お断り:このエントリーは誤って消してしまったので復活させたものです。もとは昨日アップしたものです。
自分にはこんなことはとても現実的な議論ではないと思われることが「現実味」を
帯びて主張されることがあっておどろかされることがある。
たとえば首都移転ということは今どれだけ論じられているか知らないが、かなり
多くの国会議員がこの問題に携わっていたのではないだろうか。
もっとも東京にこれだけいわゆるインテリジェンスビルや高層マンションが建って
しまったので、さすがにそういう議論も雲散霧消したであろうとは思うが、いずれ
にせよ自分にはもともと実現の可能性は低いものに思えた。
首都移転に関してはまたあらためて考えたいが、自分にはこれはとても実現は無理
だろうと思えるようなことがまじめに議論されるだけでなく、実現されそうなこと
もあって、裁判員制度というのがそれである。
なんともこの制度に関して不満を感じるのはこれが刑事裁判のみに適用されるよう
であることである。
自分は行政裁判にこそ適用されるべきものであって、行政を相手にするものであれ
ば、刑事・民事をとわず一定の割合で民間からの一定の基準を満たした裁判員が審
理に参加すべきだと思う。
「一定の基準」と言うと難しいが、今のままだと、選挙権さえあればだれでも裁判
員になる可能性があるのはどう見ても危険ではないだろうか。
自分は法律に無知であるが、そういう自分が裁判員になったら大変であろう。さら
に近所の危険すぎる人たち(わたしがそう思われてるのかもしれないが)がなった
ら、さらにまずいだろうと思う。よく考えてみると、近所に裁判員になるのにふさ
わしい人などいるだろうかとさえ思う。
一番まずいのは、たとえば「エッセイスト」の人の書いたものを読んでいると、こ
ういう人が裁判員になって大丈夫なのだろうかと思わせるものがたくさんあって、
皮肉なことに裁判員について論じている(ようである)「やりたくないな、と思う
人へ」と題された山口文憲の3月5日の朝日新聞夕刊に掲載された「エッセー」は
そのようなものの一つである。
まずこういう重要な問題に関して、死刑制度とからめて、まじめとも、おふざけと
もつかぬ(と自分には思える)文を書くこと自体、非常に恥ずべきことではないか。
自分は法律に詳しくないなりにまじめに考えているのだが、この人の書き方は裁判
員をやりたくない人は「刑の執行に加わる」ということを提案していて、非常に不
謹慎な書き方だと自分は思う。
この人は「死刑存置論者ではないので、裁判員のほうがまだましかな」などと書い
ているが、裁判員になることと、死刑執行に加わることの二者択一を迫る考えは一
体どういう考えに基づくのか、それとも、それをいちいち批判する人間にどういう
反応をするのか知らないが、この人は本当にまじめに考えてこの文章を書いている
のだろうか。
しかもこの人は「私は死刑存置論者ではない」としているが、「この国の死刑は
『密行主義』」などと書いているところを見るとまじめにこの国の死刑制度を批判
しているかのような部分もあるので、この文章全体をどのようにとればよいのか、
まじめに考えるとすれば非常に困ることになる。
自分の考えを率直に言ってしまえば、こういう文章は一種の思考放棄的文章であっ
て、それを読むものにもそれを進めているとしか思えないきわめてたちの悪い文章
に思える。
それならそうはっきり書けばいいものを、山口文憲は「裁判員と死刑執行人になる
のとどちらがいいだろう」などといった書き方で表現しているのでまじめにそう考
えて裁判員制度の方がいい、さらには裁判員制度はいい制度だとまで思う人もいる
のかも知れない。
山口文憲は実際に死刑に携わっている人の苦悩を少しでも考えたことがあるだろう
か。
自分は丸山健二の「夏の流れ」を読んだときなどにすこしは考えたつもりである。
また、大阪の小学校での大量の殺傷事件の被害者の遺族の気持ちを考えたことがあ
るだろうか。
文を書くというのはまずそういうことを考えることから始まるべきものではないだ
ろうか。
またそういうことに少しでも考えが及ぶなら、ああいう文章を書けるだろうか?
朝日新聞もあれを載せられるだろうか?
まったく自分には理解できない。一般大衆はああいう文でないと理解できないとで
も思っているのだろうか。
密行主義というが、日本では裁判は公開なのだし、刑の執行なら拘束時間も数十分
ですむ、というが、それほど日本では死刑が行われているわけではないはずだから、
刑の執行にはこれ以上、人手は入らないはずである。
とにかく自分には不愉快な山口文憲のエッセーだが、こういう文章に限って、まと
もな批判はしにくく、またそういう人ほど世間に影響力を持っているようなのが実
に悲しい。
自分にはこんなことはとても現実的な議論ではないと思われることが「現実味」を
帯びて主張されることがあっておどろかされることがある。
たとえば首都移転ということは今どれだけ論じられているか知らないが、かなり
多くの国会議員がこの問題に携わっていたのではないだろうか。
もっとも東京にこれだけいわゆるインテリジェンスビルや高層マンションが建って
しまったので、さすがにそういう議論も雲散霧消したであろうとは思うが、いずれ
にせよ自分にはもともと実現の可能性は低いものに思えた。
首都移転に関してはまたあらためて考えたいが、自分にはこれはとても実現は無理
だろうと思えるようなことがまじめに議論されるだけでなく、実現されそうなこと
もあって、裁判員制度というのがそれである。
なんともこの制度に関して不満を感じるのはこれが刑事裁判のみに適用されるよう
であることである。
自分は行政裁判にこそ適用されるべきものであって、行政を相手にするものであれ
ば、刑事・民事をとわず一定の割合で民間からの一定の基準を満たした裁判員が審
理に参加すべきだと思う。
「一定の基準」と言うと難しいが、今のままだと、選挙権さえあればだれでも裁判
員になる可能性があるのはどう見ても危険ではないだろうか。
自分は法律に無知であるが、そういう自分が裁判員になったら大変であろう。さら
に近所の危険すぎる人たち(わたしがそう思われてるのかもしれないが)がなった
ら、さらにまずいだろうと思う。よく考えてみると、近所に裁判員になるのにふさ
わしい人などいるだろうかとさえ思う。
一番まずいのは、たとえば「エッセイスト」の人の書いたものを読んでいると、こ
ういう人が裁判員になって大丈夫なのだろうかと思わせるものがたくさんあって、
皮肉なことに裁判員について論じている(ようである)「やりたくないな、と思う
人へ」と題された山口文憲の3月5日の朝日新聞夕刊に掲載された「エッセー」は
そのようなものの一つである。
まずこういう重要な問題に関して、死刑制度とからめて、まじめとも、おふざけと
もつかぬ(と自分には思える)文を書くこと自体、非常に恥ずべきことではないか。
自分は法律に詳しくないなりにまじめに考えているのだが、この人の書き方は裁判
員をやりたくない人は「刑の執行に加わる」ということを提案していて、非常に不
謹慎な書き方だと自分は思う。
この人は「死刑存置論者ではないので、裁判員のほうがまだましかな」などと書い
ているが、裁判員になることと、死刑執行に加わることの二者択一を迫る考えは一
体どういう考えに基づくのか、それとも、それをいちいち批判する人間にどういう
反応をするのか知らないが、この人は本当にまじめに考えてこの文章を書いている
のだろうか。
しかもこの人は「私は死刑存置論者ではない」としているが、「この国の死刑は
『密行主義』」などと書いているところを見るとまじめにこの国の死刑制度を批判
しているかのような部分もあるので、この文章全体をどのようにとればよいのか、
まじめに考えるとすれば非常に困ることになる。
自分の考えを率直に言ってしまえば、こういう文章は一種の思考放棄的文章であっ
て、それを読むものにもそれを進めているとしか思えないきわめてたちの悪い文章
に思える。
それならそうはっきり書けばいいものを、山口文憲は「裁判員と死刑執行人になる
のとどちらがいいだろう」などといった書き方で表現しているのでまじめにそう考
えて裁判員制度の方がいい、さらには裁判員制度はいい制度だとまで思う人もいる
のかも知れない。
山口文憲は実際に死刑に携わっている人の苦悩を少しでも考えたことがあるだろう
か。
自分は丸山健二の「夏の流れ」を読んだときなどにすこしは考えたつもりである。
また、大阪の小学校での大量の殺傷事件の被害者の遺族の気持ちを考えたことがあ
るだろうか。
文を書くというのはまずそういうことを考えることから始まるべきものではないだ
ろうか。
またそういうことに少しでも考えが及ぶなら、ああいう文章を書けるだろうか?
朝日新聞もあれを載せられるだろうか?
まったく自分には理解できない。一般大衆はああいう文でないと理解できないとで
も思っているのだろうか。
密行主義というが、日本では裁判は公開なのだし、刑の執行なら拘束時間も数十分
ですむ、というが、それほど日本では死刑が行われているわけではないはずだから、
刑の執行にはこれ以上、人手は入らないはずである。
とにかく自分には不愉快な山口文憲のエッセーだが、こういう文章に限って、まと
もな批判はしにくく、またそういう人ほど世間に影響力を持っているようなのが実
に悲しい。