救えなかった子猫(前篇)

 何年か前の秋、私は二匹の子猫の命を助けることができなかった。

 その頃、私は大学の研究室で働いていた。建物の三階にある研究室のほかに、地下にも機械を置いた部屋があって、そこで用事をしている時だった。かすかに猫の鳴き声が聞こえたように思った。部屋の扉を開けて、耳を澄ます。薄暗い地階は静かで、何も聞こえない。が、しばらくしてまた鳴いた。子猫の鳴き声だ。どうやら隣の倉庫からのようである。
 とても気になった。倉庫へは入ったことがないが、鍵がかかっているだろうか。機械室を出て、倉庫の扉のノブを回してみる。鍵はかかっていない。私は静かにドアを開けて中に入り、電灯のスイッチを入れた。
 蛍光灯が点灯するまでのちょっとの間をおいて、うずたかく積まれた雑多な物が光に照らし出された。椅子、電気ポット、扇風機。倉庫の右手は外へ通じるシャッターになっていて、少し開いた隙間から差し込む太陽光の中で埃が舞っている。今度はもっとはっきりと、子猫の「にー」と鳴く声が聞こえた。鳴き声はシャッターとは反対側の、左手の奥から聞こえる。
 ごちゃごちゃと物が置かれて狭くなった通路を、体を横にして、声のする方へと進む。倉庫の奥までくると、シャッターの隙間から射す光はもはや届かない。薄暗い蛍光灯の下には背の高い棚が整然と並べられ、棚にぎっしりと置かれた箱には岩石や化石の標本がごろごろ入っていた。
 鳴き声がするのは、一番奥の通路である。両側は無数の標本箱の壁。この箱のうちのどれかに、子猫がいるのだと思われた。
 にゃあ、と猫の鳴き声をまねてみる。「にー」返事があった。耳をそばだて、声の方向を定める。「にゃあ」「にー」大まかな場所を見当つけて、ひとつひとつ、標本の入った箱を覗いていった。
 子猫がいた。何かの化石と一緒に、二匹の黒っぽい子猫が箱の中に入っていた。生後一週間くらいだろうか、手のひらにちょうどおさまるくらいの大きさで、まだ目もよく開いていない。か細い声でにーにー鳴いて、小さな手足を、ぎこちなく動かしている。母猫はどこにいるのだろう。そばにいる様子はまったくない。
 いったん研究室に戻って、助教授の先生に子猫のことを話してみた。私の仕事の監督者である。先生は優しい人なので、とりあえず行ってみましょうと、牛乳とそれを温めるためのお湯を持って一緒に来てくれた。
 もしかすると、母猫が倉庫に出入りするのに使っていたどこかの入り口がふさがれて、入れなくなったのかもしれない。そんな可能性を考えて、子猫を外に出してみることにした。母猫が近くにいれば、きっと子猫の鳴き声を聞きつけて姿を現すだろう。
 母猫が現れるのを待つ間、お湯で温めた牛乳を脱脂綿に浸して子猫に与えてみた。口元につけてみたが、子猫は飲まなかった。
 小一時間も経っただろうか。太陽が傾いて、私たちの影は長くなった。母猫は現れない。塀ひとつ向こうの道路を走る車の音を聞きながら、不吉な考えが頭をよぎる。交通事故で死んでしまったのではないか…。
 子猫を保護するべきか迷った。母猫がいるのであれば、余計なことはするべきではない。判断に悩んだ。倉庫の床の上に、子猫の尿のようなあとがあることも気になった。この時期の子猫の排泄物は、母親がなめて処理するはずだからである。
 が、結局この日はひとまず元の場所へおいて帰ることにした。子猫たちも元気そうに見えた。この判断が誤りであった。この時点で保護すべきだった。(つづく)
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