今日は久しぶりに新宿に行った。サテンで今日はここに何を書こうかと考えてはたと困った。書きたいことがたくさんありすぎて考えがまとまらない。
新宿へ行った目的の遊び、その場所。新宿の雑踏、途中立ち寄ったビルから見えた六本木ヒルズと東京タワー。どこの本屋か忘れてしまったが、本があふれかえっていたこと。工事中の新宿駅構内。
帰りの電車の中でいつものようにばくすいしたこと。となりの若い女性もばくすいして髪が触れあったこと。などなど。
サテンでは自分は非常につまらない本を読んでいた。
しかもその本は売れていた。つまらない本ほど売れるのは仕方ないとしても、なぜかそのことを読んでいる途中で解説を垣間見てしってしまい、反発を感じながらもかえってまじめに読まねばと思い、ついに読みきってしまった。
きっと無駄な本が売れて無駄な意見が幅をきかすのがこの世の中であり、そう思いながらもこの本を読んでいる自分自身も無駄なのだろうといつもながらに痛感したというのが、この本のフェミニスト本?の感想だ。
本を読むという行為はものすごく孤独な行為に思えるが、実は作者やそれを取り巻く人物やその支持者などとこうした対話なりバトルを行っているのではないだろうか。
今日訪れた本屋の一つの文庫本の棚に内田百の本があって、しかも最近出たものらしいことに驚いた。
(ちなみにこれが正確なのではないだろうか、よく分からないが、百の「」は文字変換ソフトのせいか何のせいか知らないが正確に出すのが難しいということだろうか、「間」で代用しているサイトが多いようだ。自分は誤字・脱字などが多いのだが、ほんとうに恥ずかしい。「情報リトラシー」というのは自分は「リトラシー」そのものあるいは「タイピングリトラシー」でないかと思ったりするが、実は文字変換ソフトの「リトラシー」というものを使い切れないところにも「リトラシー」の問題はあって、これはこれからの日本語を考える上で非常に重要な問題の一つだと思う。これは結局どれも同じことかもしれないが、いずれまたかんがえてみたい。話を元へ戻す?とそういう著名な文筆家の名前がPCで出しにくいにもかかわらず、文庫本でその著作が最近復活しているらしいのは一種の驚きであるということが言いたかった。も一つちなみに自分は漢字で書くべきところをしょっちゅうわざとひらがなで書いている。)
さて、話が脱線しすぎて、ここまでよんでくださった方には申し訳ないが、もう少しだけ脱線させていただくと先日何冊か本と雑誌をひろった。
束ねてあった本や雑誌の中にはわりと専門的なIT関連の本や雑誌も何冊かあった。捨てた人にはむずかしかっのであろう。それをひろった自分にももちろん難しい。
陸続と出版される本の中にはそれほど売れてなかった本が、まだ在庫もあるのに、ほとんどカバーを取りかえただけで新たに売り出され、それがなぜか売れているということもあるようだ。
自分は最近は本の山を見るのがいやになって本屋に行くのもいやになってしまったが、結論がでないものの、そういうことをいろいろ考えさせられた。
自分がサテンでよんだ本にはその作者は3年間で本を何百冊も読んだというようなことが書いてあった。
ほんとうだろうか。
自分は一生かかってそれぐらいだろうなと思った
24日1:53分追記:申し訳ございませんが、タイトルおよび内容の一部を修正しました。