なくなったものはすべて祀られていい。
死刑廃止を望む「世界」の流れとして、不当に、ある国家にではなく、もっと大きな国家間の軋轢によって死刑に処せられた者たちをも受け入れている靖国に対して、死者を弔うな。などという文句を言われる筋合いは毛頭ない。
すべてのものに合掌。
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靖国神社参拝がなぜ問題になるのか
首相の公式参拝が、常に海外で大きな問題になる靖国神社。
「第二次世界大戦の戦死者のみならず、B、C級戦犯はおろか、東条英機をはじめとするA級戦犯(戦争犯罪人)まで祀っている神社に、日本の首相が公式的に参拝をするということは、日本の戦争責任を認めていない証拠だ。遺憾きわまりない」と中国、韓国、米国政府が批判します。
これに対して、日本では、
「その通りだ。そもそも首相の靖国参拝は、憲法の政教分離の原則に照らすと違憲ではないか。いったい、なぜわざわざ中国、韓国、米国を刺激し、軋轢を起こそうとするのか。慎むべきだ」という声も上がります。しかし一方では、
「お国のために亡くなった英霊を祀る靖国神社に首相がお参りするのは当然至極のことではないか。どこの国だって、国に殉じた戦死者を行政を司る者が慰霊している。それを問題にするというのは、歴史問題を蒸し返して日本を揺さぶっているのだから、毅然とした態度を示すべきだ」
「靖国神社に祀られている英霊は軍人ばかりではないよ。民間人や、台湾や朝鮮半島出身の人も祀られているではないか」
「戦犯も祀られているといっても、国際法上、違法であることは明らかな東京裁判で、復讐として断罪された人たちじゃないか。戦勝国による一方的な戦争史観に、なぜまだ従うのか」
という声も上がります。
また、『永遠の0』(百田尚樹)の本を読んだり、あるいは映画を観た人は、「九段(靖国神社のこと)で会おう」と言葉を交わして、大空に向かって出航した特攻隊員の心情を思って、他国からいかに言われようとも、首相をはじめ、誰もが、靖国神社に参拝すべきだ、と実感しているかもしれません。
さて、特に終戦記念日の頃になると、そのように参拝問題が話題に上る靖国神社ですが、英霊を祀っているだけではありません。そもそも靖国神社とは、どんな歴史のある神社なのでしょうか。
・東京の桜の開花宣言をする際の、開花日の「基準木」として、毎年恒例のニュースになっています。いったいどうして靖国神社で、桜の開花日が決まるのでしょうか。
・また毎年、桜の咲く頃に奉納大相撲が境内の相撲場で開かれ、多数の人が集まり、報道されます。相撲と靖国神社には、どんな関係があるのでしょうか。
・そもそも、靖国神社の大鳥居をくぐると、参道の中央に大村益次郎(司馬遼太郎原作、NHKの大河ドラマ『花神』の主人公として知られていますね)の銅像が聳え立っています。なぜ、ここに大村益次郎の勇姿が見られるのでしょうか。
多くの人が抱く、この素朴な三つのWHYを探りながら、靖国神社の原点を探って行きたいと思います。
木戸孝允、高杉晋作も学んでいた有名道場の跡地に創建
今から150年ほど前の、現在の靖国神社のある場所にタイムスリップしましょう。そこは幕末の江戸。現在も東京には坂が多く、三千ほどの坂があるといわれていますが、江戸時代には、たいてい坂の上には武家屋敷があり、坂の下には庶民が住んでいたものです。また、ここは江戸城の外堀の周辺とあって、旗本、御家人の屋敷が配されていました。
現在よりも急傾斜で、坂道で牛がお堀の中に墜落溺死したことから牛ヶ淵の別名があった、たいそう長い九段坂(元は九段の石段だった)を上がると、あたりは武家屋敷で、幕末には、斉藤弥九郎という、神道無念流の剣客の有名な道場がありました。練兵館です。練兵館は、幕末江戸三大道場(他の二つは士学館と玄武館)の一つで、「市中三尺の童子も知らぬ者はなかった。」(矢田挿雲『江戸から東京へ』)ほどでした。
そこで学んでいたのが、木戸孝允(桂小五郎)、高杉晋作、谷干城、品川弥二郎ら幕末の志士などでした。木戸孝允は、優男のイメージを抱いている方が少なくないようですが、じつは長州藩から剣術修行のため練兵館に入門し、免許皆伝を得て、一年足らずで塾頭となり、帰国するまでの5年間、その武名を轟かした剣豪だったのです。
幕府が倒れ、明治維新が成って、明治元(1868)年5月10日、政府は、国事に殉じた者のみたまを合祀し、長く祭祀を行う太政官の布告を出しました。また同日、伏見戦争以来の戦没者を祭祀することも布告しました。
戊辰戦争の戦没者の招魂場を建設する構想を抱いていた木戸孝允は、明治2(1869)年になって、同じく長州藩出身の同志であり、「近代日本陸軍の創設者」として知られる大村益次郎(村田蔵六)に提案。3月に東京遷都の後、6月12日、軍務官副知事だった大村益次郎は九段坂上の、大政奉還後に急造されたという、旧幕府歩兵屯所の跡を検分し、皇居の北西の高台にあるこの場所を、招魂社建設の地と定めました。
早くも6月29日に東京招魂社が創建され、式典が挙行され、5日間、招魂祭が行われました。この旧幕府歩兵屯所跡の火除地の隣には旗本屋敷が立ち並んでいましたが、みな静岡に移住などして、寂しい、不便な場所になっていたため、大村益次郎がこの地を選んだのです。この東京招魂社は、ほぼ10万坪という広大な敷地でした。そこには練兵館跡地も含まれていて、それは現在の靖国神社境内の東南の角に位置します。東京招魂社入口に隣接して、木戸孝允の拝借邸がありました。
招魂社創建のときから続く、大祭での奉納相撲
招魂祭において、7月1日より三日間、奉納相撲が行われ、以後、相撲は大祭における恒例の、人気の余興となります。毎年、靖国神社の春の例大祭に奉納相撲が行われ、たくさんの人が集まるのは、これに由来しているのです。東京招魂社では戊辰戦争の戦死者、西南戦争の戦死者、台湾出兵の戦死者を合祀しました。
明治12(1879)年6月4日、東京招魂社は靖国神社と改称され、別格官幣社となります。「靖国」は「安らかで、争いのない、平和な国」という意味です。そして例祭を春秋二回のそれぞれ三日間行うことが定められ、競馬、幌曵き、撃剣、相撲、神楽、能楽などが奉納され、昼も夜も花火が打ち上げられ、賑わいました。例祭には全国から参詣者が集まっていたものです。
明治26(1893)年に、境内に大村益次郎の銅像が建立されました。大村は明治2年に刺客に遭難して、死去していました。東京における最初の銅像、そしてまた日本最初の西洋式銅像といわれるその銅像は、左手に双眼鏡を持ち、上野方面を向いています。それは旧幕府歩兵屯所跡に作られた、靖国神社競馬場の中央にありました。
桜の名所の起源は、木戸孝允が植えたソメイヨシノ
この奉納競馬のための競馬場は、明治3(1870)年に開始、その際、周囲に木戸孝允によって数十本の桜(ソメイヨシノ)が植えられました。競馬場は明治31(1898)年に廃止されましたが、靖国神社は、東京都内で有数の桜の名所となり、花見客を集めて賑わってきました。現在、境内には約1000本の桜(ソメイヨシノ600本、ヤマザクラ350本)があり、うち3本のソメイヨシノは、気象庁が東京地方の桜の開花宣言をする際の標本木となっています。
英霊たちを偲ぶ花として、木戸孝允によって選ばれ、自ら植樹された桜は、靖国神社の神紋ともなったのです。大村益次郎が靖国神社の“創始者”と呼ばれることもありますが、じつは陰の創始者は、明治10(1877)年に亡くなっていた“維新の三傑”の一人、木戸孝允だったのです。
戦死者を祀る東京招魂社として誕生し、「安らかで、争いのない、平和な国」を願って、その歴史を歩んできた靖国神社。しかし、「平和」のシンボルである桜の名所として親しまれながらも、残念ながら、靖国神社を巡って、さまざまな争いが生まれてきています。しかし、逆にそのことによって「平和」とは何か、ということを常に靖国神社は問いかけているのかもしれません。九段の地に眠る、246万6000余柱の英霊が、それを見守っているのです。
(文責・武蔵インターナショナル)