新・日記どす(DOS)

写真は「ビートルズ」のヘルプごっこ(笑)~音楽からB級スポット訪問記まで、幅広くいろんなことを…笑いをこめて…綴ります~

中山道…馬籠宿から妻籠宿までを歩いてみた…後篇

2025-02-16 00:24:08 | 歴史史跡

江戸時代の旅人気分になって

中山道、馬籠宿から妻籠宿までの峠越えの約8キロを歩いてみた

前回の続き…

後篇です…

「木曽路はすべて山の中である」

こうして、江戸時代の旅人気分になって歩いていると、突然舗装された街道と交わり…現代の気分に逆戻りさせられちゃう…馬籠宿から妻籠宿へのウォーキング

まるで、江戸時代と現代を交互にタイムスリップして行き来しているかのような…

さて、この舗装された道の真下には

旧中山道が原型のまま埋蔵保存されているようで…掘り出せば、江戸時代の旅人が落とした小銭がザックザックでてくるのかも??知れません…

だって、「埋蔵保存」なんて書かれてたら、そう妄想しちゃうでしょう??

街道沿いには

中山道と矢印を刻む自然石が

ちょいと、自動車の行き交う道を歩いて、またまた、この中山道と矢印を刻む自然石のある方向…

「木曽路はすべて山の中である」が実感できる江戸時代へとタイムスリップ

渓流沿いに中山道を歩く

山の中で、これをみつけると、ちょいとテンションのあがる、熊よけの鐘

と、ここで、江戸時代を実感できる中山道は通行止め…舗装された道を歩く迂回路の案内板が…

本来はこの先を進むようですが

 

…舗装された自動車の行き交う道をしばらく歩く

 

おお、案内看板が見えてきました…

男滝、女滝

なにが書かれていたのか、全く読めません…

が、この階段を降りていくと

宮本武蔵が修行した地とも云われている

吉川英冶の小説「宮本武蔵」では、ここではラブロマンスも…

宮本武蔵とお通が、この地で…出会い、武蔵がお通を抱きしめようとした時
お通に「そ、そんなことっ。あなたともあろう人が」と言われた場所である男滝、女滝

お通に断られ、失恋の想いを抑えるために滝に打たれてた

小説では「男垂の滝」になってましたね…

おお、滝がみえる!みえる!

こちらが男滝

男滝の滝つぼに近づいてみる…マイナスイオンの水しぶきが気持ちいい…ことはなくて…寒いほど…

夏にこれば最高だけど、ここにくるまでに、めちゃ汗を掻くだろうな…

 

滝の大きさがわかるように…

でも、どーせなら、男滝よりも女滝に近づいて、お触りした方がよかったかな…??

 

その右側に女滝

男滝からちょいと離れてて、近づくのが面倒だったから、遠くから眺めるだけ…まるで、手の届かない美女を遠くから眺めてるだけ…のような図

え、まだ妻籠宿まで3.2キロもあるの…12:47妻籠発バスの時間も気になってくる

庚申塚の石標

中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石碑

さらに歩くと、またまた、このウォーキングの楽しみな

熊よけの鈴…最初はクマが出るの??とビビッてましたが、だんだん慣れてきちゃいますね…

この鐘を鳴らせば大丈夫…みたいな…

だんだん里に近づいてきてるのが感じられて、ちょいと安心感をも誘います…

倉科祖霊社の祠

こちらの案内板は、もうほとんど読めませんが

こちらの案内解説板なら…

天正14年、松本城主小笠原貞慶の重臣、倉科七郎左衛門朝軌は、豊臣秀吉への献上品を運ぶ途中、この辺りで地元の土豪たちに襲われ、従者30余人とともに全滅させられたという伝説が伝わっていていて、この祠はその倉科の霊を鎮めるために祀ったものとのこと

江戸時代の道中は危険がいっぱい潜んでいたんですね…

当時、この鐘があったら、倉科七郎左衛門朝軌も山賊に襲われることもなかったかも…

 

古い江戸時代にタイムスリップしたかのような建物がいくつか立ち並ぶ

自然石の石標…

はい、私が小学校で教わった時は「中山道」じゃなくて「中仙道」でした…

なにか判読不能の石標

またまた現れた、クマよけの鐘…

打ち鳴らすと、気分まで晴れ渡るよう…

 

 

このあたりは「どうがめ沢」というようで、石碑があり脇に石畳の道が見える林に中をつづら折りで下っていく…

径も石畳で整備されていて

でも、これ、実はちょっと歩きにくい…足元をよくみないと、足首を捻挫しそうで、でも、スベッテ転倒する怖れはないかな

おお、大妻籠の街並みがみえる!

珍しい「牛頭観音」

「馬頭観音」にはよく出会うけど「牛頭観音」は、初めてみるかも…

 

牛の頭かどうか、もはやはっきりと分からないけど…

 

時の流れで、自然に還り、の頭をうしなったのかな…はい、このオヤジギャグを盛り込んでおきたかった…

 

つづら折りの下り坂…これ、逆方向、馬籠に歩いて向かうには大変かも

下り坂の一里塚

この辺に一里塚があったようで…

 

ここで、舗装された自動車の行き交う街道に出る…

この自動車の行き交う道に接してあるのが、要は自動車でも容易にアクセスできる

大妻籠の「庚申塚の一里塚」

 

 

中仙道庚申塚と刻まれています

道祖神と同じように道行く旅人の安全を祈願したものだそうで…

 

本卯建と出梁造りの民家が連なる小さな集落である大妻籠の街並み…

なんか、もう着いた気になってるけど、まだ、1.8キロもあるの…バスに間にあうのか…実にヤバい!ヤバい!!

 

 

もう、この辺は、クマは大丈夫…

ここは民宿…今も泊まれるみたい…

昔ながらの旅籠屋で今も営業中…

まるで、リアル民俗資料館

この狭い入り口から入るのかな…気になる!気になる!!

石置き屋根の水車小屋…水は枯れて動いてはいないけど…

自然石を使った道標には、大妻籠の文字が刻まれている…

自動車の行き交う道と交差する、大妻籠と看板がでかでかと…

まだまだ古い街並みは続く…

NANAYA(波奈屋)の

このサンタのタヌキはホンモノ…剥製に…ちょいとびっくり…まさかサンタに化けるなんて…

弘法大師さまは、ここにもきておられたのでしょうか

旅館金剛屋前にある「南無弘法大師之記念碑」
金剛屋初代が弘法大師を祭祠して信仰を深め、後に多くの信者達が浄財を集めて建立したもの

その常夜灯

弘法大師と刻まれています…

再度、江戸時代の中山道のような小径へと

蘭川のせせらぎが、より古な感じを醸し出してくれる…

この写真の上方にある丸いもの、何かなと思いきや

なにかと思ったら、ここに飛ばされてしまったのでしょう…崖に傘が絡まっている…江戸時代にはありえない、ちょいと残念な光景

ここからはまた山道なの…もう膝が大爆笑!

山道の真下を自動車の走れる舗装された道路が並行…

もう、ちょっと早くきたら、ここの紅葉は凄かったかも…

石仏…ひょっとして、馬頭観音…もしくは…牛頭観音

あと、1.2キロ…もう少しだー!!

急に元気になってきたような気がする…

石柱道標

大妻籠の集落を越えて、橋場集落に残る石柱道標…ここはかつて中山道と飯田道の追分(分岐点)だったようで…

のどかな道を歩いて…

自然石の道標のこの左側を進むと…

 

ついに、着いた「妻籠宿」の入り口…

この先を進むと妻籠宿なんだけど

以前、妻籠宿散策でここまで歩いたことがあって

そのブログも、お時間あったらどーぞ!どーぞ!!

中山道「妻籠宿」を散策する…

 

妻籠宿の中心に位置する桝形を見下ろす高台にある光徳寺を参拝する…

 

カメムシ??に気をつけながら…笑…「妻籠宿本陣」へ行く!

 

「南木曽町博物館」の中にある「歴史資料館」に行く!

 

妻籠宿にある「妻籠宿脇本陣奥谷」で、光り輝く男になる???

 

 

 

ここで、時間をみたら、下手したら12:47妻籠発、馬籠行のバスに乗り遅れちゃうかも

ここで、頭の切れる私は即座に判断…笑

妻籠宿のバス停まで、全力ダッシュするよりも、さっき通った駒場のバス停にゆっくり戻ることにしようと

ホントは妻籠宿で「栗きんとん」が食べたかったけれど…

ここで、この妻籠宿の入り口で引き返す…

 

 

紅葉を楽しみながら…

紅葉でお腹はふくれないけど…3時間半ほど歩きっぱなしで、時間も12時30分前…お腹もすいたけど

 

 

凄く紅葉を楽しんでる感があるけど、この紅葉スポットはほんのちょっと、後は乗り遅れんしように「橋場」のバス停まで一直線

おお、着いた…12時40分…約10分前に…

橋場のバス停

ここにて、12:50発のバスに乗る

峠を越える山道は思いの外、乗りがいがあって…

あ、ここ歩いた!歩いた!!と窓の外の景色を眺めてると楽し!楽し!!

あまり歩いている人、すれ違う人も少なかったようにみえたけど、バスに乗って眺めてると、意外と多くの人が歩いてるんですよ…

それに、何よりもこれだけ歩いたら、私のお腹廻りの緊急事態宣言も、かなり解消できたはず…

それにしてもお腹が空いた…すき過ぎた

 

バスで馬籠宿に戻ったら、即

 

食べてばかりじゃないか…

まあ、こんだけ歩いたから、今日のところは、私のお腹廻りも…増減はチャラでしょう…きっと…

 

「木曽路(しょくじ)はすべて腹の中である」

「夜明け前」ではなく、「おとこ前」の某ブロガーのこの名言で、長いブログ記事を〆ることにしよう???


中山道…馬籠宿から妻籠宿までを歩いてみた…前篇

2025-02-15 06:42:44 | 歴史史跡

江戸時代の旅人気分になって

中山道、馬籠宿から妻籠宿までの峠越えの約8キロを歩いてみたいと思った

そもそもは、

私のお腹廻りが発端ではありますが、いつぞや、新型コロナウイルス感染症が蔓延して、緊急事態宣言やマンボーなるものが発布されたときに、お国の言うとおりに、ステイホームなるカッコイイ??英語に騙されて、家に引き籠っていたら、特に休日なんぞは出かけずに、引き籠って「食っちゃ寝!食っちゃ寝!」してたら、あっという間に私のお腹廻りが「緊急事態宣言」で、お腹廻りが「マンボー」ならぬ「シボー(脂肪)」でいっぱいになっちゃったのよ!!

あれから、私のお腹廻りは、ずっと緊急事態宣言のまま…

 

で、とにかくウォーキングをしようと、ウォーキングをしようと…で、以前に妻籠宿に行ったときに、馬籠まで歩いてみたいなと…

計画では、馬籠宿から妻籠宿まで歩いて、朝9時ごろ出発して歩いて、1日3本しかない妻籠から馬籠までのバス(12:47妻籠発)に乗って馬籠宿まで戻ってこようと…

え、どうして、妻籠からじゃなくて、馬籠からなの?と思われた読者の方もいたかもしれないので説明しておくと

馬籠宿の方が妻籠宿より標高が高い(標高差約400m)ので、馬籠宿出発だと下り坂が多くなるだろうと…

さらには、妻籠宿は駐車場代500円かかるけど、馬籠宿は、無料なのよ!

 

…と江戸時代の貧乏旅人のように、けち臭い計算をしながら、馬籠宿を出発

 

馬籠宿の町並みを下方から上方まで散策して

蕎麦屋さんの坂を登って

右にあるのが、馬籠宿の高札場

馬籠宿の峠側の入口付近に設置されていたこの高札場

高札は幕府や藩で決定された法律や定め事の掲示板…

内容は江戸時代中期の毒薬やキリシタンの禁止、1770年に発令された徒党を組むことの禁止などの文面が再現されているよう…傷んで読みにくくなってるけど…

 

少し坂道を上ると陣馬上の展望台

ここは1584年、徳川家康と豊臣秀吉が戦った小牧・長久手の戦いの時、馬籠城を攻め落すために、徳川方の菅沼・保科・諏訪氏の軍が陣をとった場所…

 

馬籠城址どころか、恵那山が一望できちゃう…

島崎藤村の石碑

「心を起そうと思わば、まず 身を起こせ。ニーチェの言葉より」と刻まれています…

この石碑に刻まれた文章の解説は東屋に

 

島崎藤村の「夜明け前」の一節を記した看板

島崎藤村の父、島崎正樹が残した長歌、反歌が刻まれた石碑

その解説板

「木曽路はすべて山の中である」という有名な書き出しが実感できるこの眺望

いやあ、よくぞ、ここまで登ってきたもんだと、高いところに登りたがるバカである私は大満足

…って、これからまだまだ登るんですけど…

さあ、いよいよ馬籠峠越え開始…まずは石畳の道を進みます…

といきなり、ビビるこの看板…

「森のくまさん」がでるようで…白い貝殻の小さなイヤリングを拾って、ついてきたりしませんよね

クマはこわいよう…と思いつつも…なんか気分も高揚(こうよう)!もみじも紅葉(こうよう)

私は、妻籠宿までいこうよう

熊よけに、鈴を鳴らすものが設置されています…

ありがたやー!

全力で、大きな音を響かせます…

と思いきや…うわっ!クマが出たー!!!…正面に…と思いましたが…

よくみると、道標の石標でした…汗

ちょっとこの道標、黒くてクマに似てるんだよね…遠目だと…

 

クマが出た…??…ちゃいます!ちゃいます!寝不足でクマのできた私です…苦笑

もちろん、全力で大きな音を響かせて…

岩田沢川に架かる橋を渡った向こう側には、動いていない止まってる水車があって、ここは水車塚と呼ばれるところ

明治27年の大雨による沢の氾濫でここに住んでた蜂谷一家4人が亡くなったそうな…この時、蜂谷義一氏は長野師範学校在学中で難をのがれ、氏の依頼を受けて大正13年に島崎藤村が碑文を書いたとのこと…

案内看板と

水車塚の碑

ちょいと、ここで一休み!一休みって、早速休憩かい!!

ここからも続く続く上り坂…思いの外、勾配が急でキツイ!キツイ!

梨子ノ木坂を登る!登る!!

また熊がでるんかい!!

全力で、大きな音を響かせて

え??まだ、6.5キロもあるの…汗…愕然とする瞬間…

紅葉に癒しを感じて…妻籠宿まで行こうよー

目に留まった石碑は

十返舎一九狂歌碑

この碑は、1811年、十返舎一九が「続膝栗毛」執筆の折に中山道を旅し、馬籠峠を前にしてここにあった茶屋で栗おこわを食し詠んだ歌を記念して立てられたそうな

狂歌「渋皮の 剥けし女は 見えねども 栗のこはめし ここの名物」と刻まれているよう…

紅葉と一緒に…

妻籠宿まで、あと6.3キロ…と、またまた愕然とする瞬間…だってだって、もうずいぶん、上り坂を歩いた気がするのに…

さらに、ちょっと歩くと

峠之御頭領徳碑

牛方で生計を立てていた集落だが、1856年、中津川の問屋との間で運賃配分を巡った争いが起きて…
中津川の問屋と、峠からは牛行司の利三郎(今井仁兵衛)が話し合い、牛方側にが勝利した牛行司頭・今井仁兵衛を讃えて建立された碑だとのこと

この先は古い集落が続き、ひたすら上り坂

軒先の干し柿のこの光景が、昭和へといざなうかのよう…幼少の頃、よく見た光景…

この古い家屋は

今井家住宅…国の登録文化財

正面からはめちゃ趣があるけど、側面はそーでもない…昔の家は、そういう造りだったのでしょうね

そんな古い建物が…

ここは、もともとは民宿、その昔は旅籠だったよう…

今となっては、廃墟に…

さて、この集落の神社

野神社で参拝を…クマが出るから熊野神社ではありません!

実にかわいらしい石灯籠(とうろう)…その横をとおろう…汗

鳥居の前には立派な石灯籠が…もちろん、そこもとおろう!…汗

さらに、またまた石灯籠(常夜燈)が…

そこを…もう、ええっちゅうねん!!

横には神楽殿…もしくは休憩所…歴史を感じます…

そして拝殿へと…

手前には左右の阿吽の狛犬

狛犬は、なんだか、この神社の古い光景とは、なじんでおらず…新しめ

吽形の狛犬さん…表情が切なすぎる…

 

ご祭神さまは、熊野神呂伎櫛御氣野命 さま、伊弉諾命さま、 伊弉冉命さま…

熊に出会いませんようにと

二礼二拍手一礼

拝殿も新しめでしたね…

でも中には古い社が…

振り返っての眺望…

いやあ、空気の冷たさが凛とさせてくれますなあ

拝殿の横には境内社…御嶽神社の石碑

中山道沿いには…明治天皇峠御膳水の碑

枯れた紅葉の絨毯がセピア色感を増幅させてええ感じです…

さらに進むと、わざとらしく造られたこの標識…

縁起がめちゃよさそう…パチンコマニアにはたまらない…笑

 

熊よけの鐘を鳴らしてさらに進むと

と、ついに到着…上り坂の終着点…と思われる

馬籠峠に…

標高790メートル

自然石の大きな指差し道標「右旧中山道」

いやあ、妙な達成感…だって、膝は笑い出してたしね…ここまで、ホント急な上り坂だったので…

でも、まだ妻籠宿まで5.5キロもあるのね…汗

このマップを眺めながら、ちょいとため息

 

さて、ここからは、くねくねと曲がった急な下り坂…逆に妻籠宿から歩いてくると、ここはキツイだろうなと思えるほどの下り坂…

まさに島崎藤村の「夜明け前」の冒頭の世界観…

「木曾路はすべて山の中である」

もう、このあたりは江戸時代の旅人気分…

径を塞ぐような倒木も

おっと、ラッキーポイントまできました…

 

またまた「標高777メートル」

幸せのパワースポット

鐘を思い切り叩きながら

どーか、クマさんと出会いませんように!!

 

さらに進む「木曾路はすべて山の中…」

倒木…

小川沿いに中山道が…きっと江戸時代の旅人は、ここで水をのんだり、顔を洗ったりしたに違いない…

しばらく歩くと立場茶屋がありました…

そのそばに咲く寒桜…

立場茶屋

“いちこく御休処”看板の「一石栃立場茶屋跡」の牧野家住宅

江戸中期の建物のようで

往時は7軒ほどの家があって栄えていたそう…今では牧野家住宅一軒のみ…

中に入って休憩できるよう…

ホントはゆっくりゆっくり休みたかったけど、妻籠発12:47のバスに乗れるかどーか気になったので、ご挨拶だけして、先に進む…

ボランティアの方が温かそうな方で、話が長くなったら、バスに乗り過ごしちゃう…そう思って

建物の中はリアル民俗資料館の様相

外国人と思われる方が、お茶をすすっておられました…

昭和っぽいミシンが懐かしい…

一石栃白木改番所跡

明治2年まで、木曽五木(ひのき・さわら・あすなろ・こうやまき・ねずこ)をはじめとする伐採禁止木の出荷統制を行っていた場所の跡

当時は無断で木曽の木を持ち出すと「木一本首一つ」といわれるほど罰則が厳しかったようで…

さらに、ここのそば、ちょいと中山道から逸れたところにあるのが

一石栃子安観音

これがその観音堂

 

安産祈願の観音さま

この子安観音さまのおかげで、昔からこの付近に住むものは難産しないといわれているとか…

安産の神様らしく観音様の左下には

男性のアレが3本も…

観音様も、よーくみると、なんか、観音様のようなお姿ではないような

今では、車で走れる街道がそばにあって、別にそんなに歩かなくても、ここに参拝しにこれるけど、昔、車がない時代には、大きなおなかを抱えて、ここまで、峠をこえて、参拝しにきたのであろうか…激しい運動で、切迫早産、切迫流産になってしまう危険性も…なんて、杞憂している私

ここの手前には「一石栃の枝垂桜」

1868年・1904年の大蛇抜けにも耐えてきた古木だそうで、またこの桜の咲く季節に再訪したいものだ…

さて、中山道に戻って、あと4.7キロ、まだまだここまで歩いてきた距離より、妻籠宿は遠いことに驚きながら

でも道はほぼほぼ平坦か、下り坂…

歩きやすいし、膝も笑わない…

「木曽路はすべて山の中である」

まさにこの辺りは、江戸時代の旅人気分

このコンクリートあとはなんだろう…営林署管轄のゲートとかがあったのでしょうか…

「木曽路はすべて山の中である」

まさに、世界観ですから、クマもそりゃあ出るでしょう…

ということで、またまた熊よけの鐘が

けっこう、この鐘を鳴らすのが楽しかったりする…笑

しばらく歩くと

御神木のような古木に遭遇

「さわら」の大樹

大きさは「風呂桶が300できるくらい」…うーん、喩えがピンとこないけど、とにかく巨木!巨木!!

さわら」だから、さわらないで…といったオヤジギャグをかましつつ…

「さわらない」??「さわら」が「ない」んじゃなくて、「さわら」があるんだから「さわってみる」

おお、この御神木のような「さわら」からパワーがいただけたような気がする

この「さわら」の巨木は

かもいぎ(神居木)と呼ばれていて

昔から山の神(または天狗)が、腰をかけて休む場所であると信じられていたそうな…
この木のように両方に枝の出た木を、両神居というんだって
それにしても、この木を傷つけたり、切ったりすると祟られるんだって…

よかった「さわり」に行くとき、足元に蹴躓いて、傷つけたりすることがなくて…

その奥にも、もう神様が棲みついているといっても過言じゃないような古木が…もう、もののけ姫に出てきそうな世界観

リアルジブリパークがここにある??

合体木

おお、根元から合体してる!してる!!

こうして、山の中を徒歩とほとほと…

渓流のせせらぎが心地よい…

 

…と、ここで長くなっているので、たぶん、私が歩き疲れたように、読者のみなさんも読み疲れていると思うので、続きは次回に…


中山道、馬籠宿を散策する…

2025-02-14 06:09:33 | 歴史史跡

江戸時代を中心に「中山道六十九次」の四十三番目の宿場町として栄えた

「馬籠宿」を散策する

ここも妻籠宿と同様、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような古い町並みが続いているように見えるけど…明治28年(1895)と大正4年(1915)の馬籠大火災により、古い町並みは石畳と枡形以外すべて消失しており、妻籠宿とは異なり伝統的建造物保存地区には指定されてないらしいんだな…

でも、宿場町の観光地として妻籠宿よりも活気があるような気がする…

といっても、私がここ馬籠宿のそば、無料駐車場に停めたのは、午前8時半ごろ、まだ立ち並ぶお店の営業時間前…ということもあり、人はほとんど歩いていません!

そうそう、馬籠宿は観光地なのに、駐車場は無料…実に素晴らしい!!

この馬籠宿、山あいの宿場町なので、ちょっと珍しく、宿場町なのに平坦な道がないのよ…ずっと、ずっと妻籠宿の方に向かって上り坂

馬籠宿の案内図…

これをスマホに撮影して、これをみながら、観光スポットをチェックしながら、坂を登る…

訪問したのは11月下旬、名古屋の市街地では紅葉の真っ盛りですが、正面の紅葉はかなり散ってて…この正面の紅葉にうわっーと感動したいのなら、11月中旬に遊びにくるのがベストかな…

雰囲気のある馬籠の宿場町と桝形の案内看板

馬籠宿入り口付近にある「桝形」は、城郭の桝形を模したもの…

江戸初期に作られた宿場は要塞の役割もあり、敵の侵入を防ぐ目的で極端にクランクのように道が曲がっているんだな

ほぼほぼ直角に曲がるところには、大きな水車小屋が…

ここ、馬籠宿とググれば、ここの写真が出てくるほどのフォトスポット…でも午前9時前の時間なので誰もいないので、写真の枠に人が入らず、写真を撮り放題!

 

「桝形」の曲がるポイントには常夜燈

さてさて、誰もいない馬籠宿の坂を登る

江戸時代を旅してるような気分にさせてくれますなあ

右側に見える建物が

清水屋資料館

この地の宿役人を代々務めた清水屋…

島崎藤村の作品「嵐」に登場する森さんのモデルになったのがここの8代目当主・原一平とのことらしいんだけど、「嵐」はジャニーズしか知らない私…汗…読んだことございません!それどころか、「嵐」という作品があったことさえ、知らなかった私…

もちろん、朝早く…なので閉まっています…

川上屋

創業元治元年老舗…栗きんとんだ!…中津川の市街地にいかなくても、ここで買えちゃうのね!

 

槌馬屋資料館

古民家田舎造りで、囲炉裏部屋があったりその脇には、駄菓子があったり郷土料理の五平もちを食べたりできるお店の営業の奥の2階には 島崎藤村の父 島崎正樹(夜明け前主人公 青山半蔵のモデル)に関する資料を中心に、 正樹自筆の掛け軸、書を始め、当時の歴史的資料が展示されているとか…

もちろん、朝早いので営業時間外…通り過ぎただけ…

 

馬籠郵便局のお隣りの馬籠茶屋…その前にも水車が廻る!!

街道沿いの紅葉には、光に吸い寄せられる虫のように…

馬籠郵便局も、街並みに溶け込んだウッディな感じで…

 

藤村記念館…このときは通り過ぎただけだけど、帰路で寄ったので、そのブログもお時間あったらどーぞ!

馬籠本陣跡地に建立されている「藤村記念館」に行く!

 

空気が凛として、実に清々しい…

ひたすら上り坂です…

またまた水車を発見…水車はだんだんと小さくなっていく感じ

右側のお店の前には、尋常でない大きさの鯉が泳いでいました…

 

灯籠の下にいるカエルの置物が、いい味出してるよね…来たばかりで、まだカエリませんケロ(けど)

さてさて、馬籠宿はここまで…

旧中山道の道標の脇に建つ建物は蕎麦屋さんである

恵盛庵さん

もちろん準備中…

この後は、江戸時代の旅人のように、妻籠宿まで歩いて…

その後は、約4時間後に、江戸時代の旅人ではありえない、妻籠宿からここまでバスで戻ってくるという…

さてさて、その後は、妻籠宿まで約3時間、歩きっぱなし…

バスに揺られて、馬籠宿まで戻って

お腹が空いた…とことんお腹が空いてるってことで、早速立ち寄ったのが

「中井筒屋」という蕎麦屋さん

すんき蕎麦…よくわからないけど「冬季限定メニュー」の言葉に躍らされる…

私…「限定」という言葉に弱いのよ!「限定」という言葉があると、飛びつく傾向にあるのよ…なんか、頼まないと…もったいない気がして

 

「すんき」とはカブ菜を乳酸菌発酵させた木曽地方独特の食品のことで、木曽の厳しい寒さの中で作られるため11月下旬から2月下旬ころまでの冬季限定メニューになるんだって…だったら、もう味はよくわからないけど「すんき蕎麦」食べてみたいぞー

店内はこんな感じ…

あ、誰もいないように思われるけど、私が入った時は行列ができるほど、賑わっていました…蕎麦だから、食べると、即、店を出るので回転が速いようで…まあ、馬籠宿、観て廻るところがいっぱいあるしね

なので…私の行った土曜日も、間違いなく

この招き猫効果か??

でした…笑

 

さて「すんき蕎麦」

体が温ったまって、「すんき」がたっぷりで「げんき」が出てくる!

最初、野沢菜かな…なんて思ってましたが…絡み合う赤カブ…

赤カブは白いけれども

でも食べてみて大満足!

蕎麦つゆの出汁の美味さと、そばの旨味、すんき漬けの酸味と旨味が絶妙に絡み合って…「すんき」??もとい「ほんき(本気)」のおいしさ

すんき蕎麦」ならぬ「にんき蕎麦」と読み間違いたいほどの味…

「すんき蕎麦」当たりでした!!…ああ、木曽の味って感じ…

 

さて、満腹になったところで、山腹を下る!

防火貯水槽には金魚…鯉かもしれないけど…

 

さてさて、山腹で満腹なんだけど…

藤村生家の本陣の隣、

 

「大黒屋」へ…

 

庭にあるのはフクロウの置物

ふー、苦労しながら馬籠から妻籠まで、歩いたんだよね

さて、この「大黒屋」は、島崎藤村の初恋の人「おゆう」(妻籠の脇本陣の林家に嫁いだ方)さんの生家であるらしく

街道時代は造り酒屋を営んでいたこの「大黒屋」は島崎藤村の小説「夜明け前」では「伏見屋」として登場していて、ここの名物「栗おこわ」も登場??しているらしい

小説「夜明け前」は、私、読もうと思ってはうたた寝…ほんの最初の数ページで読むのを諦めた若かりし頃の記憶が…

だから「伏見屋」の記憶はないけど

さてさて、私、山腹満腹なんだけど…山腹満腹なんだけど…山腹満腹なんだけど…

峠越え、木曽の山の中を8キロも歩いたせいか、甘味を身体が欲しがるのよ…

店内は、天井が高い…

本陣と引けを取らない程立派な建物

 

民芸品のショップと

私、ここで島崎藤村が惚れた「おゆう」さんのように、ここで「初恋」??しちゃったんだな…

まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の花ある君と思ひけり~

一目惚れして、買っちゃいました…笑

 

でも、「初恋」以上に甘味に誘われて

ここは、栗ぜんざいを…

 

 

いやあ、幸せでした…「ぜんざい」の味に「ばんざい」したいほど…

栗がゴロゴロ、栗がゴロゴロ…

くり」だけに、ゆっくり…ゆっくり、しっくりくる絶妙な甘さの加減に舌鼓しながら、じっくり、じっくり味わいました…

帰りは下り坂

おお、恵那山がみえる!

そして駐車場まで一直線…

それにしても、なんか、馬籠宿では、食べてばかりいたじゃないか!!

中山道(なかせんどう)では、空腹でお腹を鳴かせんどー(なかせんどー)

お後がよろしいようで…

 


馬籠本陣跡地に建立されている「藤村記念館」に行く!

2025-02-13 05:46:42 | 歴史史跡

馬籠にある「藤村記念館」に行く

ここは馬籠宿の「本陣」だった場所でもあり、島崎藤村の生誕地でもある…

復元されている冠木門が、ただの文学者の記念館のみならず、本陣だったらしい江戸時代の風を感じさせてくれる…

冠木門の横には島崎藤村宅と示されている

さらには明治天皇停蹕之蹟

1880年6月28日、明治天皇はここ馬籠宿本陣島崎秀雄宅で休憩されたとのこと…

 

黒く塗られた冠木門(かぶきもん)を入ると 目隠しの小さな障壁があって、ここで、入場ブースでチケットを購入し、右手に折れると、記念堂の入り口
 
老木である「うめ」…なんかこの地を護るおばあちゃんのように思えてきますなあ…
 
 

本陣のほとんどは「馬籠の大火」で消失

さすがに「本陣」の建物は復元されず…庭のよーに広々としてます

ここに本陣の建物があって、奥の紅葉してる樹木の手前に「上段の間」があったようです

本陣があった空き地の北側に建つのが「藤村記念堂」

設計は谷口吉郎博士…奈良朝様式の建物

 

谷口氏は本陣跡に建物を計画せず、本陣の礎石、土蔵跡を中庭とし、江戸時代を偲ぶ空間としたとのこと

 

「藤村記念堂」…ここには、江戸時代の本陣に関する展示、島崎家に関する展示品が…

建物内部は、土間で天井が低くて造り付けの木の腰掛から本陣だった場所の空間をも眺めることができます…

ただ、館内の作品は全て撮影禁止

なので、写真は建物だけ

この土間のような通路の正面には

明治28年の大火でほとんどが消失してしまいました…で、唯一残ったのが、この祖父母の隠居所…

本陣隠居所

この2階で、島崎藤村も勉強したらしい

上がって内部を覗くことができず…外庭から眺めるだけ…島崎藤村の作品「夜明け前」にも登場する建物だそうな

 

建物だそうな…と言ったのは、私、国語の教員でありながら…「夜明け前」を読んだことはなくて…

“木曽路はすべて山の中である”…で始まる「夜明け前」…確か、大学生の頃に読もうと思ったことはあるけど、読みだしたら眠くなる…また、読みだしたら眠くなる…なんか、小説なのに理解するのが難しかったし、その世界観がピンと、こなかったのよ…

もう一つの作品、穢多(えた)という身分の生まれで、部落差別問題が取り扱われた「破戒」は恋愛なども描かれていて、読みやすかったので読破したけど、「夜明け前」は途中で読むのを止めちゃった思い出が…

だから、ここまでの私の人生、ずっと「夜明け前」なのかな??

本陣土蔵跡

 

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
 
と島崎藤村が詠った「林檎」を思わせるほどの、真っ赤な楓でした…

本陣隠居所と連なる1階の部屋、その手前にはこれまた焼け残った井戸…

その1階のスペースでは、島崎藤村の生い立ち等のVTRが視聴できます…

ただ、ズーとみてるのは時間が長すぎる…1本のVTRが長いのよ!!

「夜明け前」を途中で読むのを止めちゃったように、このVTRを観るのも途中でやめちゃった…

だから、ここまでの私の人生、ずっと「夜明け前」なのかな??

 

さてさて、この建物群の中では新しさを感じる

「第二文庫」

この漫画を、温浴施設で読もうと思ったことがあります…太宰治とかもでてきて、今の若い人は、これで文豪を知ったりするのかも知れませんね…ゲームにもなっているようで…

私もこの「文豪とアルケミスト」のコミックが温浴施設で目に留まって、読もうとしましたが、入浴後ってことで、睡魔に襲われて

「夜明け前」を途中で読むのを止めちゃったように…今度、温浴施設でぐーたらしてるときに再チャレンジしようっと、1巻の途中から…

さてさて、「第二文庫」の館内も撮影禁止でございました…

ところどころ、島崎藤村の作品の案内板が御覧のように掲げられていますが…その作品を全然知らない私

ほんとう、そん(損)してるよね…とうそん(藤村)だけにね

 

まるで城跡や寺院のように石段を降りて

そこにあるのが

常設展示館

館内の展示品はもちろん撮影禁止

常設展示室では処女詩集「若菜集」「破戒」「夜明け前」から、昭和18年8月22日、その死で未完の作品になった「東方の門」までを年代順に展示

また島崎藤村が晩年を過ごし、「東方の門」の執筆途中に他界した終焉の地、神奈川県大磯にあった書斎も復元されていました…

 

原稿もたくさん展示…島崎藤村ファン…もしくは間宮祥太朗さんファンにはたまらない空間…

間宮祥太朗さんファン??

だって、この映画が…

 

 

みなさんが、もし、これから藤村記念館に足を延ばそうと思っておられるなら

「夜明け前」は読んでから行ったほうがいい…

みないと私のように…ふーん…と眺めて通り過ぎるだけで

ほんとう(本当)、そん(損)しますよ…とうそん(藤村)だけにね…

「夜明け前」ならぬ「おとこ前」の私が言うんだから間違いない!

 

えっ、どこが「おとこ前」かって??聞き直さないでおくれよ!

「ふかい(不快)」になるから??

 

はい、そこは「ふかい(不快)」ならぬ「はかい(破戒)」でボケておかないと…苦笑

 

「おとこ前」は間宮祥太朗さんのことだということで

 

私も、死ぬまでには、なんとか「夜明け前」を読破して、「はかい(破戒)」ならぬ「きかい(機会)」があったら、また藤村記念館に再訪することにしようっと

「はかい(破戒)」ならぬ「たかい(他界)」するまでにはね…苦笑


馬籠宿の脇本陣跡…馬籠脇本陣史料館に立ち寄る…

2025-02-12 05:33:11 | 歴史史跡

馬籠脇本陣史料館に立ち寄る…

今は史料館がこうして建立されているけど、この場所は、もともとは木曽路の最南端の宿場町、馬籠宿の脇本陣だったのよ!

屋号は「八幡屋」

「脇本陣八幡屋」であった蜂谷家は、島崎藤村の晩年の代表作「夜明け前」に桝田屋の名で描かれていて、造り酒屋でもあり、馬籠宿の年寄役も兼ねた名家だったよう…

明治3年の太政官布告で本陣、脇本陣の制度が廃止…

さらに、この建物が明治28年の馬籠宿の大火で焼失してしまったらしいのよ…

その際に、残った八幡屋蜂谷家に伝わる古文書や、街道時代の馬籠を偲ぶ資料が主に展示されているんだな…

馬籠の宿場町街道沿いには

詩人・山口誓子の句碑

「荷道の 坂に熟柿 灯を灯す」

「せいこ」と読んではいけません!「赤いスイトピー」じゃないんです…「せいし」と読むようで、男性です!男性だから「せいし(精子)」…という訳ではありませんよ!

誓子は生前馬籠をこよなく愛し、しばしば奥さんと馬籠を来訪し多くの作品を発表したそうな

その奥には鬼にさせられ、竹を咥えてる「ねずこ」が…

 

いや、鬼は(おにわ)いませんが、お庭(おにわ)には、ねずこを始めとした「木曽の五木」が

…これぞ…ゴレンジャーならぬ五林(ゴリン)ジャー??

こうやまき…ふとお亡くなりになった野村麻紀さんのことを思い出した…

そのブログもお時間あれば…全然、馬籠となんの関係もないけど

哀悼…2020秋…得三にて「“必殺!今池乙女カタログ”」…野村麻紀さん!

さわら…この木にさわらないで…と小学生レベルのオヤジギャグ

ひのき

「ヤングマン」「傷だらけのローラ」??…それは、ひでき(秀樹)

あすなろ

中学生の時、読んだ少女漫画、里中満智子の「あすなろ物語」

これが泣けたのよ!!ああ、あの頃はピュアだった…

以上が、

ゴレンジャーならぬ五林(ゴリン)ジャー??

私には、違いがよく分かりません!みんなミドレンジャー??に見えました!

この五種類の木を伐採することを禁じ「木一本首一つ、枝を落とせば腕を斬る」と言われ、掟を破るものは死罪だったそうな
 
 

ここから先は、有料…

でもお得な情報を、JAFカード提示で割引だよー!!

「本陣と脇本陣」と遊び心のない正攻法な説明パネル

「木曽の山林」の解説パネル

斧(おの)じゃなくて斧(よき)と読むとは、予期(よき)すらしてなかった

木曽山の木を伐るの図

なんでも、ノコギリは禁止だったようで

刃広斧

きそ(木曽)山の掟…守らない人はきそ(起訴)されるどころか、極刑…人の命よりも木々の方が大切だったのが伝わってくる…あまりにも「きそう天外」なこの掟

馬籠宿の大火の図…

馬籠宿の大火を逃れた仏像…

LEDでもないのに、ライトが眩しいって顔をしてますなあ

天狗像…老人になったピノキオではありません!

ちょっと、優しさが感じられる

 

掛け軸には不動明王

江戸時代のくらし…囲炉裏など道具の展示

「馬籠宿の大火」の教訓か、火事にならない炎でありました

さてさて、馬籠宿は観光客がいっぱい行き来してたのに、こういったハコモノではよく見かける光景…館内には誰もいません

一休和尚の書

この書とは関係ないけど、「この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし、踏み出せばその一歩が道となる、迷わずゆけよ、ゆけばわかる」…この名言は、アントニオ猪木の名言ではなく、一休和尚の名言…子供の頃、アニメでみた「一休さん」…めちゃ「音痴」で???あ、「おんち」じゃなくて「とんち」が効いてたんでしたね!!…あえて、下ネタでは、落とそうとしない私…「う〇ち」の方が大爆笑だったかも知れないけれどね…

脇本陣の画額…

「馬籠宿の大火」のとき、客人が命がけでこの額を護ったらしい

化粧とかいて「よそおい」と読むんですな

渡辺崋山の画

木曽代官・山村氏の解説パネル

その代官の書

この建物を絶賛して「蘇峰棲」と命名したそうな…それ以来、屋号の別名として「蘇峰棲」を使用しているんだって

円山応挙の画

特別展??なのかもしれないけど

「あかりの移りかわり」の展示品の数々

まずは「火」…火おこしの道具の数々

700年前は「アカシ」「あかり」を灯していたのが、遺跡から出てきた、それが、アカシ(証)だったようで

鎌倉時代の照明器具…短檠

 

菜種油のあかり

なたね(菜種)で灯りをともしたときは「なったね!(やったね!)」と喜んだに違いない??

ローソクのあかり

 

灯油のあかり…

とうゆで灯りが点くとゆうこと

 

ここからは、またまた民俗資料の数々の展示が

家紋入り野掛けの道具

江戸の旅の解説パネル…

1日約10里、40キロ…汗…

私なんか馬籠~妻籠まで約8キロ歩いただけでもひぃひぃふぅふぅ、言ってるのに…女子ですら、32キロ…江戸時代の旅人は凄すぎる!!

これが、当時の旅のガイドブック

江戸の旅の解説パネル…2

金について…ですな

定宿帳…宿泊ガイドブック…あるいは、楽天トラベル??のようなものでしょうか???

中山道マップ

スイッチを押すとランプが点灯する、昭和を感じるハイテクマシーン???

 

遠山家の重箱…重箱の隅をつつくと、織田信長の妹が妻だった…その妻は後に、武田勝頼の妻に…そんな妻らん??…もとい…つまらんエピソードのある遠山家の家紋が重箱の蓋に…

家紋付き陣笠と武士の正装である「かみしも」

江戸の旅の解説パネル…3

関所…「出女・入り鉄砲」ということで

女手形

と鉄砲

幕末の頃…「夜明け前」の主人公の青山半蔵の世界観ですな、ちなみに、主人公青山半蔵は島崎藤村の父親がモデル…

島崎藤村の父の名前は島崎正樹…

その父の書…ちなみに、島崎藤村の実家は、本陣だったところ、このハコモノのお隣りの敷地です…

香時計…蚊取り線香が時計の役割をしていたようなもの??

古制双六

私が、この盤をみたら、きっとコマをおはじきのようにはじいて、落としあい、生き残りゲームのようにルールを替えちゃってることでしょう??

写真がセピア色に焼けてて、昭和を感じさせる中山道木曽街道のマップ

 

さて、もう一つ展示室があって、

そこには、当時の脇本陣の上段の間を復元し、当時使用していた家財等が展示されている…

「上段の間」復元展示室

大爆笑の「じょうだん(冗談)の間」じゃありませんよ!!

位置、間取りなど忠実に再現されているらしい…

馬籠宿脇本陣の当主であった蜂谷源十郎が、三代にわたって宿場の重要な出来事を記録した

源十郎覚書

 

馬籠宿脇本陣「八幡屋」の解説パネル

木曽は武田軍の配下になった、その頃の鎧

「上段の間」におかれていた、鹿角の刀掛け

蒔絵の脇息

陣笠と陣羽織

「上段の間」の外にでると、玄武石垣が…

上段の間の防御のために造られた玄武石垣

坪庭の土台となっている玄武石垣は、1753年築造…脇本陣建築の際、亀甲形の石を積み上げたもので、ここに玄武神を迎えて北の守りとしたので「玄武石垣」と呼ばれているとのこと…

「玄武石垣」は階段を降りて、裏庭に

坪庭には、石灯籠

ちょっとした日本庭園…ふう

石積みされず、放置されていた石ころが一つ展示されていて

 

そこに解説板

そして、これが「玄武石垣」

 

 

亀甲みたいだけど…これ、げんぶ??もとい、ぜんぶ石垣なんだな

背中にしょってな…それ、げんぶじゃなくて、「おんぶ

海の中で漂って…それ、げんぶじゃなくて、「こんぶ

玄武石垣がみれて、私は、よろこんぶ

これをみて「げんぶ」…もとい「げんき」でた!!

お後がよろしいようで…

 


名鉄の「みたけ・可児散策きっぷ」を使って、御嶽宿からの中山道を散策する

2025-02-04 05:40:55 | 歴史史跡

名鉄の企画切符「みたけ・可児散策きっぷ」

名鉄各駅から御嵩駅までの往復割引乗車券プラス6店舗中1店舗から選んで使える「選べるプレゼント券」、指定店舗をご利用の際に、様々な特典・割引が受けられる「何度でも使える特典・割引チケット」がセットになったお得な切符のこと…

 

実は過去に一度、この切符を使って日帰り旅を楽しんだことがあるんだ…

 

そのブログをリンクして貼っておきますので、旅の参考??にぜひぜひ!!

名鉄「みたけ・可児散策きっぷ」を利用して、日帰り旅…の巻…

 

で、そのリーフレット(パンフ)をみると

今回のテーマは【中山道】

御嶽宿から細久手宿へ向かう…旧中山道の散策コースが載っているのよ!!

 

このオネーサンとすれ違う…なんてことは思ってもないけど、古の風、歴史のロマンを感じながら、歩いて歩いて、ウォーキングして、お腹廻りが緊急事態宣言になったままで解除できない…この脂肪を少しでも取り除くことができるんじゃないかと思って…

 

新可児駅で乗り換えて

 

名鉄広見線、終着駅御嵩駅で降りる…

 

御嵩駅については、こちらのブログもどーぞ…

 

悲しい女の吹きだまり…???名鉄広見線の「終着駅」…御嵩駅に行く!

この御嵩駅で早速、指定6店舗のうち1店舗で利用できる「選べるプレゼント券」で

 レンタサイクル(御嵩町観光案内所):電動アシスト自転車のレンタル2時間超の利用、通常500円を200円で提供とあったので、200円で電動アシスト自転車を借りて、早速出発

国道21号線沿いにある「和泉式部廟所」に立ち寄った後には

詳しくはこちらのブログをどーぞ……

和泉式部を訪ねて???中山道御嶽宿近く…和泉式部廟所で合掌する!!

 

上ノ郷公民館へ自転車を置いて(パンフにそう記されていたから)

 

ここからは旧中山道をウォーキング…

 

と、その前に、上ノ郷公民館の近くにあった「中切古墳」に立ち寄って

詳しくはこちらのブログをどーぞ……

放置されてる古墳に大コーフン…御嵩町にある中切古墳に行く!

 

 

さて、徒歩とほとほ、中山道へ…

 

 

私以外、誰一人、歩いている人を見かけません

そんな中、最初に目に留まったのが

西洞の馬頭観音像

…が、ここに…

 

実に手作りの小さな案内看板が…

馬頭観音像はこの案内板の上

石仏で、馬なのかなんなのかわかりにくくなっていますが…

馬の守護神…江戸時代は、馬が交通手段…険しい山道では、多くの馬が疲労困憊で倒れたようで…その供養も込めての馬頭観音像かも知れないなあ…

でも、この西洞の馬頭観音像のあったところは、道も穏やか、里の田園風景の中でした…

進む途中…こんな石仏も見つけました…これも馬頭観音像ぽいような…

旅の安全を願ってか、こうした石仏が、街道沿いにありまして…

 

 

さらに、舗装された道を進むと

 

と、突然、舗装された道じゃなくなり、突然やってくる…急な坂道…

「牛の鼻欠け坂」と呼ばれる勾配が急すぎる上り坂…

「牛んぼ牛んぼどこで鼻欠いた、西洞の坂で鼻欠いた」という歌も残るこの坂は、荷を運ぶ牛や馬の鼻が坂で擦れて欠けてしまいそうなほど急な坂道であることから「牛の鼻欠け坂」と呼ばれていた勾配が急すぎる上り坂…

さっそく「ひぃひぃふぅふぅ」

鼻は欠かないけど、晩秋なのに汗はかく!!

でも、この落ち葉と、石積みが、なんだか江戸時代を旅してるような気にさせてくれるこの光景…

 

も嫌がってますなあ…引っ張ってもうまく…いきません!!

の鼻が坂で擦れて欠けてしまうというよりも、の鼻が坂で擦れて、うしなってしまった、の方がいいような…そう「うし」だけにね…

あ、しょーもないオヤジギャグでした…もうしわけありません!

 

振り返ると…転がったら加速していきそうな急な勾配…

一気に登った、こんな急な勾配を…

 

登り切ったところに、石室があって、その中に寒念仏供養塔 ( 三面六腎の馬頭観音像 ) がありました…フツーの念仏供養塔じゃなくて、寒念仏供養塔、この地方が寒いってこともあるだろうし、そもそも「寒念仏」とは、「一年でもっとも寒さの厳しい小寒から立春の前日までの30日間にわたり鉦をたたきながら声高く念仏を称え、仏堂・山内・墓地・街頭などを巡回し報恩感謝を表する念仏。念仏者の寒行ともいえる。」とのことで、厳寒だからこその功徳なんでしょう

 

登り切ったら枯れ葉の中、平坦な道、やや下り坂か…

さて、一般の舗装された自動車が通る道に出て、その道沿いに歩くと、左側にあるのが、耳神社

神社というが、小さな祠が岩山にひとつだけ

 

 

中山道沿いの岩山に建立された全国的にも珍しい耳の病にご利益があると伝えられている神社

病が治った後の参詣時には、年の数の錐(きり)を簾(すだれ)のように編んで奉納するんだそうな…

その昔、耳が聞こえなくなってしまった大工がこの神社に耳を治してほしいと参拝したところ、たちまち治ったことから耳神様と呼ばれ、現在では耳神社と呼ばれるようになったとのこと



耳が治った大工は神様へのお礼の供物を捧げようと考え、耳が治った(耳のつかえが取れた)ことにちなんで大工道具の錐をお供えしたんだって

それから年の数の錐を簾のように編んで奉納するようになったんだって

 

リアル私も、耳の聞こえが…いや…これ案外悪口も聴こえてこないので、都合がいいかも…と思いつつも

これ以上、耳の聴こえも悪くなると困るので、ここにて二礼二拍手一礼

錐と簾がかかってる…

石段が急なので、降りるとき注意が必要…

足元を踏み外したら、イヤー、たいへんなことに…(はい、みみ神社だけにね…)

 

 

しばらく、フツーに車がぶんぶん通る、中山道を歩きますが、やがて、今度は石畳の続く

「謡坂石畳」と呼ばれる石畳が敷かれた小径へと

ここの紅葉をみて、あ、ここパンフに載ってた二人組のオネーサンが歩いていたところだ…ということに気づく…

私が訪ねたときには、オネーサンどころか、誰もいませんけど…

ここは、次年度の「みたけ・可児散策きっぷ」のフライヤーにオネーサンの写真じゃなくて…このオジサンの写真が使われることを夢見て…

テンション上げ上げのこのポーズ…

 

 

すでに、上がりにくくなっている五十肩を精一杯振り上げて…

ここまで歩いてきて、確かにここがパンフレットの図になるべく、一番紅葉のきれいなところでした…まあ、訪ねた頃はずいぶん散っちゃってましたけど

 

さてさて、ここは「謡坂石畳」

この坂道を通る旅人は、この あたりの上り坂がとても急なため、その苦しさを紛らわすために唄をうたいながら坂を登っていたことから「うたうさか」→「うとうざか」へと転化し、地名になったのではないかと伝えられているとか…

長く続く坂道…私は歌いたいとは思えず、出てくるのは「ハーハーゼ―ゼ―」と吐息と、膝からの笑い声??のみ…

ここは、誰も歩いていないし、無理無理歌ってみようじゃないか…坂道ソングといえば

♪この坂道を登りつめたら あなたが住む街が見える~

 

高橋研さんが作詞作曲した、加藤いづみさんの「坂道」が真っ先に浮かんだけど、山の中…街はみえないしな…

あ、そうだ、もう1曲あった!!

♪青春は長い坂を登るようです~

AKBじゃない岡田奈々さんの「青春の坂道」

青春じゃなくても、長い坂を登るのです…

 

 

とここで、寄り道…

足元にこんな倒れた案内看板が…

 

隠れキリシタン十字架碑発見場所である

聖母マリア像を眺めておこうかなと…

民家をぐるっと廻って、バスも走る道路にでたところに、いました!いらっしゃいました!

聖母マリアさま

 

 

昭和56年にこの付近からキリシタン信仰の遺物が発見され、江戸時代この付近でキリスト教信仰があったことが知られるように…

そばにあったモニュメント的な石…

十字架が彫られているんじゃないかと思って、寄ってみたけど、特に彫ってはありませんでした…

 

江戸時代、このあたりは隠れキリシタンの村だったよう…美濃は隠れキリシタンの歴史が多く残っており、処刑場や処刑された記録も残っているよう…

隠れ美濃…もとい…隠れみの

と、しょーもないことを思いながらも

弾圧された先祖の人たちの慰霊とこれからの平和を願って、昭和62年にこの像が建てられたとのこと…思わず手を合わせる…

 

この後は、小原城址がみえたので…城址マニアの私…

山城なのに…登っちゃって、ひぃひぃふぅふぅ…

そのブログ、お時間あったら、ついでにどうぞ!!

 

戦国時代の山城…美濃御嵩、小原城址に行く

さて「謡坂石畳」に戻って、その坂の脇に急な石段があって、そこにあるのが、「謡坂石畳の馬頭観音像」

そこへ行く石段が自然に還りつつある感じでいいですなあ

石の屋根、石積で廻りが囲われているだけあって、風化してないで、はっきりと「馬頭」が刻まれているのがよーくわかります…

さて、目指すは、「御殿場」と呼ばれる場所まで

落ち葉で覆われた石畳を登っていきます…

 

ここは、いろは茶屋…

無料休憩所としても利用できる他、コーヒーやジュース、甘酒などの販売など飲みものはあるけど、食事はないようで、ここで休んじゃうと、御嶽宿に戻った時に、お昼時を過ぎちゃって、食べそびれる可能性もなきにしもあらずなので、寄らずに進む

この場所が安藤広重が描いた「木曽海道六拾九次之シリーズ」の「御嶽」のモデルの地のようで、それを示す案内看板

この辺りのこうよう(紅葉)が実に綺麗でした…ホントはゆったりしたいけど、まだ先があるので、とりあえず先に行こうよう!!

 

さらに進む…それにしても、地元の人以外、旅人とは誰ともすれ違いません

 

小径(中山道)の左側に石碑があって

「謡坂一里塚」の案内が、刻まれています…

謡坂一里塚の石碑は、明治41年に二円五十銭で払い下げを受け、その後、取り壊されたとのことで、江戸時代のものは残ってはないようです

 

このあたりは、ちょっと紅葉がキレイ

 

 

 

道の右側に石積で囲われた穴が少し開いていて、そこには水が…江戸時代の旅人はここで水を飲んで、疲れをいやしていたのかも知れないなあ…

今となっては、澱んでいて、呑むどころか顔も洗いたくない感じですけど…

この後、少し車も走れる街道にでて

ここが、十本木立場

木曽路通りの休み茶屋跡、この場所は当時、人夫が杖を立てて籠や荷物をおろし休憩したところから発展し、茶屋などが設けられ、やがて旅人の休憩場所になった場所らしい…

 

石段があったので、登ってみると…

確かに、ここに休み茶屋があったと思われる広場のような敷地が

ここの手前の紅葉(こうよう)がめちゃ綺麗で、気分も高揚(こうよう)しちゃいます…

 

さらに進むと

「一呑の清水」

街道を旅する人々の喉を潤した年中こんこんとして湧き出る清水だそうで、中山道の清水は旅人用が上に、牛馬用が下に造られていて、岐阜県の名水五十選にも選ばれているとか

左の水の中に「一呑の清水碑」「石地蔵」が祀られています…

 

案内石碑は枯れ葉や草木に覆われて…

枯れ葉をどけると、文久元年(1861)皇女和宮が降下する際、この清水を賞味され、大変気に入ったといわれ、後に多治見市の永保寺に滞在の際、わざわざこの水を取り寄せて点茶されたといったことが刻まれていました…

さらに、中山道を進んで…

目指すは、この行き先にある「御殿場」

 

 

このコンクリの塊は…なんだろう…ゲートでも造っていたのかな

「禁裡御所神社仏閣巡拝記念碑」

その手前には

「唄清水」

 

 

歴史を感じる石碑

千村征重(五歩)が

「馬子唄の響きに波たつ清水かな」

と詠ったことから

「唄清水」と名付けられたと云われている場所

当時は旅人の喉を潤したのでしょうが、今は落ち葉に覆われていました

「唄しみず」ならぬ「葉がしずみ」ですな

さらに進むと

唐突に現れた稲荷社…だと思われる…祠にキツネ様がいらっしゃったから

さてさて、まだまだ細久手宿まで、中山道は続くんですが

紅葉が色鮮やかに色づいているこの

「御殿場」と呼ばれているところが、この「みたけ・可児散策きっぷ」のパンフレットのゴール地点…

 

 

中山道最大の通行と云われた徳川家茂に嫁ぐため、降嫁された皇女和宮一育の行列は、4~5千人に及ぶ大行列で、ここ御殿場で休息されたそう

当時、和宮が休憩されるということで、この高台に休憩所が造られた…休憩所と言っても襖を立てて畳を敷いた立派な建物であったため、後に「御殿場」というようになったそうな

高台に昇れば…今では襖も畳もない…フツーの休憩所が…

天気がいいと、色々見えるようで

これが、皇女和宮さまが、みたけ(御嵩)しき…もとい…みた景色…と、ほぼほぼ一緒だったかも知れないな

 

それにしても、よく歩いたものだ…

「みたけ・可児散策きっぷ」の中山道散策コース、パンフレットどおりに、完全踏破だー!!

喰わずに、ずっと歩いたから、きっとかなり瘦せた…はず!!

そうそう…ここにあるトイレは綺麗でした…笑

自然に癒され、ストレスも一緒に水で流されていったかのような爽快感…

いやー、空気が旨い!

でも、お腹が空いた!!空気じゃお腹はふくれないし…それよりも、飲食できる場所って、御嵩駅周辺に戻らないとなさそう…

これから、来た道を引き返すと考えると、ちょっとぞっとしたけど、帰りは、ほとんどが下り坂、行きよりもウンと楽でした…

 

紅葉(こうよう)を楽しみながらも、帰路をいそごうよう

 

 

 

 

さてさて、上ノ郷公民館まで徒歩とほとほ戻って、そこからは、レンタル電動自転車…

で、昼食、午後1時過ぎの時間に寄ったのが

 

やっぱ、中山道を歩いて、古の風に癒されたから、ここは、やっぱり和食でしょうと思って

選んだお店が「和食 江戸川」

おすすめランチとあったので、注文したのが…松花堂弁当

 

食事前には、甘酒(ノンアルコール)のトマトジュース割をサービスでいただき(お店の何とか記念とか言ってたけど忘れちゃった)

 

ジャジャーン…これはこれは豪華な昼食

この「江戸川」を選んで大正解!!ちょっと、贅沢な感じのランチで

 

 

もう美味しくて美味しくて大満足!!

おかわり無料とあったから、つい…苦笑

せっかく歩いて瘦せた??はずだったけど

 

それにしても、よく歩いた!

この和食のお店「江戸川」だけに「乱歩」…もとい「何歩」歩いたか気になり、スマホのアプリをみたら

23090歩…

おお、歩いた!歩いた!!

帰りには、特にほしいとは思ってないけど

御嵩駅開業70周年のキーホルダーまでいただいて

開業70周年にかけて、私も70歳になった時でも、23090歩…歩けるように、精進するぞー!と、このキーホルダーをみるたびに、そう思うことにしよう…きっと、どこかにしまって、2度と見かけることのないキーホルダーのようにも思うけど…

 

さてさて、ひろみ(広見)線で終着駅、御嵩駅まで「みたけ・可児散策きっぷ」を使って出かけた今回の日帰り旅

一言でまとめるなら

「エキゾチック・ジャパン」だったな…

だって「2億4千万の瞳」…GO!ひろみ(広見)線…だけにね…笑


安城市にある…櫻井神社を参拝する!!

2025-01-05 07:32:29 | 歴史史跡

初詣…に関して

「鉄砲も、数うちゃ当たるー!!」

…と思ってるところがありまして

正月3が日は
可能な限り…笑
パワースポットへ…行っておきたい!!!
と思ってる…


いっぱい行けば…ウンよく
どこかの神様が…みつけて拾ってくれるかもしれない…


確率が高くなるよーな気がして…笑



やっぱ数撃たなきゃ当たらないでしょう???



そんなふうに
せっせと神社仏閣に足を運んでいる私…


で…今回書き綴るのが

安城市にある
櫻井神社

今ではNGワード「ジャ〇ーズ」の「嵐」の櫻井翔さんと同じ名前の神社ということで

尼崎にある櫻井神社と同様??
櫻井翔さんファンがこぞってここに参拝しにきているのでしょうか…

いや、それだけでなく
おそらく、ミスチルのファンもこぞって参拝しているものと思われる
いや、負けずにアルフィーの
ファンもこぞって参拝しているものと思われる
さらには、桜井日奈子ちゃんのファンも
櫻井梨央ちゃんのファンも
いや、ひょっとしたら、中日ドラゴンズの圏内でありながら、阪神タイガースファンも多く参拝しにきているに違いない…
(阪神タイガースで「桜井」といえば桜井広大選手ですよね、とっくに引退しちゃったけど…)

そんな
櫻井神社を参拝する


櫻井神社は往古より桜井郷の産土神社として尊崇篤く
平安時代の「延喜式神名帳」に従五位「桜井天神」と記されている古社
当時は「神明社」と称されていたが
1610年、徳川家康の命により本殿の修築が行なわれ、「三河三白山社」として歴代徳川家の崇敬を受けてきたとのこと
ちなみに、「三河三白山」とは、上条白山媛神社、大岡白山神社、桜井神社の総称…徳川家康の祖父、松平清康は出陣にあたり、これらの神社に武運長久を祈願したらしい…徳川家康もそれにならってこれらの三社に社領を寄進したんだとか…
江戸時代の寛永年間に社号は「桜井権現」と改称され、今は、「桜井神社」と改称されているこの神社

ご祭神は伊弉諾尊さま、伊弉册尊さま、 菊理媛尊さま

ちなみに
社殿周囲は小さな丘のようになっており、「比蘇山古墳」という古墳なのだそう
「比蘇山古墳」は前方後円墳だったという説も??

参道はとても長くて

これは
「三の鳥居」

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もう正面に拝殿がみえます!


手水舎


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龍は頭だけ…

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昔は、手水舎の水は井戸水だったんでしょうね…

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しっかり手を浄めて…
もう澱んでしまっている心は簡単には浄められないけど
手だけはしっかりと
この時期、インフルエンザが猛威をフルってますしね…
手はしっかりと浄めるついでに洗って…

石段をあがった高いところにある
拝殿にて「二礼二拍手一礼」

けして、櫻井翔くんに会えますように…
なんては願ってませんよ

なんかサ、クライニュースの飛び交う世の中
少しでも前向きに明るくみなさんが、私自身も生きていけたらと

そう願って
「二礼二拍手一礼」



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拝殿の左右には
狛犬&獅子

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大正時代の狛犬&獅子であるよう

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菅原道真公も合祀されていることから
伏せ牛も…

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奥には本殿がみえました!

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さてさて参拝後は
境内をぐるっと…



県社になる前の…郷社だった頃の社号標が境内の外れにポツンと

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拝殿の石段を下りた左側には

御鍬社跡を示す石碑

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これを進むと、下の方に弁財天社がみえました
廻りの池の水は、すっかりと枯れているけど

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ではでは弁財天に向かって降りていくと
その途中には、御神木…

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櫻井弁財天社の社号標
そして、石鳥居

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この奥に境内社だと思われる
弁財天社


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そして、こちらの境内社は
稲荷社と山神社の合祀

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本殿の裏の森は
「比蘇山古墳」という古墳であるようで
そのそばにある史跡は
「山伏塚及び野田家墓碑」


野田熊勝は、紀伊国野田郷の修験者として718年にこの地に居を定め、この地の大神と共に桜井神社の御祭神の一柱である菊理媛神を奉祀したと伝承されているとか

江戸時代になり、「三白山社」として徳川家の崇敬と庇護をうけて神社は栄え、代々世襲にて野田家は神主をしていたそうな

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桜井神社の神主、野田家代々の墓碑

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この樹木のある小山が「山伏塚」かな
前方後円墳だったという説も
樹木の根元に宝塔があるのが確認できました…

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この「山伏塚」も古墳といえば古墳
「櫻井神社」も「比蘇山古墳」という古墳の墳丘に
鎮座しているし…

もう…ここにこれば
偶然に櫻井翔さんに会ったくらいに「コーフン」せざるをえないでしょう
「コフン」だけにね…

さあ、ここ、櫻井神社で参拝してさ、くらい(暗い)気持ちを「ゴフン(5分)」で吹き飛ばす!!
なんてね…


ちなみに今年は蛇年…
蛇がでるなんて、縁起がいいじゃないか???


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古代史の悲劇のヒロイン弟橘比売が鎮座する入海神社と、その境内にある入海貝塚

2024-12-25 06:41:08 | 歴史史跡

東浦町にある

入海神社を参拝する…

2台ほど停めれる駐車スペースに軽四を停めて、鳥居のある方向へ向かって狭い路地を歩く…と

右手には、神池…

ジミにが泳いでいます…エサをもらえる習慣がないのか、もの音を立てて、こっちへ「コイ!」と呼んでも全然反応がありません!

そんな神池を通り過ぎて

入海神社の第一鳥居へと

入海神社は『延喜式神名帳』に記される宝亀年間(770〜780)の鎮座と伝えられる式内社

ご祭神は

弟橘比売命さま

ご由緒書きによると

昔、日本武尊さまが東征の折、当地の穂積忍山宿禰は水軍を結成し、娘であった弟橘比売命を日本武尊に同行させたという…そして、その旅路の途中、荒天に遭った際、全軍の安泰を祈り、弟橘比売命は海に身を投げ入れたと言われているが、 その後、弟橘比売命の櫛がこの地の紅葉川の辺りに流れつき、この櫛を祀ったことに始まると伝えられる…

全軍の安泰を祈り、弟橘比売命は海に身を投げ入れたから、海に入った神社…だから…「入海」神社…なるほど…と神社の社号に納得…

石段を上る途中には

入海神社御神田

狭いスペースですが、雑草がのびて荒れています…

さらにその石段の右側には

夜啼き石の水鉢

 

寛延2年(1749年)に奉納された石

立て札には「夜なき石 此の石は、当里にありしばしば古城の裏にうたう怪異伝わり 取るもの無し 神に奉り、水器となす」とある…


昔は緒川城にあり、夜になると犬の遠吠えのように鳴いた伝説があるようで

さらに進むと…参道ど真ん中に立つ樹木の奥には

二の鳥居

 

その手前左側には

蕃塀がある…

不浄除けのこの蕃塀は参道を折れて社殿に向う側とは反対側の境内との境界部分に設置されていて…本殿や拝殿の正面には位置してるけど参拝者は境内に入らないと気付きにくい…

え、ここに蕃塀があったんだと…私も後になって気づいた…

 

 

では、二ノ鳥居をくぐって、境内へ…

さっそく…手水舎で…手を浄めようと思ったら…新型コロナウイルス感染症の影響でしょうか…あるいは、参拝者が少ないせいでしょうか…

手水鉢が干上がっていました…

 

このイラストのように、こんなふうに柄杓を使って手水ができる日がくるのでしょうか…柄杓はどこにも見当たりませんし…

でも、そばの水道の蛇口をひねれば…ホースの先から水が出て手を浄めることができます…

またまた、新型コロナウイルス感染症が騒がれてきたこの時期

ここは念入りに…ひょっとしたら、へばりついているかもしれない新型コロナウイルスを洗い流して…と持参している手指消毒液でシュッシュ…

これで、弟橘比売命さまも、新型コロナウイルス感染の悲劇を被る心配もなく…安心でしょう??

 

境内には

弟橘媛命さまが入水時に詠んだ歌が石碑に刻まれていて

 

「佐泥佐斯佐賀牟能遠怒迩毛由流比能/本那迦迩多知天斗比斯妓美波母」

「真嶺刺し 相模の小野に 燃ゆる火の 火中にたちて 問ひし君はも」

歌の意は…相模の野原で火に囲まれた時、火中に立って私を気遣ってくださったあなたが、どうかご無事でありますように…

弟橘媛命さまは、海の神を鎮めるため自らを生贄として身投げした…
すると、荒れていた波はすっかり静まって船は海を渡ることが可能に…
その七日後、弟橘媛命さまの付けていた櫛が岸に流れ着いたといわれるその辞世の句として詠んだ歌が、上記の歌

 

そんな古代の悲劇のヒロイン、弟橘媛命さまに

拝殿にて、二礼二拍手一礼

 

左右の狛犬

土台には「相海(相模の海)」「波静(波が静まる)」と刻まれていました…

 

その拝殿の左右にはずらっと境内社が

まずは

龍神社

毎年Bクラスの中日ドラゴンズはどうでしょう…参拝してた頃、話題になってた阿部選手、京田選手の放出…このブログがアップされる頃は、そのトレードは成功になってるのでしょうか??龍神社とはなんの関係もないけど

さらに拝殿の西側の回廊前には石垣の組まれた基壇が設けられていて、基壇上に境内社が五社並んで

西から

南山神社

北山神社

境内社五社の中央…立派な津島神社

天神社

そして子安社

その手前には、歴史を感じる石灯籠

拝殿の東側には

八幡社と宗像社が合祀…

招魂社

 

その後は、ぐるっと境内を散策

境内の中央にはブルーシートで覆われた、御神木のような木が1本

倒壊(とうかい)の危険性があるからでしょうか…東海(とうかい)地区にある神社だけに…??

倒壊(とうかい)するって、本当かい??(ほんとうかい??)

これ以上、続けると弟橘比売命さまに愛想を尽かれそうなのでやめとこ…

 

他には、お祓い所

愛子皇孫殿下御生誕記念の藤棚

さらには、戦捷紀念碑など

そして、そう…この上記の写真でお気づきかも知れないけど

この境内は

「史跡 入海貝塚」

縄文時代の貝塚なのよ!!

まあ、言うなれば入海貝塚のある場所に入海神社が創建されたのよ!!

その貝塚の見つかった場所は立ち入り禁止になってますが…

案内板…

衣浦湾に注ぐ境川流域の台地上にあり、貝層は主としてハイガイ等によって構成されています…出土した土器は東海地方の縄文時代早期(約7000年前)の基準となり、「入海式土器」と呼ばれています…わが国における縄文時代早期文化を知る上で価値が高い遺跡です…とのこと

さらに、この案内板の裏側に…立入禁止と思われるところに

この案内解説板があったりして…

解説を読むために…境界線に沿って二歩だけ、足を踏み入れてしまったことをお詫びしておく…というよりも立入禁止の柵をちょっとずらさないと…この解説板が読めないので

ハイガイがたくさん出てきたようで…

はー、意外!!(ハー、イガイ)なんては思わなかったけど

 

拝殿が建立されているので、今となっては発掘できないけど…きっと拝殿の下には、7000年前の…はー、意外!!(ハー、イガイ)と思われるものも埋まっているような気がして

いやー、そう妄想しちゃうと、なんだか、悠久の歴史のロマンに浸っているようで、土器土器…もとい…ドキドキしちゃいますよね…


徳川家康の生母「於大の方」が暮らしていた刈谷市にある「椎の木屋敷跡」に行く!

2024-12-21 05:54:23 | 歴史史跡

徳川家康の生母、「於大の方」

 

初代の刈谷城主水野忠政の娘である於大の方が岡崎城主松平広忠に嫁いで竹千代(徳川家康の幼名)を生み、のち離縁された後、坂部城の久松俊勝へ嫁ぐまでの間、移り住んだといわれている

「椎の木屋敷跡」

に行く!!

場所は刈谷城址から北東の方面、亀城公園の駐車場から歩いていくのがベスト、道が狭くて、駐車場は縦列駐車なら2台停めれるスペースはあったかな…

私が訪問したときには、休日というのに誰もいませんでした

だけど、2023年のNHK大河ドラマが「どうする家康」だったので、この「椎の木屋敷跡」も2023年だけは、人がわんさか訪ねていたのでしょうか?

 

このあたりに大きな椎の木が何本も茂っていたことから「椎の木屋敷」と呼ばれるようになったそうな…

江戸時代には霊地とされ、一般の人の出入りが禁止され、鍵がかけられていたそうな…さらには、中には五輪塔が数基、そして地蔵尊が立っていたとか…

 

坂の入り口の左右に「旧蹟 椎の木屋敷跡」「徳川家康生母 於大の方由緒の地 この奥にあり」という石碑があって

 

この坂の上にあって、今では、公園に整備されています…

公園と言っても、遊具なんぞ一切なく…歴史公園ふうに整備されてて…

 

この説明解説板によると

この辺り一帯が「椎の木屋敷」と呼ばれていたようで、屋敷と言っても、城跡のように高台にあるのが、この図からわかります…

 

うっすら紅葉している樹木の中に、石碑やらが点在してて

椎の木屋敷の由来の石碑

そして、ここにどどんと石碑が…

「於大の方由緒の地」

実に歴史を感じる石碑…土台に蔓延る苔が、歴史の重みを感じさせますなあ

 

さらには、なにかか刻まれていそうで、写真を撮りましたが、何も刻まれていなかった巨石…

このあたりが日本庭園のようになっていたのかもしれません

おそらく、「於大の方」も眺めていたと思われる老木

その横、写真の右側に急勾配の石段があり下りてみたけど、その先は草が生い茂ってて、以前、このようなところに入っていって、ヤマトマダニに刺されて大変なことになったから、その先に進むのはやめておきました…ひょっとしたら、遺構らしきものがあったのかもしれませんが…

さて、以上紹介した「於大の方由緒の地」の石碑のある場所は、なんだか昔のまんまで、特別に整備されてる感じはありませんが…

細い道を挟んだ反対側には、ちゃんと公園として、整備されています…

東屋もあり、市民が、観光客がくつろげる施設…

まあ、誰一人いませんが…

石橋も架かっていて、整備された頃は、ここは池だった??のかも…

まあ、土を池に見立てた日本庭園風に整備しただけかもしれないけど…

 

さてさて、誰もいないと思いきや

この方が座ってらっしゃいました!!

 

「どうする家康」での松嶋菜々子さんが???

 

いや、実際は

17歳で家康を産んだ「於大の方」が…

時代の波に流され、離縁されたものの、我が子竹千代を思うような、この表情、実にこの

素晴らしいぞー(像)…って、このオヤジギャグ、小学生か!!

竹千代を産んだ後、実父の水野忠政が亡くなると、その後を継いだ兄の信元は松平家と手を切り、織田方に従うこととなる…
そこで松平広忠は今川家から圧力を受けることを恐れて於大の方と離縁し、実家の水野家に帰すことに…
それは、竹千代がまだ3歳になったばかりの頃だったとか…

そんな「於大の方」の像がここに…

みなさんも刈谷にきたときは、この「於大(おだい)」の像を、ぜひみにきてちょ於大(おだい)…??

もとい、ぜひ、みにきてちょーだい…な

 

 

 


歴史リアル謎解きゲーム「謎の城」in 岡崎市「徳川家康公 天下人への道 〜⻩金龍の伝説〜」で東岡崎駅周辺を歩き廻る 

2024-12-19 06:27:20 | 歴史史跡

JR岡崎駅コンコースにある
岡崎市観光案内所で
あるチラシが目に留まった…

歴史リアル謎解きゲーム「謎の城」in 岡崎市「徳川家康公 天下人への道 〜⻩金龍の伝説〜」 


これ、な、なんと参加費無料、タダ、タダなのよ!!!


チラシの裏に載っている「お試し謎」を解くと
名鉄東岡崎駅周辺の2つの寺社、さらに2カ所の、徳川家康や家康と結びつきの強い家臣たちの像のあるところへ行って「謎解き」をするみたい…

毎日8000歩以上歩くことを日課にしている私にとっては実にありがたい
タダでできちゃう「謎解き」…

ただ難点は、謎解きで歩き廻る舞台である東岡崎駅までの電車賃がかかること…

でも、普段歩いていない街を歩くことは楽しいし
観光も兼ねて…と思って、休日に東岡崎駅まで…

東岡崎駅
ほんの数年前は岡ビル百貨店が鎮座してて
昭和臭漂う東岡崎駅前の雰囲気が好きだったのに…

その岡ビル百貨店は解体が始まってきているようで
見事に覆われていました
駅も今まで自由に岡ビル百貨店のところをとおって行ける通路が解体のため通行不能になってて
ちょっと迷路…
まるで、初めて来た街のように迷いますがな

解体される岡ビル百貨店
完全閉店間近の頃のブログもお時間あったらどうぞ

悲報…完全閉店…行きも帰りも…行けなくなっちゃう岡ビル百貨店!


2021年5月中旬…昭和33年(1958年)創建の名鉄東岡崎駅直結の岡ビル百貨店の異変に気付く…の巻

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さてさて、哀愁深く「岡ビル百貨店」を見つめた後には
「徳川家康公 天下人への道 〜⻩金龍の伝説〜」の謎解きのチラシに載っているストーリー

岡崎に生まれ、苦難の人生を歩みながらも
天下人として、江戸幕府を開いた武将。
その名は徳川家康。

家康公の数奇な人生を紐解きながら、史跡や寺社を巡れば
天下を取れる気運があなたにも訪れる……かもしれない!?

これは序章
もういただいた冊子を見れば廻る4カ所が示されている
その場所で、謎解きをし、その答えを集めて
「はじめの関門」と呼ばれる…たぶん、ちょいと難しい問題を解くと
「序章」はクリア…「次の章」へと進んでいく
まあ、謎解きにはよくあるパターン


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さあ、「謎解き」をし、楽しみながら、かつ旅気分を感じつつ8000歩以上、歩くぞー!!

ということで、まずは
東岡崎駅近くにありながら
寄ったことのなかった
龍海院で「謎解き」をする

まあ、「謎解き」はすんなりと…
龍海院は徳川家康の祖父、松平清康が夢のお告げにしたがって建立
墓所もありました…

山門


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個性的な屋根
芭蕉庵かと勘違いしそうな本堂


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観音堂
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ググると山の上の方に「築山稲荷神社」があるようでして
なんでも岡崎城に入ることを禁じられた瀬名姫は、近くの尼寺にほぼ幽閉される形となり、傍に「築山稲荷神社」があったことから、瀬名姫は現在の「築山殿」と呼ばれるようになったとのこと

その神社はかなり丘を登らなくちゃいけないようで
まだ、序盤、歩き廻ってたら、後半バテると思って
「築山稲荷神社」参拝は見合す
ああ、有村架純さんに会いたかったな
(「どうする家康」の瀬名姫(有村架純さん)を未だにひきずる私…汗)

続いては
「六所神社」へと
ここは、すでに参拝で立ち寄ったことあり

徳川家康の祖父松平清康が創建し、
徳川家康の産土神として
江戸幕府の厚い保護を受けた…家康公ゆかりの神社

お時間あったら、こちらのブログもどーぞ


初詣…第3弾…岡崎の六所神社に行く!!

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参道の途中に名鉄の踏切…

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境内、紅葉がめちゃ綺麗で

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紅葉に見惚れて、見惚れて…肝心の「謎解き」に必要なオブジェがみつからない!(笑)

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楼門
楼門は将軍德川家光の命により建てられたものだとか…

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紅葉が赤い拝殿をバックに映える!映える!

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はい、拝殿にて
ニ礼ニ拍手一礼

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楼門すぐの、石段の傾斜の急なこと
階段(かいだん)落ちしたら、あの世へ、いや、そのまま私が怪談(かいだん)話の主人公として、でてきちゃうかも?


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あ、「謎解き」は、指示されたオブジェをみつけるのを、紅葉に浮気しちゃってたので、ちょっと時間を要したけれど、見つけちゃえば問題なく…

続いては、東岡崎駅直結のロータリーの2階に、どどんといてる
徳川家康公の像をみながら、「謎解き」

バカデカイ徳川家康公の像は、今までも東岡崎駅にきたときに目に留まって、パシャパシャ写真を撮ったことがあるけど

今回、「謎解き」をしなかったら、「四神像」に目を留めることはなかったように思われる…



この家康公の写真は何度も撮ったことがあるけど

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「厭離穢土欣求浄土」と刻まれた台座の写真をも撮ったこともあるけど

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この「四神像」の写真を撮ったのは初めてのような


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いやあ、「謎解き」のおかげで、「四神像」がしっかりと見れてよかった

それまでは、徳川家康公の像の台座に「「四神像(ししんぞう)」がいることを「知らんぞう」になってましたからね

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ここの「謎解き」も難なくクリア

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続いては木製の歩行者専用の
「桜城橋」を渡る

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桜城橋からみえる…ホテルの奥の方で遠慮がちにチラッと顔をのぞかせる
岡崎城

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さてさて桜城橋を渡ったところには
徳川家康公の家臣の
石像が4体ありまして


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まずは
井伊の赤鬼
井伊直政


跨ってる馬の顔と足がないのが気になりますが
きっと肖像画??に忠実に作られているのでしょう
これで井伊のだ…もとい…いいのだ!


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十万石の檄文
榊原康政


そういえば
ずっとここまで歩きっぱなし
足を康政んと…もとい…休まさんと



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檄文は、このように記されておりました…


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伝説の太鼓
酒井忠次

この起きた…いさかいを鎮めるぞー!!

太鼓を叩いてやかましいさかいに…

(みなさんは、どっちのオヤジギャグが好みでしょう)


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家康に過ぎたるもの
本多忠勝

戦いには、ただ喝をいれて…



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さてさて、ここの「謎解き」も問題なくクリア…

しかし、それらの答えを集めて解く
「はじめの関門」で「謎解き」に毛躓く…

「むむむ…」

熟考すること、約30分
「わかんない!わかんない!わかんない!」

でも
突如、閃く!
「わかった!」
「謎解き」の楽しさはこの瞬間といっても過言じゃない!この感覚、便秘気味だったのが、でてスッとした…この感覚に似てるかも??
自力で解けたことがめちゃめちゃ嬉しい!!

「六所神社」は紅葉してたけど、私も気分が高揚!!

舞い上がって、舞い上がって

岡崎市観光協会(籠田案内所)のある場所が
東岡崎駅直結の「東岡崎駅観光案内所」のところだと勘違いしてて

岡崎市観光協会(籠田案内所)は、実はこの4体の石像のすぐ近くにあるのに…

わざわざ、東岡崎駅の「東岡崎駅観光案内所」まで戻って
約10分くらいは歩いて戻って
ここで、衝撃の事実を知ることとなる

な、なんとクリアした回答は、岡崎市観光協会(籠田案内所)で受付だった!石像の近くであったことを

「がーん!」

要は無駄に駅まで戻ったことに

往復約30分弱、時間も痛いが、歩いたことも痛い!というのは
だいたい私、歩数が2万歩こえると、疲れを強烈に感じるようになるのよ!ここまで、すでに、18000歩、ヤバい!ヤバい!
足が棒に化しつある…汗

勘違いで東岡崎駅まで往復し
徳川四天王の石像からは、近くにある籠田公園へと


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もう、勘違いにハットしたよ!…はとだけに

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足が棒になりつつ
さて、ここが岡崎市観光協会(籠田案内所)

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これが、回答を入力する
金庫

実は解答を勝手に間違えて思い込んじゃってて、何度か入力間違いしてたら、金庫が「ピー」と異常音を鳴らして、観光協会のスタッフを困らせてしまいました!

足がになってますが、けして、ボーっとしてた訳でもないのに

すみません!

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さて、金庫の中に入っていたのが、この「謎解き」の冊子

~第ニ幕~


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そして、向かったのが

誓願寺

徳川家康公が自らの官位勅許のなかだちをした泰翁慶岳のために建立した寺
浄土宗西山深草派の寺で
山号は諏訪山


1945年の岡崎空襲によって全焼してしまって、その後、再建もしていない様子

ここが山門
石柱門だったのかな


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このお寺、台地(丘)の上にあって、足が棒なのに、登り坂をひたすら…

墓地はあれど本堂はありません!

「国破れて山河あり」
杜甫(とほ)になった気分で、とほとほ歩く


家康公が幼く竹千代と呼ばれていた頃、弓の稽古をしてた場所で、腰を降ろし休んだと伝わる「虎石」が境内のどこかにあるらしいんだけど、どこにあるのか、わからない…

阿弥陀石仏

 

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境内には、諏訪神社

諏訪神社は、1523年、岡崎城主、松平信貞が、諏訪大明神を勧請したのが創建と伝わる…


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古い!古い!市の指定文化財の石燈籠
岡崎で最も古いものだそうな

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諏訪神社の前に狛犬

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ちゃんと諏訪って…もとい…ってますなあ

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小さい拝殿だけど
ニ礼ニ拍手一礼

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紅葉が綺麗で
奥の建物は、本堂ではなくて、たぶんこのお寺の方の民家

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境内には新しい?地蔵堂が
本堂は、みあたらないけど

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足が棒なのに、よくぞ登ってきたものだ…

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続いては
歩いて近かった隋念寺
ここで解いた「謎解き」は、秒殺

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さてさて、この隋念寺、誓願寺とはめちゃ近いのに、岡崎空襲を逃れたんだって!
それはそれは、立派な城郭寺院でした!

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浄土宗のお寺で
ご本尊は阿弥陀如来さま

正式名称

仏現山善徳院隨念寺

の本堂

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昭和の建立ですが、墓地の奥に、目に留まる三重塔も

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そして徳王稲荷社金刀比羅社へと

同じ境内だけど
こちらは金刀比羅社の扁額のある鳥居


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同じ境内だけど
こちらは徳王稲荷神社の扁額のある鳥居

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拝殿にて
ニ礼ニ拍手一礼

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ここの「謎解き」も解けたものの、これ以上、歩いて廻るには、ホントへばってて、ここまで25000歩、もうこれ以上、歩き回るのは無理と

くたびれて断念

天下人への道 〜⻩金龍の伝説〜の謎は、わからないまま

⻩金龍の伝説(でんせつ)はわからないまま
まあ、歩き回りすぎて、関節(かんせつ)は痛いけどね!

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もう一回、この続きをやりにこようかな、でも電車賃やバス代もったいないかな
と、優柔不断な私
ええかげんに聖夜…もとい…ええかげんにせいや

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