明鏡   

鏡のごとく

ユダヤびとがかたる「イスラエルの神話」

2015-02-10 15:52:33 | 日記
『イスラエルの神話』ユダヤ人問題に出口はあるか
アルベール・メンミ 新評論より


以下抜粋。


言語破壊を行っている最近の作品の大部分が、必ずしもフランスに定住し、母国語以外の言語を使うよう歴史に強制された外国人作家の手になるという事実に、どうして十分注意が払われないのか不思議である。

私の知る限り、これらの風変わりな芸術家のなかにユダヤ人が多いことも、やはり注目されていない。

ダダの創始者ツァラがルーマニアのユダヤ人であったことはたぶん偶然ではない。

それに、これは計画的な言語破壊というよりは、むしろ、他者の言語を前にした深い疎外感、違和感が問題なのだと私は思う。

ダダは言葉の習慣的価値を徹底的に疑い、言葉のひとつの意味を同時に肯定し、かつ否定するほどである。

一見対称的ではあるが、言語にたいするカフカの姿勢もおなじ不安感から生じている。

カフカの翻訳者マルト・ロベールの見事な言い方によれば、カフカの芸術は一種の言葉の倹約によっている。

彼は尊重しなければならない異国の領域としてドイツ語を扱い、意識的にか否かは別として、一切の行き過ぎた自由を自らに禁じている。

ここから、あの厳密さ、細部にいたる明確さ、あの言葉の簡潔な使用法が生まれる。

逆説的だが、この使用法は言葉をじつに異様なものにすることになり、おなじ苦悩を表現することになる。




カフカは「私はドイツ語の側から招待された者なのだ」と絶望的に結論づけている。


私はヘブライ文化を自分の内に築こうと熱中することはできても、それがまったく利用不可能な贅沢品であることをよく知っていた。

頑固にも、またいささかばかげた誇りから、聖書をタナクと読んだところで、もし私たちが誰にも、ユダヤ人にさえも理解されないとしたら、それが私たちにとって何の役に立ったろう。

それはせいぜい、ささやかな補助的文化にしかなりえなかった。

実際、ユダヤ民族国家の外では、ヘブライ語はユダヤ人の神話的言語以外の何物でもなかった。



抑圧された者は自分を抑圧する者のなかに溶け込むために、記憶をなくした方が自分のためになるだろう。

だが、自分を拒否しようと決心したときに正当だったことも、自分を肯定しようと思うと、たちまち正当ではなくなった。




ユダヤ語のないユダヤ文学とはいったいなんなのだろう。

ユダヤ人であることを受け入れるとは、文化的悲劇をも含むあらゆる悲劇に同意することだったはずだ。

そして文化的悲劇は言語とともにすでにはじまっていた。

なぜなら、ユダヤ人の言語は、ユダヤ文化全体がそうであったように、粉々の状態だったからだ・・・・もっとも文化があるとしての話だが。