パッちゃんの子猫(前篇)

 大学に勤めていた頃、同僚のSさんが、彼女が車を止めている駐車場に可哀想な猫がいると言ってきた。がりがりに痩せてもう骨と皮ばかりなのに、大学の事務の職員が、学生たちに餌をやるなと通告している。不憫に思ったSさんが持っていたおやつをこっそりあげると、パンでも饅頭でも何でも食べてしまうらしい。猫がパンや饅頭まで食べるなんて、よほど腹が減っているのだろう。これは捨てて置けないと、さっそくコンビニで猫缶を買って、仕事の帰りに寄ってみた。
その猫は、誰もいない駐車場にだらりと寝そべっていた。Sさんの言ったとおり哀れなほど痩せ細っている。「おいで」と呼ぶと、にゃあと小さな声で鳴きながら立ち上がり、ふらふらと歩いて来て、うれしそうに私の手に顔をすりつけた。猫缶を開けるとがつがつと食べる。いろんな毛色がごちゃ混ぜに混ざったタイプの猫で、目は鋭く賢そうだ。栄養状態が悪いため、毛はばさばさである…ふと、腹が膨らんでいることに気がついた。どうやら妊娠しているらしい。困ったことになった。
 しかし、乗りかかった舟、放っておいてはお腹の子猫ともども餓死しかねない。Sさんと餌をやり続けた。毛の模様がパッチワークみたいなので、パッちゃんと名前をつけた。
 やがてパッちゃんが姿を見せなくなった。お産である。毎日キャットフードを持って駐車場を訪ねたが、パッちゃんは現れない。無事に子猫を生んだのだろうか。あの栄養状態である。もしかして母子ともに死んでしまったのでは…Sさんと二人で心配した。
何日経っただろうか。ふたたび駐車場にパッちゃんが現れた。お腹はぺったんこになっている。どこで産んだのだろうか。何匹生まれたのだろうか。パッちゃんはまだ子猫を連れて来ようとはしない。
 子猫が六匹いると学生たちが話しているのを聞いたとSさんが言った。また、トラ模様の子猫が校庭を走っているのを見たとも言う。憶測ばかりで子猫を見ぬまま幾日かが過ぎ、とうとうパッちゃんが子猫を連れて来た。
 一匹だけである。目のくりくりしたキジの子猫だ。親子の前に餌を置いてやると、まず子猫が食べる。パッちゃんは子猫が食べ終わるまで待っている。
 パッちゃんの子猫はまだ警戒心を抱いていて、自由になでさせてはくれない。ご飯を食べているときは一生懸命なので触っても気がつかないが、ふと我に返るとぴょんと逃げてしまう。もう少し私たちに慣れたら、親子を捕まえて避妊手術をし、里親を探さなければならない。パッちゃんは成猫であるぶん、里親を見つけるのは難しいだろう…。
 子猫を眺めているのは楽しい。好奇心いっぱいで、あっちへうろうろ、こっちへうろうろ。パッちゃんは母親らしく、そばで子猫を見守っている。子猫はだんだん私たちにも慣れて、小さな頭をなでても平気になり、鼻をすりつけてくるようになった。
 ある日、パッちゃんは地面に寝そべり子猫にお乳をやった。私たちの前で授乳するのははじめてである。顔をなめてやったり遊びの相手をしてやったりと、パッちゃんはいつにも増して子猫を慈しんでいるようであった。あとから思えば、これが親子で過ごす最後の時間だったのである。パッちゃんはこの餌場を譲り、私たちに子猫を託す決心だったのだ。
 それ以後、パッちゃんは私たちの前に二度と姿を現さなかった。(つづく)
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