いろいろな声を聞くということは、自分にないものを聞き続けるということであり、自分の中で完結しそうもないことを思い知る。
人の中では未文化であったり、食傷気味であったりするものであれ、自分にとって、読みたい衝動がある、声に出してみたいものしか表現できないということ。
終わったあと、どうにも未消化なものを抱えて、いろいろなところを歩き回った。
聖福寺には誰も居なかった。
瓦で作った鬼のような唐獅子や、波打つ壁、桃源郷の古ぼけた夢を見ているような桃の木彫の彫刻、それから誰も座っていない古びたテーブルと椅子。
その椅子に座って、遠くから来たもののたどり着いた果てを見ていた。
蚊が血を吸いにやってきたので、立ち上がった。
じゃがたらお春の碑が向こうにあった。
死ぬ前に作った墓に刻まれた名前には朱色を挿すというが、じゃがたらお春は、異人さんに売られて帰ってこなかったので、まだ、どこかで生きているというのであろうか。
横浜の赤いくつの女の子の銅像も誰も気づかないくらい小さくなって座っていたのを思い出した。
いつの時代も、戦争ではない、静かな侵略もあるということ。
いつの時代も、連れていかれたものがいるということ。
昔は今に繋がって、ぐるぐる感情の事線をまわっている。