明鏡   

鏡のごとく

「誕生日から」

2017-02-06 23:04:17 | 詩小説
彼女の誕生日から始まったのは、時空のずれ、あるいは時空のつながりであった。

彼女の日記には一月二十五日が彼女の誕生日だということが書いてあった。

私は彼女の誕生日から、始まったある行為について、彼女の影響を受けているように感じた。

彼女の日記の中をたどって生きているようにさえ思えたのだ。

最初は、彼女よりも年寄りであったのが、いつの間にか、彼女は私を追い越して50歳になっていた。

彼女と私が同じ年の時、私たちは、同期した。もしくは、リンクした。あるいはシンクロした。

彼女は、最初は蛾を描こうとし、のちに昼間の波として描いた。

私は夜にうごめいた後の朝の一匹の蛾を見ていた。

これは、時空はずれてはいるが、ある年月を過ごした時が同じである場合、リンクする、あるいはシンクロするということを意味していた。


いわゆる、星座や十二支など、時が巡ることを意識的にも、無意識的にも知っているものたちにとって、繰り返されながらも、少しずつ、立場も時もずれては行くものの、大きな流れにおいては、同等のこととして、感知される類のものとして、認識されていく。

その場合、「日記」とは、貴重なそのもののたどった歳月の記録となるのである。

私たちの「日記」は、おそらく、どこかで交わっているが、どこかでずれていく。


時代が、場所が、時空が、人そのものが違っていたとしても、おそらくどこかでリンクし、シンクロしていくものだということに、薄々気づいてきたように思う。

同じ行為を続けるという、「書く」ことに収斂された熱を持つものとして。

彼女は、「詩」のような「小説」が書きたいと思っていた。

私もまた、同じように、思いながら、こうして日記の中の「詩小説」として、書き続けていた。


彼女の軌跡の最後まで、まだ、いきついていない私の軌跡ではあるが。

では、最後には、どうなるのか。

は、おそらく「書く」ことで見えてくるであろうとは思っている。





「統合失調症あるいは幻覚という病についての再考」

2017-02-06 16:57:06 | 詩小説
私は、精神医学に貢献するべく日夜研究にいそしんでいる一科学者に過ぎないものである。

ところで、先日、私があった男性について、この日記に、書き記しておこうと思う。

この事例を覆す、というより、「幻覚」とは一体なんであるのかということを、今一度、再考する機会となったこととして。

彼は、私の真っ白な研究室に訪ねてきた、壮年期の男性であった。

髪がなく、目だけが異様にギラギラと光っている男であった。

もちろん、私には、ある種の職業病的な守秘義務感があるにはあるが。

こうして、事例として、日記に書きつけておくことによって、いずれどこかの精神医学雑誌にでも寄稿することになるかもしれない事象、あまりに現実的でありながら、非現実な事象であることから、いわゆる、オカルティズムに傾倒するようなものにとっては、興味深い事例となるであろうが、荒唐無稽と思われる各々方もおられると思われ、まずは、私の見知った事実のみを、ここに書き記しておこうと思っている。

これは、私の中にしまっておくことができない事実となったことなのである。

彼は語っている間も、いたって平然としており、もしかして、私こそが、彼よりも何かが統合できていないのではなかろうかと、この日記を書きながら思う所存である。


彼は、精神病院の檻の中から抜け出してきたものであるという。

どうやって抜け出したか。

といえば、彼の代わりにその病室にいるもうひとりの自分がいるというのである。

白い壁から出てきたそのもうひとりの男は、その部屋にいた男を逆に壁に追いやり、男は以前、その精神病院に入っている患者から聞いた、私の話を思い出し、この状況をどう説明したらいいのかを、私に相談しにやってきたのだという。

未だに、分裂病といったりする人がいる精神疾患があるが、精神医学界において、こう言った荒唐無稽なことを言うクライアントを「統合失調症」の可能性が疑われる場合がある。

この「統合失調症」と言われる疾患の症状の定義として、「幻覚」が挙げられる。

幻覚と言っても、壁から龍が出てきたなどという「幻視」を見たと言った類のものや、いないはずの何ものかの声が聞こえる「幻聴」などというもの、あるいは幻触(覚)、幻味などもあるが、より「幻聴」の方が、症状が重症である傾向があるという論文もあるにはあるが、重複した方がより重度のものとなり得るのは言うまでもないであろう。

私は壁の中に押し込められたという目の前にいる男に聞いてみた。


あなたは、その壁をどうやって抜けてこの部屋に来たのですか。


当たり前な、あまりに当たり前な、素朴な疑問であった。


いつの間にか、ここにいたのです。


彼は、説明にならないことを言った。


精神病院において、電気ショックを受けていました。
脳に刺激を与えて、死刑囚が死んでしまう手前のようなショックを与えられ続けていたのです。
「拷問」のようでもありましたが、それは、精神病院においては、「治療」と言われておりました。
そうすることによって、毎日のように見る幻覚を見ないで済むようになると言われたのですが。
そんなことをしていても、皆には見えない、いるはずのないものが見えたり、いないはずのものの声がますます聞こえてくるようになったのです。

例えば、こんな風に。

以前、父が遊びに興じて興奮して倒れて泡を吹いた時。
自宅の部屋の中で父の姿を思い描いていました。
何かが起こったと思いましたら、その後、急に電話がけたたましく鳴りました。
父の意識がないという知らせを病院から聞いたのです。

ある時は、壁から、龍が現れました。
タツノオトシゴのような龍でしたが、確かに、龍なのでした。
よく西洋では悪魔の使いのような悪の象徴のように言われたりもしますが、東洋においては、水の神などと言われるほど、どちらかというと、善のイメージがあるものだと思いますが、自分の場合は、そのどちらでもなく、ただの生命そのもののような生きているものとして龍が壁から這い出してきたのです。



私は、精神病理的な見解として、典型的な症例であると思われたが、人にはできないことが、自分にはできると言った全能感のようなものを、時として患者は持つものであると、彼の話を聞きながら、そう思っていた。

しかし、彼はそれ以後も、何かと目の前にいないもののことが、どこからともなくふうっと思われて、気になっていると、その人の身に何かが起こっているということが、度々あったという。


ところで、先生。
あなたのことをふうっと思ったって言ったでしょ。
ここに来る前に。
それは、別に自分のためだけじゃないんですよ。
あなたに、もしかして、何かあるんじゃないかと思ってね。
こうして、会いに来たのです。


私は、そうはっきり聞いてから、何かが起こるのをどこかで待っているような気持ちになっていた。

彼のあのギラギラした目には、私にある種の暗示のような、催眠のような、幻覚のようなものを持たせる、何がしかの力があったのだった。

こうして、日記に書いている時でさえ、彼は彼が見たという壁から現れてきた龍のように、私の中に現れては消えていくのだから。