一昨日のことであった。
ヴァージニア・ウルフの日記を読んでいると、「蛾」(のちに「波」に融合したらしい)という小説の構想を書き記していた。
「波」というブルームズベリー・グループのメンバーのことを書き記した小説の構想と同時進行でもあった。
同性愛的小説「オーランドー」も同時期に書かれており、彼女の書いたものは、やはり、彼女にしか書けないものであることがわかる。
彼女の体を通してしか描かれないものであること。
彼女は複雑な家庭環境で育っており、いつの時代も、家族的葛藤はあるということであろうが、ウルフは異父兄に虐待を受けていたということもあり、自分ではどうすることもできない、うつ的葛藤を押し付けられたとも言える女性であったが。
世界大戦の最中に、ロンドン空襲などで家が壊されたりした経験もまた、彼女を抑うつ的状態の元に起き続けたと思われた。
そう言った女性への見えたり見えなかったりするいわゆるガラスの天井的なものや、見えたり見えなかったりする爆撃の恐怖にさらされて、何がしかの彼女の耐えられる限界値を超えてしまい、石をポケットに詰めて入水自殺に至ったのだ。
彼女の目眩くような小説を書き綴る時の幸福感、高揚感を脳内再生しながら、彼女の生きた時代と今はそれほど変わっていない側面もあるということに共感もし、どこかで何かが少しだけでも救われもした気がしたが。
彼女とは状況も環境も違うのは、もちろんであるが。
彼女のように、限界を感じないように、生きたいように、やりたいようにしながら、生きながらえてきたようなところもあるが。
夢の中まで追いかけてくる悪意のようなものによって、時として、真夜中に目を覚まさせられることがあった。
イランイラク戦争時に、たまたま父親の仕事の関係で、イランにいた時に感じた、イラクからの爆撃の恐怖にも、似ているが。
記憶の中に埋もれさせているが、夜の闇から忽然と現れてくる坂道を駆け上る黒い水のような、津波のようなものが、逆流してくるのを感じることが時々、ふっとあるのだ。
地下室に逃げ込んだ空襲の時。
灯火管制が敷かれた窓ガラスに銀紙をベタベタと貼り付けて、外に明かりが漏れないようにしていた夜の記憶。
あるいは、いつか見た夢のように、駅で向こうの道から手をこまねいてたっている恐ろしい強権的な女の姿を見るような違和感。
その女は、他人がいると激変し、内にいるときと、外にいるときの違いが鬼と神ほど違うもので、苦笑いも出ないほどの裏表。
支配することが絶対条件のような強権的なものは、まずもって、人を性的に支配しようとすることで、意識的にも無意識的にも、身体的にも精神的にも、そのものを征服することができると、本能的に知っているもの。
内と外の違い。強権的。支配的。犬の習い。のような。
子供の時、両親がいなくなるのが怖かったのは、この女の強権があったからでもある。
性的にも年齢的にも、優位に立とうとする女が、声の大きな、剣幕で捲したてる女が苦手で、今でも怖くないわけはないが、「秘密」を強要することで、さらに、その強権を駆使するような。
ウルフの怖さとは、虐待を受けたことからの、抑うつ的状況から逃れられなかったことへの、生身の恐さを知っている、生の声が聞こえてくるからだと言える。
彼女と向き合う時期に来ていると、なぜか思われ読んでいたのは、石を持って入水するか、石を投げつけるか。
あるいは石を拾って、積み上げるか、あるいは石を刻むか、それとも石を飲み込むか。の極にいるからかもしれない。
おそらく、私は今、石を持っている。
研ぎ澄まされていない、鈍い石斧のようなものを。
それを持って、生贄を捧げるのか、自らが生贄になるかはわからないのだが、とにかく、石斧のようなものを持って、目の前の茅を手当たり次第に刈っているのである。
白い茎の内部を持った茅と赤い茎の内部を持った茅があることに気づいたのは、茅を狩り続けていた時である。
「菅」の色の違いによって、どちらがいい茅、悪い茅であるというわけではないそうだが、赤い管の茅を刈る時、どこかで、血の色を思いだし、茅の時折、風に吹かれてなびく姿が、悲しげに、ゆらゆらとして、空洞の中身を満たすものが、赤と白である茅の奥底を切り刻む、タロットカードの「死神」のような気になるのであった。
ここに来る前に、友人の友人にタロットカードで、無言の伝言を承ったことがった。
ただ、中世に作られたという古びたタロットカードの絵は、私に、そのカードの意味を教えてくれるだけであった。
私は、二つの首が転がる「死神」を選んでいた。
そうして、今、目の前にあることを完成させなさい。とだけ言われたのであった。
おそらく、茅葺の道の完成と、言葉の完成。の表裏一体、同時進行であったと思われたのだが、そこでは、何も言わなかった。
私の中で、二つが一つになることが、完成への道であると同時に、そのものの終わりであるのかもしれないが、まだ、その波のようなものが来ていないようでもあった。
目を閉じると、茅の残像がまぶたに鈍く蠢いている。
私の中に、刈られる前の茅の波が風にあおられて、いつまでも、生え渡り、永遠に、たなびいているようであった。
眠れないまま、次の朝がきた。
窓のそばにいるはずのない、茶色いものが畳に置いてあった。
よく見ると羽があった。
季節外れのセミの亡骸かと思われたが。
それは、じっとしている、生きているか死んでいるかもわからない、昨日まではそこにいなかった、茶色い「蛾」であった。