この本にはいろんな意味で反発を感じた。まず全体で191ページあるのだが、文字が大きく読みやすいといえば読みやすいものの、どこかふやかして本を作ったという印象が否めない。
それはどういうことかといえば自分が読んでいる限りでは話が行きつ戻りつしている印象がある。
たとえば最初の場面は新宿にある「某レディスクリニック」(本書では実名)が舞台であるが、そこで切迫流産の話が出たかと思えば、すぐにその三ヶ月前の話しに戻り、四回目の当選と体外受精の話しがあらわれ、さらに国会議員の忙しさがつづられた後に切迫流産したと思われる場面になる。
少しややこしい話だと自分などは思うが、第2章で何とか入院の話しになるのでこのまま時系列にそって話しがすすむのかと思いきや、第3章ではいきなり婚約の話にまで話しは戻ってしまう。
自分としたらものすごい脱力感だが、こういう本を作るうえでのテクニックのようなものなのだろうか。
もちろん同じ話しが繰り返されるところはあるし、それどころか自分にいわせれば第一章は何のためにあったのか、まさか映画の予告編ではあるまいが、それにしても同じことを同じ本で同じように書くのは資源の無駄のように思ってしまう。
こうした点は差し置くとしても野田聖子のなかで、切迫流産に至った経緯を真摯に反省しているのかという疑問はぬぐいきれない。
たとえば「わたしのこどもは特別なんだ」という思いをもったらしいことは本書の中でいかにも反省しているかのような文脈で書かれてはいるが、やはり「自分が特別な存在である」という野田の気持ちは本書全編を通じて感じられることである。
本書の最後のほうで、「愚痴ったところで何が始まるわけでもありません」と言ってはいるものの、その直後に「どのドクターも国会議員の普通を知らないのです」というふうに書かれているので、愚痴どころか一種のおごりのように感じてしまう。
つまり自分は特別な人間である、普通の女性とは違うので医者はそこのところを理解せよということであろうか。
これでは医者もたまったものではないし、はっきりいいって話にならないのではないか。
たしかに女性の国会議員は特殊な職業かもしれないが、どんな職業でもそれなりに大変さが伴うし、子供を産むことはもちろんそれだけでと言うのもおかしいぐらい大変なことであろうと思う。
出産にあたって仕事をあきらめざるをえない女性も依然として多いのではないだろうか。
自分の仕事の大変さを医者が無理解できないので困るというようなことを書くのは非常に失礼ではないだろうか。
そもそも子どもを産もうとする場合、国会議員だからとかそういうことには関係なく気をつけねばならないことはあるはずだと思う。
野田は本書のいたるところで反省を示しているかに見えるが、最後まで自分の特権意識にこだわり続けているというのがわたしがこの本を読んだ感想である。