竹の葉のいささかしげりかぜおよぐ ひとはひとはのつながりしとき
奇妙な夢を見た。
船の夢。
空を浮遊している船の夢。
新聞のひらひら浮いた空には波はなかったが、遠い空の上をゆっくりとくじらのようにうかんでいったのだった。
空を舞う新聞記事の内容を読もうとしたが、斜め読みしかできない。
号外のようにも見えた。
それからしばらくして、船の事件がいくつかあった。
尖閣沖の中国船との攻防。白骨死体が乗って流れ着いた朝鮮語の書かれたちいさなボート。あるいは、先だっての韓国南西部沖で沈没した旅客船。
ありとあらゆる船が紙面の海を漂うて、海の底か、空の上かわからないところに辿り着くのだろうか。
記憶をかすめるように、紙面の海を無限に漂う記事のように、斜め読みされて、頭の上をただようばかりなのだろうか。
なにがおこっているのであろうか。
夢が空の上にあれば、現は海の下となり。
反転したこの世界は、うつしかがみのように、相対しながら、あくまでも澄んでいて、苦々しい絶叫や呪いの肉声を紙面の文字がかき消していた。
尖ったもので襲われた人の叫びは到底聴こえない。
白骨になるまでさまよっていた死体は無口だがそこで悶絶し、何の為に死ぬのか分からないと誰に聞こえるわけもなく海に叫んでいたのかもしれない。
船に待機しなさいと言われ、それに従ったものが、水に飲まれながら、指先で己の体を支えきれずに骨折するまで生きようとしていたのかもしれない。
浮かんでいるのが世界であるのか、沈んでいるのが世界であるのか。
むこうをみてもゆれているばかりではあるが。
どちらにしても、さまよっているのだ。
この世界のむこうとこちらを。
さまよえる船。
さまよえるオランダ人の話。
あの船長の話を思い出した。
永遠にこの荒波を超えると豪語したばかりに呪われて、永遠に船でさまようことになった船長の話を。
永遠の愛というものを誓う連れ合いがいないとこの呪いは消えないという。
永遠の愛というものを誓った女には恋人がいて、船長はそういうものはないとまた永遠の船旅に出た後、女が身を投げて死んだところで、船長の呪いが解けるということだったと思うが。
しからば、永遠の愛などというものは死によってしか、成し得ないということなのであろうかと思われたものであるが。
亡者は、しかし、永遠の愛と引き換えに死を選んだわけではなかった。
韓国の福音浸礼会「クウォン」派の信徒が多く乗船していたという。
船のオーナーが愛を説く、その新興宗教の牧師であったというものはまったくの偶然であろうが。
「クウォン」という言葉は、日本語でいうところの「久遠」を思い浮かべさせる。
「クウォン」の愛。久遠の愛。
響きが似ているだけかもしれないが。
韓国の人にいつか聞いてみたい。とは思う。
つまるところ、久遠と永遠の違いも、海と空の違い、現と夢のちがいでしかないのかも知れないが。
千年先まで呪うという言葉を放った女がいるとすれば、その言葉が、死を乗せて「久遠」の海を漂うことになろうとは思いも寄らないだろうが。
そこに愛は一欠片もない。浮かばれない死がただただよっているばかりである。
あまりに酷い呪いの言葉が反転して浮かばれそうにない、夢と現の理を思わずにはおれないのだった。