李承晩ラインを宣言し竹島、対馬の領有を宣言して連合国占領下にある日本への強硬姿勢を取るようになった。
↑
*(あまりに身勝手な国際法違反の韓国のやり方といえ、日本にはこの朝鮮戦争は関係がないにも関わらず、朝鮮戦争時のどさくさにまぎれてトラの威を借りながら勝手に宣言した韓国の違法なやり方は、どこの国も認めることはできない、このラインが昨今の領土問題の元凶であることに鈍感であってはならないと思われる)*
1953年に入ると、アメリカでは1月にアイゼンハワー大統領が就任、ソ連では3月にスターリンが死去し、両陣営の指導者が交代して状況が変化した。
1953年7月27日に、38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は一時の終結をし、現在も停戦中である(調印者:金日成朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐中国人民志願軍司令官、M.W.クラーク国際連合軍司令部総司令官。なお李承晩はこの停戦協定を不服として調印式に参加しなかった)。
停戦協定は結ばれたものの、板門店がソウルと開城の中間であったことから、38度線以南の大都市である開城を奪回できなかったのは国連軍の失敗であったとされる。
なお、その後両国間には中立を宣言したスイス、スウェーデン、チェコスロバキア、ポーランドの4カ国によって中立国停戦監視委員会が置かれた。中国人民志願軍は停戦後も北朝鮮内に駐留していたが、1958年10月26日に完全撤収した。
↑
*(この場合、真に中立的であり、同じ民族同士の無意味な戦争を終わらせようとし和平に貢献したのはスイス、スウェーデン、チェコスロバキア、ポーランドといえるであろう)*
*( )*は筆者による記述
ちなみに「乙支」とは、今の中国にあった隋に当時の国際法といえるものにのっとった停戦!を申し入れながら油断させ、騙し打ちしたとされる、隋からしてみれば信用できない、表と裏の違う、高句麗の人のことである。
参加兵力は韓国軍が5万6000人、増員兵力3000人を含めた米軍が3万人だ。英国、フランスなど韓国戦争に国連軍として参戦した7ヵ国も参観人を送る。
UFG演習は、コンピューターシュミレーションを通じて実施される指揮所訓練で、今年初めて陸海空軍の参謀総長に作戦指揮権が与えられた上部指揮構造再編案が適用される。
シャーマン在韓米軍司令官は「イラクとアフガニスタンで学んだ教訓はもちろん、北朝鮮の挑発に対応した韓米同盟の最近の(対応)経験と過去の演習を通じて、蓄積されたものを適用している」と話した。在韓国連軍指令部は、演習に先立って、板門店(パンムンジョム)の北朝鮮軍代表部宛てにUFG演習の時期と性格について通告している。
一方、韓国政府は16~19日まで、国家非常事態に備えて官民軍統合防衛態勢を点検する乙支部演習を実施した。市・郡・区以上の行政機関と主要重点管理指定業者など3700の機関と44万人が参加した。
今年は、局地的な挑発に備えた政府演習を初めて実施した。西海5島近くの住民の避難訓練や抜き打ちのサイバーテロ対応演習なども実施した。
東亜日報~~~~~~~~
今の国連のトップが、特定の国の為に動き、おかしなことになっていきつつあることは見て取れる。
北朝鮮と韓国の戦争に国連軍として参戦した7ヵ国が連動するということはそういうことであるといわれても、おかしくない状況である。
不平等がすぎる国連の動きを、監視しなければならない。
以下、国連軍の動きとの連動についての懸念の論拠をウィキより抜粋~~~~~~~
休戦会談を行う両陣営(1951年10月11日)
この後、1951年6月23日にソ連のヤコフ・マリク国連大使が休戦協定の締結を提案したことによって停戦が模索され、1951年7月10日から開城において休戦会談が断続的に繰り返されたが、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉は難航した。1952年1月18日、実質的な休戦状態となったことで軍事的に余裕をもった韓国は李承晩ラインを宣言し竹島、対馬の領有を宣言して連合国占領下にある日本への強硬姿勢を取るようになった。
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*(あまりに身勝手な国際法違反の韓国のやり方といえ、日本にはこの朝鮮戦争は関係がないにも関わらず、朝鮮戦争時のどさくさにまぎれてトラの威を借りながら勝手に宣言した韓国の違法なやり方は、どこの国も認めることはできない、このラインが昨今の領土問題の元凶であることに鈍感であってはならないと思われる)*
1953年に入ると、アメリカでは1月にアイゼンハワー大統領が就任、ソ連では3月にスターリンが死去し、両陣営の指導者が交代して状況が変化した。
1953年7月27日に、38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は一時の終結をし、現在も停戦中である(調印者:金日成朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐中国人民志願軍司令官、M.W.クラーク国際連合軍司令部総司令官。なお李承晩はこの停戦協定を不服として調印式に参加しなかった)。
停戦協定は結ばれたものの、板門店がソウルと開城の中間であったことから、38度線以南の大都市である開城を奪回できなかったのは国連軍の失敗であったとされる。
なお、その後両国間には中立を宣言したスイス、スウェーデン、チェコスロバキア、ポーランドの4カ国によって中立国停戦監視委員会が置かれた。中国人民志願軍は停戦後も北朝鮮内に駐留していたが、1958年10月26日に完全撤収した。
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*(この場合、真に中立的であり、同じ民族同士の無意味な戦争を終わらせようとし和平に貢献したのはスイス、スウェーデン、チェコスロバキア、ポーランドといえるであろう)*
*( )*は筆者による記述
ちなみに「乙支」とは、今の中国にあった隋に当時の国際法といえるものにのっとった停戦!を申し入れながら油断させ、騙し打ちしたとされる、隋からしてみれば信用できない、表と裏の違う、高句麗の人のことである。