刈谷市歴史博物館に行く…
刈谷市歴史博物館では
土井利位の功績を紹介した
企画展「刈谷生まれの雪の殿さま土井利位」
土井利位さん、全く知らんなあ、と
歴史に疎い私ですが
まあ、企画展をやるくらいだから、刈谷では、ソコソコ、名の知れた方なんでしょう
私も、この機会、刈谷市民でもないのに
刈谷城の歴史をひもほ土井て
…もとい…ひもほどいて
土井利位さんについて、熱く語れるようになればいいかなと思って、行ってきました
だって、飲み会の席で、いつ土井利位さんの話題がでるか、想像つかないじゃん!
もし、知らないと、「その席どいて!」とハバにされるような、ひどい目にあう危険性も…
そう思うと土井利位さんを知らなくて、今後、生きていくのは、しんどいかなと思って???行ってきました!
いやあ、刈谷市歴史博物館に
何度きても思う
博物館とは思えない、この立派なハコモノ
まるで、超一流ホテルのロビーみたい!
さて、企画展「刈谷生まれの雪の殿さま土井利位」の展示室は、撮影NGだったので
最初に、撮影オッケーな
常設展示の
「刈谷城と歴代藩主」のコーナーから、土井さん関連の展示資料を紹介しましょうか…
刈谷城土井家の藩主一覧
土井家のことも
書かれてある
「三河宝鑑全」
土井利勝の母は徳川家康に仕えていた侍女
利勝の父は、水野信元説、土井利昌説とあるようだが、土井家の系譜では、利勝を徳川家康の子としているそうな
そんなことが記されている
「利勝公遺事」
「土井利勝書状」
「土井利勝画像」
「跡部山城守宛土井利位書状」
今回の企画展の中心人物の書状ですな
こちらは
「片桐主膳正宛土井利位書状」
土井家から家臣に下賜した
「黒漆内朱漆水車紋蒔絵膳揃」
同じく下賜した
「黒漆水車紋蒔絵行器」
「刈谷藩領図」
以上が常設展、土井家関連の展示物
ではでは、写真撮影不可でしたが
刈谷藩藩主の四男に生まれ、本家の古河藩を継いだ土井利位
の「企画展」の感想をだらだらと…
土井利位は、大坂城代の時に大塩平八郎の乱(1837年)を鎮圧し、幕府最高位の老中の筆頭を担う…
その一方で、古河藩の家臣と、オランダの書物を参考にしながらオランダ製の顕微鏡を用いて、雪の結晶を研究し、出版物「雪華(せっか)図説」に自らまとめたことから
「雪の殿様」の異名を持っているようで
簡単に述べると以上のようなプロフィールとなるけど、もう少し、詳しく述べると
刈谷藩主土井利徳の四男として生まれた土井利位は、25歳のときに、本家の古河藩主土井家に養子として迎えられ、その後、藩主となる
その後、幕府の要職を歴任
天保5年(1834年)には大坂城代として大塩平八郎の乱を鎮圧
1841年、老中首座水野忠邦による天保の改革が始まると、土井利位は、水野忠邦に協力して、改革に参与
しかし、水野忠邦が打ち出した、江戸、畿内周辺に対する上知令には、自らの所領が畿内周辺にあったため、反対し、反水野派の中心人物となる
その後、水野派の鳥居耀蔵の裏切りもあって、水野忠邦を辞任に追い込み、その後、老中首座となる
土井利位は幕府財政再建のため、水野時代から続いていた倹約令を継続し、百姓や旗本の生活苦を救済する策に尽力したそうな
ところが、1844年に、江戸城本丸に火災がおき、その資金集めを第12代将軍、徳川家慶に命じられるも、諸大名から、十分な献金を集めることができず、さらに、この頃、オランダ船をはじめとする外国問題の紛糾もあり、水野忠邦が老中首座に復帰するのにあわせて、水野忠邦の報復を怖れて、自ら老中を辞任したとのこと
一方で、日本で初めて、雪の結晶を顕微鏡で観察し、蘭学者の鷹見泉石の協力を得て、その成果を『雪華図説』および『続雪華図説』としてまとめ、雪の結晶を「雪華」と命名したそうな
そんな関連資料が、そんなに広くない展示室に
幕府の要職でありながら、雪の結晶に夢中!
意外といえば意外
さぞ、お仕事忙しかっただろうに…でも、仕事のストレス解消のために、雪の結晶に夢中になっていたのかも知れないな
それにしても、顕微鏡で、みようとするも、雪なんか、すぐにとけちゃいそうで、研究するのも、大変そうなんだけど
とけちゃいそうで、その秘密は、なかなか、とけない「雪華」にハマっていったのでしょうね!
雪華の謎をひもほどいて…
と、家でゴロゴロしながら、スマホで、このブログを綴っている私に家内が言った
掃除の邪魔だから、そこ、土井て!…汗