明鏡   

鏡のごとく

『うちの近くのタックスヘイブン』

2016-04-18 19:10:36 | 詩小説
 うちの近くの「タックスヘイブン」は、「小便小僧」という焼き菓子屋の裏道にあった。

 「小便小僧」は税金天国の番人のように、そこにあったが、羽の抜け去った天使のように、止めどなく流れる水飛沫のように、焼き菓子のバターの焦げたふうわりとした甘さを辺りに撒き散らしていた。
 

 焦げ付きやすい税金は甘い甘いタックスヘイブンに飛んでゆけ


 とばかりに、最近、流出して大騒ぎになったタックスヘイブンの文書に出ていた住所を頼りに、ここまできたのだったが、かわり映えのしないマンションがあるばかりであった。

 税金逃れにしては、地味である。

 地味であるからこそ、逃れられているのかもしれないが。

 それとは、対照的に、タックスヘイブンに金を預けていたものが所有するビルディングのほど近くには、もうひとつのタックスヘイブンである、騒がしいぱちんこ屋が並んでいた。

 ここ日本では、ぱちんこは税金逃れの天国と言われて、久しいが、未だに野放しになっている、違法賭博場である。

 バカラ賭博とは違って、堂々と違法行為をしているにも関わらず、それは野放しになっている。

 税金泥棒は、遠い島にあるわけではなく、歩いても行ける、すぐ近くにあるのである。


 タックスとんだ 地震でとんだ 魔男かなでるハープでとんだ 天国ではなく地獄になった


 ずっと、公安か刑事か記者のように、人が出てくるのを待っていたが誰も出てくる気配がなかった。

 どこかに高飛びしているのかもしれない。

 もしかして、ここにはもう人は住んでいないのかもしれない。

 蛻の殻のタックスヘイブンには死者さえもいないのだった。

 

『流言』

2016-04-18 18:26:03 | 詩小説
流言のでどころにはいくつかある。

流言を探しまわるものが、少しでも、己が被害を受けたと感じ、その被害を訴えたいがために拡散することで、自己防衛を補強しようとする場合が、少なからず見受けられるのは。

被害者であることが最大の自己防衛だとこれまでの人生のあらゆる場面で学んできたからである。

因って、流言にたより、流言によって、傷ついた己を演出することに余念がない。

予防しているのではなく、より己に流言を吸い寄せている。

誰も同情はしない。

流言に押し流されていくのを、ただだまって眺めるだけなのである。

民族による差別被害を煽るものこそが、その最たるものである。

津波による原発の被害は辛うじて免れた今回の地震に際してもそうであった。

外国人差別があると騒ぐものが必ずいるが、差別など摩る暇などない被災者にとっては、寝耳に水のことであるにも関わらず、日本人全体があたかも、差別をしているような物言いには呆れ返るばかりである。

誰も騒いでいないにもかかわらず、己で被害を装うからこそ、流言に惑わされ、囚われる。

それがどうしたと、自分で立つことによってしか、救われないにも関わらず。



ところで、流言ではなく、事実を実証し、語りうるものがいることで、この世は、すこしだけ救われる可能性はある。

たとえ、無力であろうとも、絶望的であろうとも、その事実に、いつか太刀打ちできるすべを持つ可能性が、少しでもあるからである。

科学と言葉の可能性を、そこに見る限りにおいて。