クーラーをつけず窓空け風通す 台風 北風 吸い寄せる秋
福岡県太宰府市教育委員会は25日、10世紀初めに都から左遷された菅原道真が過ごした「南館」があったとされる榎社(同市朱雀)境内の発掘調査で、9世紀後半~10世紀前半の掘っ立て柱建物跡や溝跡が見つかったと発表した。溝から、かめに坏(つき)を重ねて入れた祭祀(さいし)用とみられる遺物も出土。市教委は「菅公(道真)がこの地で最晩年を過ごした時期(901~03年)と重なる注目すべき遺構」としている。
市教委は6月から調査を進め、平安時代の掘っ立て柱建物跡3棟などを確認。うち1棟は出土土器から9世紀後半~10世紀初頭と判明した。これまでにも南館跡の一部とみられる遺構は見つかっていたが、時期が絞り込まれたのは初めて。
建物は東西5・8メートル以上、南北2・8メートル以上の規模。瓦の出土が少なく、屋根は板ぶきか、かやぶきだったとみられるという。近くで見つかった溝の跡からは、坏11個以上が入った高さ約20センチ、口径15センチのかめ(土師(はじ)器)なども出土した。
道真は漢詩集「菅家後集(かんけごしゅう)」で大宰府の住居を「南館」と称する一方、「草堂」とも表記し瓦ぶきでなかったことをうかがわせる。「発掘成果と整合性がある」と市教委は説明する。
現地は大宰府政庁跡から約600メートル南。大宰府条坊のほぼ中心部で、政庁から南下する朱雀大路(すざくおおじ)(幅35メートル)跡沿い(右郭)。区画された敷地の中央部でないため、市教委は「菅公が住んだ中心施設ではなく、炊事など家政を担った施設の可能性が高い」としている。
市教委は27日午前10時から現地説明会を行う。
=2016/08/26付 西日本新聞朝刊=
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「草堂」ということは、茅葺や板蓋であった可能性があるということか。
茅葺の屋根を勉強するようになって、茅葺に限らず、石を板の抑えに使った石の屋根や、現在風の瓦屋根に至った大まかな流れなどにも興味が出てきたこともあり、その過程が俄然面白くなってきた。
そこに住んでいた人の思いも家の形になっていくこと、良くも悪くも、生き方、生きた足跡が、家の形にも表れるということをつくづく思う。
魚沼に行く前に途中乗り換えで立ち寄った京都の昔の建築物を訪れたが、唐風文化的瓦葺きと、元々あった茅葺との融合も見られた国風文化的なものが平安時代にあったが、朝廷関連施設に瓦葺きが採用され茅葺は住居として使用されていたということからも、「草堂」はより生活の場に近いものであった可能性は大きいと思われる。
菅原道真は左遷され、約しい生活をしていたとされており、廃屋に近いものを与えられていたということも聞いていたので、より一層、当時を偲ばれる発見と思われる。
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平安時代の貴族で秀才ぶりが伝わる菅原道真は、政治の中枢を担う右大臣まで上り詰めたが、政争に敗れ、京都から遠く離れた大宰府に追い落とされた。華やかな生活は一転し、雑草が生い茂り、雨漏りする官舎で、衣食もままならないわびしい晩年を余儀なくされたようだ。
学問の名家に生まれた道真は幼くして和歌を詠み、青年期には詩文を教授する文章博士に。弓の腕も高く、文武に才を発揮したとされる。
醍醐天皇の時代、右大臣だった道真は左大臣藤原時平によって身に覚えのない罪を着せられ、大宰府に左遷。道真の漢詩集「菅家後集」からは、任地での不遇を嘆いた様子がうかがえる。
菅家後集によると「空しき官舎」はかやぶきで雨漏りもひどく、井戸はふさがれ、庭石が雑草で隠れるほど荒れ果てていた。身の回りの世話をする年老いた使用人らはいたが、優雅な都の生活とはかけ離れていた。
左遷から2年、道真は自身の潔白を祈りながら903年に生涯を閉じた。その後、無実が証明されて神様の位を贈られ、太宰府天満宮にまつられたとされる。
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